レコード談義の続きです。何とか東京の大学へは無事現役合格した訳ですが、お金もそんなに無かったので、市川市のトタン屋根のボロアパートに居を構えました。ガス・電話・トイレ共同で、お風呂なし(つまり銭湯ですね)・エアコンなしで、大家さんの敷地内と言う条件でしたが、「まあ仕方ないか、教養部は近いし、一応2部屋(6畳と4畳半)あるし」と言うことで3月末に引っ越してきました。ただ、教養部での勉強は、全く興味が持てず、授業はサボりまくってました。物理学とかの実習は流石に出ていましたが、、、。それと、私の田舎は関西語圏であったこともあり、もうオリエンテーションの時から、人見知りも激しく、3ヶ月位は学内に友達は出来なかったですね。標準語が喋れないんだよねー、それが大きなコンプレックスになってました。そんな大学生活を始めて直ぐに、私はお茶の水に行って、それまでに貯めてあったお年玉やその他のお金を叩いて、取り敢えず、TEACの4トラック・カセット・レコーダー(MTR)と一番安いリズムボックスBOSS DR-55とマイクを1本、ディレイを1台、イコライザーも1台購入しました。そのちょっと後に、近くに楽器屋があったので、ショートスケールのベースも購入してますね。

TEAC 4Track Cassette MTR


BOSS DR-55 Rhythm Box 



まあ、大体、そんな機材で、宅録を始めた訳です。あっ、あとカセットデッキも秋葉原で買ったかな?その頃は何にも分からず、ただ4トラックにリズムボックスとシンセかオルガン、ベースなんかの音を録音してみてたと思います。それで、ちょっと大学の友達にも慣れてきた時に、同じアパートにギターを持ってる同級生がいたので、ちょっと借りたりもしてましたね。その時に、カセットデッキも借りて、自分で始めて使ったカセット作品”Infinite Monotone”を自分のレーベル(まあ殆どでっち上げのレーベルでしたが)Self•Planから出したんですよ。TEACのMTRだと倍速で録音するので、クローム製90分テープでも22〜23分までしか録音出来なかったので、出来上がった作品もC-46(46分テープ)が丁度良かったんです。この作品は、取り敢えず、30本位ダビングして、1枚10円か15円の白黒コピーをして 切ったり、貼ったりして作り上げてました。全くチープ極まりない出来でしたが、いきなり、ディスク・ユニオンに扱ってもらえるようにアポ取って、納品に行きなにゃと思って、一生懸命DIYで作ってましたよ。結局、本名名義の垂れ流し即興音楽を2曲収録した”Infinite Monotone”とHospital In Vain名義の原始的テクノポップ作品”Reborn”の2本をディスク・ユニオンで取り扱ってもらったのかな? 

★残念ながら、現物は共に無くしてしまいました。


その後も、2〜3本作ったけれど、店置きはしなかったと思います。と言うのも、精算が大変だったから。

 それで、高校生の時の駿台予備校がお茶の水だったし、大学の専門課程(3年生〜6年生)もお茶の水に通うことが分かっていたので、自分にとって、お茶の水は一番親しみ易い場所になりましたね。それに当時からディスク・ユニオンもあったし。そうして、少ないお小遣いを握りしめて、ユニオンとかで輸入盤や当時、色々と出てきた自主制作盤なんかを買うようになりました。一番最初に買った輸入盤は何だったかなぁ?よく覚えていませんね。多分、まだ、P-Modelの”Perspective”とかヒカシューほ”噂の人類”とかも買っていましたが、この頃から、Throbbing Gristleの”Thee Psychick Rally”とか19 (Juke)の”Ninety Seven Circles”とかを買っていたかなぁ? 



P-Model “Perspective”

ヒカシュー “うわさの人類”


19 “Ninety Seven Circles”


Throbbing Gristle “Thee Psychick Sacrifice”


V. A. “愛欲人民十時劇場”


そうして春も終わりかけて梅雨が始まる前位に、パンク雑誌DOLLにメンバー募集を書いて出したんですよ。そこで、連絡をくれたのが、美大生だったK合くん、Hくん(今やジャズ評論家?)、Hさん(女性で同じ市川市に住んでいたので、良く遊んでた)、後名前忘れたけど女子高生の娘辺りだったかなぁ。それで、取り敢えず、お互いに時間は余りある位あったので、とにかく、音楽の話しは良くしたし、レコードをカセットテープにダビングして交換したりしてた。それも、お互いのアパートやお茶の水の名曲喫茶で。その頃になると、大学学内の友達よりもこう言った学外の音楽関係の友達と過ごして、遊ぶことが多かったですね。また、それぞれの友達を新たに紹介してもらって、ちょっと音楽関係の友達も増えました。K合くんの知り合いの馬之助(本名は今でも知らない)とか一橋大のH本さん、Hくんと同じ大学のN口さんやそのバンド仲間のSさん(この2人はテクノポップ、特にP-Modelのファン)やK西(今やN◯Kのディレクター)なんかかな。K合くんは、当時はThe Jamのファンだったんだけど、自分でプリペアード・ギターを使った実験的作品も録音していたんですよ。Hくんは、その頃、既にKorg MS-10シンセとリズムマシンRoland TR-606それとギターを持っていて、何かをやりたかったみたいです。


Korg MS-10 シンセ



Roland TR-606 Rhythm Machine


そんなこんなで、私とK合くんとHくんとH本さんで、1人5分の待ち時間でオムニバスを作ろうとなって、私は宅録テクノポップみたいな短い曲を2曲MTRで使ったんですが、K合くんは、多重録音したいと言うので、うちのアパートにきてもらって、彼のプリペアード・ギターを重ねて録音しましたね。Hくんは彼の友達にデッキを借りて、ピンポン録音で、何と!インダストリアルな曲を作ってくれました。それから、一橋大のH本さんも、うちのアパートでMTRを使って1曲録音したと記憶したいます。それらの曲を集めて、20分テープにダビングして、”Self•Plan Omnibus”として出しました。


V.A. “Self Plan Omnibus” カセット作品


ジャケは美大生のK合くんの抽象絵を写真に撮って、それをジャケにしました。何か嬉しかったなあ、共同作業って!それを、当時、良く読んでいたFool’s Mateの「日本の音楽」コーナーに送ったら、北村昌士氏に「カセット・メディアの辺境に屈しない制作態度が素晴らしい」みたいなレビュー文章を書いてもらって、皆んなで喜んだこともあったっけ。因みに、この頃の私のニックネームは、「社長」でした。それは、レーベルSelf•Planを運営してたのが由来だと思います。カセット作品自体はそんなに売れなかったけど、その後も、K合くんの大学の学園祭にでっち上げたバンドで出たり、彼が所属していた美大のサークル「ロッケン」のスタジオまで行って、演奏したり、ラジカセで録音したり(これが遠かった。市川から国分寺だよ!)。はたまた、お茶の水のスタジオでジャムったりしていましたが、結局、パーマネントなバンドは、K合くんがリーダーの「ひがみ」以外には出来なかったですね。皆んな、アク(個性)が強すぎたんだよね。その頃かなぁ、私はバイトで貯めたお金で、新しいシンセRoland SH-101を購入したんですよ。これは大きかったですね。なんたって、リズムボックスBOSS DR-55と同期出来るシーケンサー機能もついてましたから。後、ディレイもちょっと良いヤツも買い足したり、エフェクターもちょこちょこ買ってました。その前後で、音楽雑誌Fool’s Mateに、秋田昌美氏が書いていた「世界の音楽」と言う記事があったのですが、そこで、私は、メールアート/メールミュージックの存在を知って、そのネットワークにどんどんのめり込んでいったのですよ。当時は、英語の手紙の書き方も良く知らなかったので、ペンパルの本買って学習したり、実際に色んな「素人」アーティストに作品を発送したりし始めました。その頃は、死体の写真やらポルノやら占星術やらの雑誌(主にBillyやFocus, Fridayなんか)やコピーを破いて、糊で貼りまくったコラージュ作品を作っていました。それと、「俺はもうノイズを演る!」と決心して、K2(本当はKの2乗と表記)を名乗って、1983年にファースト・カセット作品を作り、それを世に出すことになる訳です。ただ、この頃はSelf・Planと、新たにK2のリリースの為だけに使ったKinky Tape Collectionと言うレーベルを兼ねて運営していたこともあって、K2のファーストとセカンドは両方のレーベルから出していた形になっていました。まあ、ファースト・カセット”Student Apathy”は、どうにもアイデアが沸かず、2曲までは出来たのですが、残りの時間を中々埋められませんでした。それで、近くのゲーセンとかに行って、ミニカセットレコーダーで音を録ったり、テレビの音を録ったりして、適当にディレイかけて多重録音したりして、何とか30分テープを完成させました。ジャケは、友達のHくんに頼んで、モノクロ写真を焼いてもらって、それを使いましたね。勿論、モノクロコピーのライナーやアートワークも付けて。個人的には、最初に出来た曲”強姦魔”とB面一杯使った曲”しどろもどろ”はまあまあだと思ってました。そのB面の最後に、K合くんと例の女子高生とトリオでやった「ひがみ」のライブ後の会場音をも入れたんですよ。

K2 “Student Apathy” カセット作品


その頃には、M.B.の”Das Testament”なんかは買っていたのかな?と言うことは、この時点で、既に、Merzbowの1st LP “Material Action 2: N.A.M.”やNordの1stLPも買ってたのか!’z

Merzbow “Material Action 2 N.A.M.”



そんな時に知ったのが、その当時山梨大学に在籍していた鎌田正さんが主宰のD.D. Recordsや大阪のNGなんかの音源も買っていたのだと思います。覚えているのは、モダーンミュージックで、DD. Recordsのカセット作品2本(腸捻転の”脳卒中”とArumekat Orionの”Irarenainda Repo”とソノシート1枚(T. Kamadaの”Another Music”)をバックにして売っていたのを見つけて買ったことと、どこで買ったかは良く覚えていないんですが(多分、五番街?)、大阪のNG (林直樹さんのノイズユニット)のライブカセット”Die Meine Gewalt”を購入したことです。茶封筒にアートワークが貼ってあった装丁でした。ここら辺は良く聴いていました。あとは、K合くんから、ジャーマン・ニュー・ウェーブ関係のものを借りたりしてたかな(今、思えば、Palais Schaumburgだと思う)。


Palais Schaumburg “s/t”


それと、法政大学でのロック・オフ主催のライブは良く行ってたなぁ。特にオールナイトとか。そこで、近藤等則やICP Orcherstraなんかの即興系アーティストを観たなぁ。ただ、期待してたDAFの来日はぽしゃってしまったのが、残念だったけど。と言うことは、その前に、DAFは聴いていたことになるな。多分、一番最初に買ったのは”Fur Immer”だったから。後は、ちょくちょく渋谷の屋根裏とかラ・ママとかののライブハウスには割と行ってた。そんなこんなで、自分としては、セカンド・カセット作品”Melodrama”を録音したのですが、46分カセットで両面2曲ずつと言うことは覚えていますが、内容は全く覚えていません。でも、これは、イースタン・ワークスとかには納品していたと思う。どちらかと言うと、シンセを多用したノイズ作品であったとは思いますが、いかんせんどんなに音楽だったかは全く覚えていません。装丁は、NGに習って、茶封筒にカラーコピー貼り付けたものでした。何本売れたかは分からないです。


(★実物や画像はありませんでした。すまん!)


 今回はここら辺までにしておきます。思い出したら、また加筆するかもしれませんが、度重なる引越しとかで、マスターテープが紛失したり、売り物も無くしたりで手元にないので、多分これ以上は出てこないと思いますけどね。んじゃ、とりあえずここまで!