こんにちは。きのひです。

「帰り船」 辻堂 魁 著 を読みました。

平成22年10月20日 初版第1刷発行

平成30年4月30日 第18刷発行











春一番の南風が、箱崎(はこざき)橋袂(たもと)の行徳河岸に吹き荒れていた。

行徳河岸の風は、日本橋川に沿って蔵や土蔵造りの店が並ぶ小網(こあみ)町の堤道にも吹き荒(すさ)び、黄色い砂塵(さじん)を巻きあげて、昼の日差しをかすませていました。












小網町は江戸十組問屋仲間のひとつ「醤油請問屋」の会所があり、醤油酢油の問屋の土蔵造りが建ち並ぶ町である。

そんな小網町の三丁目から二丁目へ続く川沿いを、行徳河岸で醤油樽を高々と積んだ一台の荷車が、車輪をがらがらと響かせました。












荷車が向かった先は「広国(ひろくに)屋」

間口は九間とさして広くはないし店内の構えもいたって簡素だが、太い梁(はり)を渡した高い天井や、掃除の行き届いた石畳、店の間の磨きあげられ黒光りを放つ板敷に、店の年輪がうかがえます。












店の主人は勘七郎(かんしちろう)で、この春三十二歳になります。

青白い瓜実(うりざね)顔に役者絵を思わせる切れ長の一重。












妻であった春は双子の娘を産んでから半年がたったころ、流行風邪(はやりかぜ)に冒(おか)された。

そのままこじらせて胸を病み、まだほんの赤ん坊の双子の娘らを残して亡くなりました。











春の姉の美早(みはや)は二十七歳。

春の病が癒(い)えるまでと、妹の看病と双子の娘の世話をかねて広国屋へ逗留(とうりゅう)していた。




しかし思いがけず春が亡くなり、母親のように自分に懐(なつ)く赤ん坊の娘らを残して帰ることができなくなりました。












勘七郎に娘らの母親代わりを任された美早。

そのまま広国屋での暮らしがもう二年以上におよんでいる。











ついに勘七郎は人を立てて美早の父に婚儀を申し入れました。

三月になって、小網町の広国屋では主人勘七郎と美早との間で、三々九度の盃(さかずき)が厳(おごそ)かに交わされた。











「高砂や、このうら舟に帆をあげて、月もろともにいでしおの・・・」

と高砂が謡(うた)われ、賑やかな披露の宴が夜更けまで続いた。

















Pridal TIMES さんによれば「高砂」の文句自体はとくに結婚を祝う内容ではありません。

結婚式で謡われる「高砂」とは、室町時代に世阿弥が作った能楽「高砂」のなかで、旅の神主が謡う謡曲の一部。










「高砂や この浦舟に帆を上げて 月もろともに出で汐の 波の淡路の島蔭や遠く鳴尾の沖過ぎて はや住の江に着きにけり」

この文句自体は「高砂で船に帆を上げて島かげを通って、住之江に早くも着いた」といっているだけです。











「それなのに何故、これが結婚式に使われるのか」

「それは能楽『高砂』の物語を知れば納得できます」











「高砂」の主人公である夫婦は白髪のお爺さん、お婆さんで「今まで過ごしてきた日々を忘れるほど齢を重ねた」とのこと。

仲むつまじくふたりで高砂の松の木陰を掃き清めています。











お爺さんは、高砂から遠い住吉に住んでいる。

そうきいて旅の神主は驚きます。











しかしお婆さんは「遠く離れていても、心が通じ合っていて、思いあっていればちっとも遠くない」と事もなげに言う。

この老夫婦は実は高砂と住吉の松の化身でした。




「この2本の松は『相生の松』と呼ばれており『相(あい)とともに生まれ、生きて老いるまで』という夫婦の理想を体現した姿なのです」












the 能 .com さんの「演目辞典:高砂」では「醍醐(だいご)天皇の御世の延喜年間のこと、九州阿蘇神社の神主友成(ともなり)が都見物の途中、従者を連れて播磨国(兵庫県)の名所高砂の浦に立ち寄ります」

そんな文章から演目のあらすじが紹介されている。











「松は古来、神が宿る木とされ、常緑なところから『千歳』とも詠まれることが多く、長寿のめでたさを表します」

また雌雄の別があり、夫婦を連想させる。











室町以来現在に至るまで、能の代表的な祝言曲として、広く人々に親しまれてきました。

「寿ぎ、祝いといっためでたさに貫かれ、どこまでも明るく、崇高で清らかな雰囲気に満ちた、気品のある、名曲中の名曲です」