前回、大学生になってから半年〜1年位の期間のことをつらつらと書きましたが、いよいよ、後半スタートです。多分、もうある程度、分かっているとは思いますが、大学は当時は教養部2年@市川市で、専門課程@お茶の水となっています。なので、まあ、医療系の学部と言うことになります(最近はそんなにキッパリ分かれていないらしいです)。と言う訳で、私は教養部で、一留しているんです。まぁ、親不孝だなぁと今となっては思えるんですが、当時は、もっと音楽やりたい!と思っていたので、2年目に8割方単位は取っておいて、わざと留年し、3年目はたっぷりと自由な時間を作るようにしました。それと、当時、同級生に1人、音楽をやっている/音楽好きな金髪・グラサン・迷彩服のO本くんがいて、ちょっとつるんだりもしていました。でも、基本的には、学外の音楽関係の友人達と遊ぶことが多かったですね。

 その頃、K合くんも津田沼のアパートを引き払って、お姉さんと一緒に高円寺のアパートに引っ越したんですよ。因みに、その頃、夏にクーラーつけてる友人はいなかったと思います。なので、私なんかは、駅ビルまで行って、その喫煙所で涼んでいましたね。その頃は、何を聴いていたかと言うと、多分、The Pop Group “How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?”とかCabaret Voltaireの”Voice of America”, “Red Mecca”, “Three Mantras”とかから、もっとマイナーなカセット作品、特に覚えているのは、”Sinn & Form”とかはも聴いてました。後は、大竹伸朗氏の19のシングルで、その中の”Volcano”って曲をヘビロテしてましたね。


The Pop Group “How Much Longer Do We Tolarate Mass Murder?”


Cabaret Voltaire “Voice Of America”


Cabaret Voltaire “Red Mecca”



Cabaret Voltaire “Three Mantras”



19(Juke) single



V. A. “Sinn & Form”


それから、メールアート&ミュージックで、チェイン・レターが回ってくるようになり(一種のネズミ講みたいなもの)、一生懸命、国内外問わず、色んな人やグループに手紙やコラージュやカセット作品を送ったり、もらったりしてました。多分、郵便代だけで(当時)月20000円位掛かっていたと思います。そんな中で知り合ったのが、当時、山梨大工学部に在籍して、膨大な数(最終的には250本程)のカセット作品をリリースしていたDD. Recordsの鎌田忠さんと知り合えたのは、自分には良かったです。彼の作品は、今ならニューエイジとか、インダストリアルとか言われる作風でしたが、海外のインダストリアル・ノイズ系のアーティストと違い、全くと言って良い程、悪意が無かったことがまた不思議なところでした。


Roland SH-101 Synthesizer


そうして、私自身も、Roland SH-101シンセを購入したこともあって、ちゃんとしたポップ・ミュージックを作ろうと思い立ち、最初は本人名義で46分カセット作品”Re-Musik”を、その後はTechno Menses名義で”Requiem In The Sun”を、そうしてK2/K.Kusafuka名義で、”Demise Symphonika”を作って、DD.Recordsから出してもらいました。当時、鎌田さんも海外のディストリビューターとの繋がりがあったらしく、一部の作品は、アメリカのAeonを通じて海外にも配給されていました。


K. Kusafuka “Re-Musik”. 



K. Kusafuka / K2 “Demise Symphonika”



Techno Menses “Requiem In The Sun”


K2 “Musikalchemy 1983”8



M. B. “Das Testament”


あとは、丁度、M.B.の”Das Testament”を聴いて、ぶっ飛んでしまったこともあって、どうやったらこんな音になるとだろうと色々と実験しながら、3本位シリーズ物のカセット作品”ZombieAnatomy”を作ったりしていたので、それらをちょこちょこ抜粋した編集作品”Musikalchemy 1983”もDD.Recordsから出してもらってました。こっちは、K2名義なので、完全に電子音によるノイズ作品でした。そんな中で、一度だけ、鎌田さんにお会いする機会があり、インダストリアルから電子音楽まで時を忘れて話し込んでしまったのも良い思い出です。K2の活動は、基本的にカセット作品を録音して、通販する/交換すると言うスタンスで、ライブはやっていなかったです。その頃は、先ず、サード・アルバム”N.G. Musik”を作り、前回書きました音楽雑誌Fool’s Mateの「日本の音楽」コーナーに送り、EGを思わせる駆動力を感じると評され、嬉しかったです。ただ、その前の2作品も送っていたのですが、どうも編集部で紛失したらしく、直接の書評は掲載されませんでしだ。


K2 “N.G. Musik”


K2 “ZombieAnatomy 1”


そうして、例の3部作を作り、その内1本を、当時、世界的アングラ界の情報を集約していたコミュニケーション雑誌CLEMを通じて、The HatersことG.X. Jupitter-Larsenに送ったら、当時、彼はカナダのバンクーバーでラジオ番組をやっており、その番組で、46分丸々流してくれたそうで、それが分かった時には本当に涙ちょちょぎれました。また、この頃は、Nocturnal Emissionsの”Viral Shedding”にノックアウトされていた時期でもありますので、割とリズミックなノイズミュージックを録音していたと思います。


Nocturnal Emissions “Viral Shedding”



V. A. “Trans Atlantic Overdub”


あとオランダのDe FabriekをやっていたRichard van Dellenが、国際コンピ・アルバム(LP)を作ると言うので、声を掛けてくれて、初めて国際為替で20000円とマスターカセットを送ったのも良い思い出です。ちゃんと、オレンジ盤のLPとなって送られてきました。それが”Trans Atlantic Overdub”で、その中には、Conrad SchnitzlerやEGと言った有名どころも含まれており、感激しましたね。このコンピレーションLPには、メタパーとリズムボックス及びシーケンサーを使った曲”Airam Bondage”で参加しました。この2人(G.X.とRichard)は、今も仲の良い友人として付き合っています。そうそう、話しを戻すと、K2としては、Einstrutzende Neubautenの”Kollaps”やZ’evのビデオの影響もあり、その当時、鉄板や給食用の大鍋などのメタル・ジャンクを集めていました。なので、3部作の後に、カセット作品”Dance Macabre”と”Castrated Musik”を作っています。


Einstrutzende Neubauten “Kollaps”



K2 “Dance Macabre”


ただ、その頃から、相棒のMTRがよく壊れてしまい、何度も千葉の営業所まで運んで修理してもらってました。そこで、MTRが修理中の時に、テープと変則再生とかとギター或いはクラリネットの即興演奏を一発録りで録音して、2本カセット作品”Quietus Simultaneous”を作りました。多分、MerzbowとかJohn Cageとかの影響でしょう。DD. Recordsの鎌田さんと交換した時には、「今回は『石の音』が聴こえないですね。」と言われました。その頃、学外の友人達とスタジオに入って録音したテイクを使ったカセット作品”Erotomagnetism”を作製、丁度、その頃、繋がりのあったドイツ人アーティストと交換で、カセットを出し合おうと言うことで、こちらからは、Die Konsequenz Der Onanie “Ahl”と言う作品を出して、向こうからはK2 “Herzmuskelgewebe”と言う編集版カセットを出してもらったりもしています。その後、この時期の最終作品”Hysterektomie”を作製しましたが、シーケンサーも使ったエレクトロ・インダストリアルな作風になったと思います。なお、この作品は殆ど流通せず、今となっては幻の60分カセット作品です(私自身もマスターテープを紛失しています)。


*ここら辺のカセット作品はオリジナルも紛失してしまい、現物がありません。


私がこのタイミングで、大学の専門課程に進級し、そこで第二の大学生活を送るようになり、その時に受けた基礎医学の授業が面白くて堪らなくなってしまったので、K2としての音楽活動は段々と尻すぼみとなって停止していきました。これが第一期K2の活動です。それ以外にも、K合くんのバンドひがみにクラリネットで参加したり、HくんやN口さんと一緒にスタジオに入ったりしていますし、また、当時、東京のアングラシーンを支えてきたPinakotheca Recordsの佐藤隆史さんと知り合って、インディペンデント・ジャーナルに寄稿したり、公民館運動に参加したり、または、霜田誠司さんの即興音楽とかの企画に出演したりしていましたが、人見知りの激しい私はついぞそれ以上仲良くなれませんでした。その関係で、私とK合くんとHくんで、色んなタイプのアングラ音楽を集めて、それをフェイドイン/フェイドアウトで繋いで行こうとするコンピレーションカセットを作ろうと話しになって、3人それぞれのコネを活かして、参加者を募り、”恥ずかしい人生”と言う60分カセットをSelf・Planの最後の作品として出しています。当時は珍しい黄色のカセットテープを使ったこともちょっと話題になりました。それが第一期K2と言うか、最初期の終わりでしょうか。その間にも、色々と一回切りの曲を時々録音していました。それが大体、1983-1986年の間ですね。その後は、主にリスナーとして音楽を聴いたり、法政大学学館ホールへ観に行ったりはしていましたが、もう、自分では音楽を作ったり、演奏することはなくなりました。と言うのも、基礎医学が面白過ぎて、大学に寝泊まりして、1週間に1〜2回位しか帰らなくなってしまいましたし、風呂も病院のスタッフ用の風呂に入ってましたからね。そうして無事、大学の専門課程は進級していき、首席で卒業、国家試験も無事合格、大学院に入りました。大学院では、猛烈に研究をしていましたが、その時に恩師に会い、その後もずっと気にかけてくれてもらってます。大学院修了後、無事、博士号も貰いましたが、丁度、講座の人事のゴタゴタに巻き込まれて、泣く泣く、学外の病院病理部に就職することになりました。まあ、ここからは、仕事、研究、論文と言う生活でしたので、音楽のことも忘れていました。

その後、第二期K2として活動再開する話しは、またの機会に。