こんにちは。きのひです。

「若殿八方破れ」 鈴木 英治 著 を読みました。

2012年2月15日 初刷












真田俊介(さなだしゅんすけ)は信州松代(まつしろ)真田家跡取り。

今日は家臣の寺岡辰之助(てらおかたつのすけ)と道場にやって来ました。











平川天神の鳥居のそばにある東田(ひがしだ)道場は、奥脇(おくわき)流という一刀流の流派である。

創始者が真田家ゆかりの者と知って、まだ十歳になる前から、俊介はこの道場に通いはじめました。











大勢の者が竹刀(しない)を手に打ち合っている。

道場中に気合がほとばしり、汗が飛び散っています。











もともと戦国の頃に創始された流派だけに、常に実戦を重視している。

俊介と辰之助は遠慮することなく、道場の真ん中で稽古をはじめました。











道場においては身分は関係なく、存分に打ち込んでくるように辰之助にはいってあります。

辰之助も竹刀を目一杯に振ってくる。











竹刀を打ち合っての激しい稽古は四半刻ほど経過し、さらに半刻近く続きました。

腕は辰之助のほうがまさっており、俊介は受けるのにかなり苦労させられた。











だが稽古というのはこうでなくてはいけない。

常より高い障壁を乗り越えないことには、剣は伸びないと思っています。











稽古を終えて道場からの帰り道「若殿、まっすぐ屋敷にお戻りになるのでございますか」と辰之助がきいてきた。

「うむ、そのつもりだ」











俊介は町をうろつき回るのが好きでした。

これまでも屋敷の塀を乗り越えて一人で夜鷹蕎麦の屋台に行ったりしていた。











しかし昨夜は屋敷に賊が忍び込んでおり俊介は父にそれを報告したばかりでした。

「父上にご心配をかけたくない。できるだけ早く戻り、無事な顔を見せてさしあげたほうがよかろう」












「とてもよいお心がけにございます」

「辰之助、ほめてくれるか」











「もちろんでございます」

「俺は幼い頃からほめられるのが大好きだ。跳びはねたくなってしまう」











「来年で二十歳になられるのですから、おやめください」

「そうか、俺はもう二十歳になるのか。月日がたつのは早いものよ」












「光陰人を待たずと申しますから」

「光陰矢のごとしともいうな」














曹洞宗大本山 總持寺さんによる「今月のことのは 令和2年2月」に「光陰惜しむべし。時は人を待たず。一朝眼光落地を待つこと莫れ」がありました。

「こういんおしむべし。ときはひとをまたず。いっちょうがんこうらくちをまつことなかれ」

「時間を惜しまなくてはならない。時は人を待ってはくれない。無駄に過ごして死を待つようなことではいけない」





「本山開祖瑩山禅師『伝光録』 第十六祖 羅睺羅多尊者章」












各寺院には「木版」という木の板の鳴らし物があります。

「木版」は修行僧が修行に入る際に一番初めに鳴らす物でもあり、一日に何回も鳴らされるもの。











それには「生死事大、光陰可惜、無常迅速、時不待人」(生死事大なれば、光陰惜しむ可し、無常迅速にして、時は人を待たず)と書かれています。

仏道修行に臨むにあたって、一瞬たりとも時間を無駄にすることが無いようにとの覚悟を示している。











そのように目に付きやすい場所に書かれて戒める必要があるほど、人はいたずらに時を過ごしてしまいがちであるのです。

そして当たり前に続くと考えていた日常がいきなり終わってしまう可能性もゼロではない。











「私自身、總持寺での修行中に病気になり自力で歩くことができない状態で緊急入院をした経験があります」

「当たり前に居ることができた場所を失い、死を近くに感じ恐怖を感じました」




「今は幸い回復いたしましたが、私がそうであったように誰でも等しく今の日常を失う可能性があることを自覚しなければいけません」












「しかし、その様な経験があっても近頃私自身時間の使い方が下手であると感じることがあり、この『光陰惜しむべし。時は人を待たず。一朝眼光落地を待つこと莫れ』という標語は身に染みる思いです」

千葉県 般舟寺住職 石川大光老師さん。ご住職でもこのように思われるんですね。











Oggi.jp さんに「『光陰、矢の如し』とは  2023.909.28」という記事がありました。

「光」は「日」、「陰」は「月」をたとえたもので、あわせて「光陰」とすると、年月や月日を比喩する表現として使われる。











「矢の如し」とは「放った矢のように早いこと」を意味します。

それぞれをあわせて、あっというまに過ぎていくものである歳月を、放った矢のようだとたとえた表現。












光陰、矢の如しの語源・由来は諸説あります。

一説では、中国語(漢文)の「光陰如箭(こういんじょぜん)」からきているといわれている。











ことわざでの類語・言い換え表現も書かれていました。




「少年老い易く学成り難し(しょうねんおいやすくがくなりがたし)」

「歳月人を待たず」











「白駒の隙を過ぐるが如し(はっくのげきをすぐるがごとし)」

「一寸の光陰軽んずべからず」











四字熟語での類語・言い換え表現もあります。



「烏兎怱怱(うとそうそう)」 「烏兎」は月日、「怱怱」はあわただしいことを意味する

「兎走烏飛(とそううひ)」 月日が飛ぶように過ぎていくこと











「露往霜来(ろおうそうらい)」 露の季節が過ぎたと思ったら、すぐに霜の季節が来ること

「歳月不待(さいげつふたい)」 時間とは人間の都合に関係なくあっという間に過ぎるもので、時間を大切にすべきであること












これまでに多くの人が時間の使い方を後悔してきたということでしょうか。