小説友達のnoizさんは、今、ご自身のブログにて「空言」という小説を連載されています。
 私が何かを説明すると何か違う事をになってしまってもアレなので、興味のある方は読んでみて頂きたいと思う。けれど、いきなり読むと頭の中が”???”となってしまうかもしれないとも思う。
 以下の記事は”空言”について書かれている。それを読んでから”空言”を眺めるとなんとなくソレが何なのかが分かるのかもしれないなぁと思った訳です。


文章の意味 言葉の意味 「空言」について (noiz)
http://ameblo.jp/noiz/entry-10198398013.html

 文章をどんどん分解していくと”言葉”という単位になり、文章の時点では込められていたであろう作者の意図は失われる。そしていろんな文章の言葉を拾い集めて再構築すると意図を持たない文章が出来上がる。バロウズのカットアップ&フォールドインという手法についても触れられている上記のエントリーはとても刺激的です。

 で、私はこのnoizさんのエントリーを読んで思いだした事がある。

 それはコンピューターが今ほども進歩する前の頃の話ですが、Elizaというひとつのプログラムが作られました。これはいわゆる”会話プログラム”というものです。
 人間がキーボードから文章を打ち込む。コンピュータが文章を表示して答える。というものです。プログラムの中には様々な言葉達が辞書として搭載されています。そして、人間の打ち込む文章を解析して返答の文章を出力する訳です。
 このプログラムが登場した頃、それとは知らずにElizaと会話した人には、”彼女はなんて理知的なんだ”と、それがプログラムだと気づかない人がいたという話です。チューリングテストというものがあって、キーボードとディスプレイ(文字・文章)を使ったやりとりで、それがコンピューターか人間かを判定するテストです。人間と判定された”プログラム”には知性があるとしませんか?みたいな話なのだけれど、実は人工知能として優れていないものでもこのチューリングテストで合格してしまう事があるようです。
 つまり、言葉の組み合わせが”知能”に裏打ちされたものでなくても、人はその中に人格を感じることがあるという事。

 私は、テキストというのは読者のものである。作者の意図と違う読まれ方をする可能性をも含めてそういうものだという(メチャクチャ端折って書いてますから真意は伝わらないかもしれないけれど)、テキスト理論というものにとても頷く部分があるのです。”テキストは必ずしも作者の意図通りに受け取られるとは限らない”という事と、テキストを分割して単語にまでばらしたあと、ばらばらに再構成してもそこに意味が見いだせてしまう事があるというのはあるいは同じ部分の事を語っているのかもしれません。

 つまり、文章というのは、もちろん書き手の意図を反映したものであるには違いないのですが、もっとも重要な要素のひとつというのは読み手の”想像力”による新しい体験なのだという事です。

 私たちは小説を読みながら、それを自分の記憶の中の体験と知らず知らずのうちに照合し比較し検討し、登場人物達の感情に自分の感情をシンクロさせて読んでいきます。誰かが書いた文章が、言葉が、あたかも自分自身の内なるモノと融合して出来上がる体験というのが読書というものなのかもしれません。

 まったく関連性のない、二つの単語を並べた時にも、私たちはその中に何かしらの物語を描く想像力を持っている。

 ”生きる”とは”方程式”だ

 という文章を見たときに、その二つの単語はなんの脈略もなく今私が抽出した言葉に過ぎないのだけれど、予備知識成しにこの文章を目にしたときに、私たちは単語から様々な物語を想像する事が出来る。

 noizさんのコンテンツを読みながら、つらつらとそんな事を考えたのでした。
 ”空言” とても、興味深い実験小説です。この面白さはストーリーを追う面白さと違って、自分の中の想像力を駆使する面白さかなぁと思ったりします。




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