という記事を、数日前にアップした。
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臓器移植の順番待ちで、たまたま同じ病院の二人の患者が適合した。
76歳男性の市会議員と、18歳女性家事手伝い。
パーソナルデータとしての上記以外のものは公開されていないものとする。すでに主観が入り込む余地があるが、さらなる主観の入り込みをさける為、上記情報のみが公開されたものとする。
すでに二人とも末期状態で、これが最後の移植のチャンスだ。
提供される臓器は一つ。
まだ、どちらの家族にも連絡はしていない。どちらかの患者に移植出来るが、さてどうする。
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二人の友人からコメントを貰った。(ね?ね?友人でいいよねっ!!)
とても、とても嬉しかった。本当に本当に嬉しかった。
本当にありがとう!!
自分でもずっと考えているこの問題について、他の人の意見をどうしても聞いてみたかった。でも、これは答えるのにも勇気がいるんだろうと思い、コメントがつかなくても仕方ないという気持ちでもいた。
この問題について、コメントする時には多分、覚悟がいるんだと思う。そこをおしてコメントをくれた事についてなんて言って応えたらいいんだろうと思うくらいだ。もし、自分が逆の立場で聞かれたら、それにちゃんと応えられるだろうか?
一言で言えば、”命の価値は平等か?”という事になるんだろう。
私は、76歳に移植すると最初に書いた。acnさんは”若さ”の可能性(いろいろな意味で)を尊重された。アランさんは”若さ”を取る不平等さにふれた後、主観によって76歳を選ばれた。
私は”命の価値は平等である”という立場を取りたい。
世の中に命の価値は平等だと言う人は沢山いる。本当はそういう平等だという人の意見をもっと聞きたい気持ちはあるけれど、おそらくコメントは今後付かないだろうとも思うし(だって、こっそりひっそりやってるブログなんだから当たり前)、せっかく応えてくれた人に私も応えたいので今日改めてトピックを立てた。
再度、私は命は平等であるという立場を取りたいと思う。
その上で、76歳が私の身内なら、間違いなく76歳に移植する。逆に18歳が身内なら18歳に移植する。私は本当はどちらでも良かったと言ってもいい。
”私は私がそうしたいと思う人に移植するだろう。”
もし、恋仲にでもなっていれば迷うことなく18歳だ。”かわいい”と感じたという理由だっていい。
あるいは76歳が、移植の礼金に領収証がいらない1億円を用意しようと言うなら、76歳に移植するだろう。
”命が平等である”ならば、どちらに移植されても、あるいはどちらが死に至ったとしてもそれは平等なのだ。
余命が長いだろうから、若い人にというのであれば”余命”や”可能性”という価値をもって命を計る事になる。功績があり、今後の生産性も著しく76歳が高いと判断され、それにともなって移植を行ったとすれば、それは”価値”や”財産”などをもって命を計っている。
何かをもとにどちらかを選ぶというのは、その時点で命は平等ではなくなってしまう。
しかし、命は平等だと最初に宣言してしまえば、どちらに移植しようとそれは等価なのだと思う。
だから、理由が限りなく主観的であろうが、計算高くあろうが、後ろ暗くあろうが、結果は平等なのだ。
私は、”命は平等だ”という立場を取るが故に、限りなく個人的な理由で命の大切さを自分の感性にゆだねたいと思う。いろいろな場面で、命に関しての選択を迫られる時がきたとしても、私は自己中心的であろうと思う。そして、その選択を恥じない覚悟を持とうと思う。