僕が君にあげられるもの

さくら


「これで2度目の春になるね。今日は暖かそうだからちょっと散歩にでも行かないか?」
君は窓際に座って窓の外に顔を向けている。
「去年はゆっくり桜を見に行く暇なんてなかったからね」

窓から差し込む春の光は、君の髪の輪郭を金色に縁取ってきらきらと輝いて見える。印象派の画家にだってこの瞬間のこのひとときを描きとどめる事なんて出来ないんじゃないだろうか?
部屋の中はとても静かで、掛け時計がかすかに時を刻む音だけが、容赦なく時が過ぎ去っていくのだということ主張していた。

「ちょっと着替えてくるから持っててね。君にも何か羽織るものを持ってくるよ、いくら春だといってもまだ風は冷たいからね。」
僕は外出の為に上着を取りに寝室へ向かいながら君に声をかけた。


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変だなと僕が気づいたのは結婚して2度目のクリスマスくらいの頃だったろうか。
彼女はもともと血圧が低いほうではあったけれどど、立ちくらみや貧血を頻繁に起こすようになった。

「最近、調子悪くない?よく貧血起こしてるし。」
「うーん?疲れが溜まってるのかな。鉄分不足かしら?」
君は特に気にもとめてないようだった。2月頃になり、ふらついて、歩くのが困難になってきてこれはおかしいという事になった。

何件も医者を回ってみたがなかなか原因が判らず、結局は症状がどんどん悪化し、あっという間に一人では外出もできなくなってしまった。頻繁に痙攣を起こすようになり、そういう時はじっと症状が治まるのを待つしかない。

彼女は日に何度も壊れた人形のようにガクガクと体を震わせた。
「なんか、私の体、壊れちゃったみたい・・・・」
彼女は力なくつぶやいた。
そして、僕はそういう彼女を黙って強く抱きしめてやる事しかできなかった。

クロイツフェルト・ヤコブ病。
最終的につけられた病名。

歩けなくなり、目や耳がおかしくなる。痴呆症状に至り、最後には寝たきり状態から数年のうちに死亡する。寝たきりの状態になるまでに1年ほどしか時間はかからない。
その間に全てのものを失ってしまう。


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病名が判ってからの数ヶ月は戦争のようなものだった。

症状の進行とともに、さすがに彼女に病気の事をごまかしておくことが出来なくなってしまった。僕の両親や彼女の両親にはあらかじめ彼女の病気の事は説明し、彼女に判らないようにと口止めしていた。

「ねぇ、私の体、どうなっちゃったの?あなたはじきに良くなるよって言うけど毎日だんだん悪くなる。こんなの普通じゃありえない!!私どうなっちゃうの?」

ある晩、食事をしている時に彼女がどうしてもうまく箸を使えなくて、突然に暴れ出してそう叫んだ。
暴れる彼女を抱きしめて、彼女が落ち着くのを待ってから僕は結局全てを話した。

それから、3日ほどは彼女はまったく喋らなかった。食事もしない。こちらから話しかけても、どこか遠くを見つめるようにぼーっとしている。
そっとしておいたほうがいいのか、良くないのか。僕は途方に暮れてしまう。

結局は食べないのかもしれない彼女の夕食を用意して声をかける。
「晩ご飯の用意が出来たよ。一緒に食べないか?」
「もう、いいから。」
彼女はゆっくりと振り向いてそうつぶやいた。
僕が今のはどういう意味なんだろうと回らない頭で考えていると
「本当に、もう、いいから・・・」
と、もう一度彼女がつぶやいた。
部屋の中の時間が止まってしまったようだった。
二人とも目を合わせているのに、僕は何をどうしたらいいのか判らない。頭の中が真っ白だった。真っ白なのに何か言わなくちゃって気分だけがぐるぐると回っている。もういいって、それは彼女を捨ててくれって事なのか?
「よくなんかない!」
気がつくと彼女の肩をつかんで叫んでいた。
「全然よくなんかないっ!!」
肩をガクガク揺すって何度も何度も叫んでいた。気がつくと、僕の目からは涙が止めどなく流れていた。恥ずかしいとは思わなかった。むしろ、もういいんだと彼女に思わせてしまった自分のふがいなさに腹がたっていた。
「僕は最後まで君と一緒にいる。君がなんと言おうとそれは関係ない。これは僕の勝手な思いこみだけど、自分勝手なのかもしれないけど、一緒にいると決めたんだ。君にとって迷惑だろうがなんだろうが、僕はそう決めたんだ。僕のすべてを君にあげる。今、僕は君だけの為に生きている。そうしたいんだ、頼むからそうさせてくれよ・・・・・」

それからは彼女は一度もそのことを口にはしなかった。


まず、僕は仕事を辞めた。
もともと大手のプログラマーをしていたのだが、会社と相談しフリーでの在宅勤務にしてもらった。少しでも彼女のそばにいるために。

医者からは入院を勧められたが、結局は病院にいても出来る治療はなにもない。
それだったらと自宅に連れ帰ってしまった。

だんだんと視力が落ちて、耳が聞こえにくくなり。そうこうしているうちに彼女はどんどん自分を失っていった。みるみる口数が少なくなり、感情というものが欠落していく。
錯乱して暴れる事もあったし、目を離したすきに自殺しようとしたこともある。

彼女の気分が落ち着いている時には、僕たちは向かい合ってお互いの手を握り、いろんな事を話した。
「猫って可愛いわよね」
「え、イヌの方がなついてくれて可愛いんじゃないかな。一緒に散歩に行ったりさ。」
「あなたはイヌ型なのね、イヌ型の人って結構独占欲が強いっていうわよ。」
「イヌ型かどうかはわからないけど、今はこうして君を独占してる事は確かだね」
そういう他愛もない会話を。

思い出話はほとんどしなかった。彼女の記憶はどんどん曖昧になっていく。
彼女と僕の思い出が毎日こぼれ落ちていく。
「ごめん、それ、私覚えてない・・・」
寂しそうにそう言って彼女が笑うから。


彼女は、眠るときに時々、布団の中で声も立てずに静かに泣いた。
僕はそっと後ろから彼女を抱きかかえて、やっぱり声を立てずに泣いた。


冬を迎える頃には、彼女はもうほとんどしゃべれなくなってしまっていた。


彼女から感情が失われたように見えても、僕は毎日彼女に話しかけ続けた。
スーパーで買い物をしていたときに見た近所の子供の話。僕の仕事の事。ネットで見た面白いニュース。明日の献立について。
独り言を言うのが癖になってしまったのかもしれない。でも僕はそれでも満足だった。


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もう、彼女は何も喋らない。表情も変わらない。
僕が話しかけても、電話が鳴ってもまったく反応は無い。
ただ、車いすに座ってどこか遠くを見ている。あるいは静かに眠っている。
まるで、人形のように静かにそこに佇んでいる。


朝彼女を起こして着替えをさせ、食事をとる。だんだん食事をさせる事も難しくなっていくのかもしれない。

午前は仕事に集中する。さすがに全く仕事をしないでも食べられるほどに裕福じゃない。実は彼女の両親からも助けてもらってはいるけれど。

遅い昼食をとり、午後から少し仕事。夕方からは彼女の為だけに使う。スーパーに買い物に一緒に行くこともある。車いすを押して買い物に行くと周りの人が珍しそうに遠目で僕たちを見ている事がある。
食事をしたり風呂に入ったりと二人の為だけの夜の時間はゆったりと過ぎていく。

時々、静かなセックスをする。
その時だけは、ほんの少し君の頬が紅潮し、そしてほんの少しだけ息が乱れる。君の体温を感じ、君を愛おしいと思う。なぜだか、いつも涙がこぼれる。

そして、君を抱きかかえて眠る。


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「寒くないかい?」
君のコートの襟をなおしながら話しかける。
「ちょうど今日あたりが見頃らしいよ」

見上げれば一面の桜。
青い空を、はかなげなピンクの小さな花びらが覆い尽くしている。

小さな女の子とその父親らしい二人連れが通りかかる。
「すいません、シャッターを押していただけませんか?」
僕は持ってきたデジタルカメラを渡してから、車いすの彼女の前にかがみ込んで服の乱れを直してあげる。

「美人が台無しになっちゃうからね」
最後に髪の毛に舞い落ちていた桜の花びらをそっと払う。

「はい、チーズ。」

本物じゃないシャッターの音が、僕と君とのこの一瞬を切り取った。

「ありがとうございました。」
小さな女の子がバイバイっと言って振りむきながら手を振ってくれた。
僕は以前から見ると随分と人当たりのいい人間になったみたいだ。


振り返ると、さっきとまったく同じ姿勢のまま、君の瞳は桜を見つめていた。


<おわり>


*病名と症状の関連についてはいささか事実と異なる可能性があります。もしおかしい部分にお気づきの方がおられましたらご連絡ください。

アップ同日、誤字、言い回しのおかしな部分を修正。