昨日の事について、にわかに思い出せはしないが、脳とリンクされた私のサーバーには昨日の献立や、口座の利用履歴、起床時間、あるいはトイレの使用回数に至るまで、生活の事細かなデーターが保存されているのだからいくらでも調べる事は出来る。エージェントに検索の指示さえ出してやれば、私の脳よりも正確で容量の大きなアウターブレインからそういう情報をいくらでも引っ張ってきてくれる。
["かりそめの未来"より]



 人間の脳には限界があり、記憶はどんどん曖昧に、そして場合によっては本人の意志とは関係なく失われてしまう。失われることのない外部記憶を持つことによって人類は大きく進化することになるだろう。大いなる知を獲得し、またアルツハイマー病を含めて脳の記憶に起因する疾病からは逃れる事が出来る。
["かりそめの未来"より]



 繭はノンブレインだ。今時の子供のほとんどはアウターブレインのインプラントをしているけれど、極々まれにアウターブレインに適合しない子供がいる。別に知能が遅れているとかそういう事じゃない。専門的な事になると分からないが、記憶や思考のパターンが一般とはほんの少し違うためにエージェントが正常に機能しない為アウターブレインが使えない。アウターブレインの申し込みをする際の適合検査でそういう一部の人間がはじかれる。外脳不適合症候群と呼ばれ原因も治療法も分からない。年に一度経過観察のために医療機関に適合検査を受けに行く。
["Uneven horizon"より]



 でも、繭は不適合症でノンブレインで、そういうちっさなつまんない約束を忘れちまう。悪気もなく忘れたいからじゃなく忘れちまう。だから、俺は繭が忘れちまった約束も消さないで覚えておいてやろうって決めている。
 本当は、約束を全部守ってやればいいんだ。後回しにしたりせずに、そのたびそのたび全部約束を守ってやりたいとも思う。でもなかなかそうは行かない。むしろ守れもしないんなら約束なんてしなけりゃいいのにとも思う。でも、それも出来ない。
["オールドスタイル"より]



 総じてそういう場所にたむろしている人の8割がたがノンブレインと呼ばれるアウターブレイン化していない人達だというのもなんとなくわかるような気がするのだ。この間テレビのドキュメント番組で"ノンブレイン"の特集をやっていた。その時にテレビでインタビューされた自称・芸術家が言っていた。

「オレ達の事を"ノンブレイン"だと言って馬鹿にする奴らがいるが、それは大きな間違いさ。アウターブレインはな、確かに便利だ。だけど、アウターブレインになっちまったら、便利な代わりに魂が抜かれちまうのさ。そんでもってみんな同じになっちまう。そんな事にあんたたちは耐えられるか?」
["Uneven horizon"より]



 アウターブレインは決して義務ではない。しかし日本の学齢期の子供達の適用率は90パーセントをはるかに超える。大人でもおそらく70パーセント以上の適用率じゃないかと思う。それくらいアウターブレインは社会を変えてしまったんだろう。
……
 それまで、記憶力がいい奴とそうじゃない奴の間には決定的な違いがあったと思う。知ってるか、知らないかの差は大きい。でも、今は知識というのは特別なアドバンテージにはなりえない。アウターブレインは必要な知識を生のままいくらでも保存出来る。それは決して無制限に出来るという事じゃないかもしれないけど、覚えられないなんて事は基本的には起こらない。
 だから、知らないからバカだという話にはなり得ないのだ。知っているか知らないかは、その情報に触れたか触れないか、あるいは意識してアウターブレインに入れなかったかどうかだけの問題だ。
["Uneven horizon"より]



 ワシはなぁ、思うんじゃが、人はいつか死ぬ。それは誰にも平等に訪れる結末だと思っとる。そして、たいていの奴は死んで何年かすれば思い出してくれる奴も少なくなって、どんどん記憶の中から消えていく。
 ノンブレインなら当然だし、アウターブレインにしたところで本当は似たようなもんさ。記憶のデータは残っていても、思い出すきっかけってのがなけりゃ人は死んだ奴の事なんて思い出さんもんだ。
["Uneven horizon"より]



「死ぬまで諦めずに夢を追い続けたんなら、そりゃ幸せだったんじゃねぇのか?」

じぃさんはグラスのバーボンに口をつけた。

「どうかな。ワシには分からん。もしかしたら、諦めちまったから死んじまったのかもしれん。だが、人って奴はいつだって自分が生きている事の証が欲しいもんかもしれん。それが他人に評価されなくてもな。いずれにしても、あいつが大事に読んでた本達が残った。捨てられちまいそうな本達がな。あいつは自分の本を出すことが出来なかったからな。だからあの本達があいつの生きた証のような気がした。だからワシはそれを引き取った。管理機構の奴らにこんな話をしてもはじまらんし、話したくもなかった。あいつとの記憶はあの本と一緒にワシの中に残ればそれでいい。」
{"オールドスタイル"より}



 パラブレインは、もともとはアンダーグラウンドのブレインドラッグとして一部のマニアの間でだけ流通した特別なナノプログラムだ。インプラントされたお互いのエージェントを一時的にハックしてその機能を書き換える。強制的に二人の人間の感情や感覚を並列に接続するアウターブレイン用のドラッグだ。
 これを使ってセックスをすると、自分の快感が相手に、相手の快感が自分のブレインに強制的に流れ込む。そして自分と相手の快感が一緒になり倍増された感覚をまたお互いに共有する。どんどんと増幅されながら共有される快感は想像を超え、一歩間違えば脳が焼け付いて廃人になってしまう。人間とはつくづく愚かな生き物だと思う。
["カナシミ屋"より]



「これはパラブレインの亜種よ。一時的にあなたのエージェントと私のエージェントを並列に繋ぐ非合法のカプセル。中身はエージェントの機能を一時的に書き換えるナノプログラムよ。お互いが思ったことや感じたことを直接にやりとりする事が出来るの。気が進まないならこのままやめて私は帰ってもいい。私と契約してこのカプセルを飲んで心を共有したからと言ってもしかしたら何も変わらないかもしれない。それに違法だから。」
["カナシミ屋"より]



「幸せな感情をみんなが受け取ることが出来れば、人は優しくなれるって事か?」
「たぶん、そういう事じゃないかと私は思うの。憎しみや何かの感情を誰かと共有する事で人は幸せになんかなれない。私はいろんな人のカナシミを集めていたし、それと一緒にいろんなマイナスの感情をいくつも味わってきたけれど、私を幸せにしてくれたのは人のカナシミや負の感情で自分の惨めさを棚上げする事じゃなかった。カナシミの浦にそっと息をひそめて隠れている、そんな小さなヨロコビや何かだったの。」
["オールドスタイル"より]



 そう、2年前ぐらいにエージェントのOSのバージョンアップがあった。その時に、バージョンアップによってノードとの転送速度が上がるとともに、メディア情報について新しいオプショナルな機能が付いたって事だった。音楽や映画、そしてテキスト情報についてより感動的な演出が可能になったとかなんとか言ってたような気がする。
 俺はその頃はギターに夢中でブレインミュージックの新譜をチェックしたりなんて暇も無かったから適当に聞き流していた。

 そう言えば、ニュースで新しいメディアオプションは芸術や文化に対する冒涜だとノンブレインの一部が抗議しているって話も聞いたような気がする。まぁノンブレインってのはとかく新しい技術が広まろうとする時にはなんらかの抗議をするものではあるけれど。
["オールドスタイル"より]



 アウターブレインによって、例えば視覚や聴覚を司る脳の部位に直接アクセスする事により視覚野に文字情報や画像をディスプレイがあるかのように表示したり、鼓膜の振動を経由することなく頭の中に直接音楽を奏でたりすることが可能になった。
 誠は、この感情が喚起されたときに興奮する部位を正確にマッピングすれば、刺激を与える事により人の感情を人為的にオーバードライブする事が可能ではないかという事を考えた。
 人が感じる感情とその脳部位を大量にサンプルする事で感情のデータベースとでも言うべき基礎データができあがる。それをもとにして特定の部位を少し刺激する仕組みが組み込まれたのがメディアオプションの仕組みである。
 フィーリングディレクターというのは、メディアデータの中に、そのメディアにとってもっとも適切な感情の情報をブレンドし、組み込む仕事である。
["オールドスタイル"より]



「なぁ、なんで本なんて集めてるんだ?ノンブレインにしたって、ハンディターミナル使えばいくらでも図書館のネット閲覧でテキストデータなんか保存出来るだろう?」
「おめぇはバカだからわかんねぇだろうが、物語でもなんでもいいんだが、データで読むもんと、紙のページを捲って読むのじゃ全然意味が違うんだよ。特にアウターブレインの奴らは、本を読んでるんじゃねぇ。あれは本の中の文字って記号を記憶してるだけなんだよ。文字を記憶することと、本を読むって事は意味が違う。」
……
「本ってのはな、記憶するもんじゃねぇ。味わうもんなんだよ。これは本ばっかりじゃねぇ。アウターブレインって奴が駄目にしちまったのはな、音楽でも文学でもそうだが、新しいもんに触れた瞬間の感動を無くしちまった事さ。おめぇ達はな、新しいもんに触れた時、それがアウターブレインに取っておけると思ったら、もう真剣にそれと向きあわねぇ。いつでも同じもんが頭ん中にあると思ってな。だから音でも文字でも記号でも絵でも、真剣にその一瞬の出会いを大切に出来ねぇ。その瞬間にしか味わえねぇものを見逃しちまうのさ。そんでもって、見逃してる事すら気づかねぇ。まるで退化しちまったみてぇにな。」
{"オールドスタイル"より}







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