5月16日のブログ | 気まぐれ戦隊・徒然ンジャー改☆オ~ソレ観ぃヨ☆

気まぐれ戦隊・徒然ンジャー改☆オ~ソレ観ぃヨ☆

某市小学校教師の、映画大好き気まぐれヒーロー物語

今日で5月も折り返し地点。
大学の授業に熱が帯び始めてきたように思う。
正直に言えば大学の授業は、そこそこの単位が取れる力でがんばればいい。
全てに100%は無謀だ、人間は完璧じゃない。
これからの長い人生の道が問われるのだ。
教員採用に向けて、できる限りの力を尽くしたい。

教師は、能力や賢さだけではない。
今日はそれをひどく痛感した。
子どもの弱さに寄り添えないと、その弱さに依拠した関わりがないと、教師はもはや教師ではなく別の存在としてのおとなだ。
だから、自分の価値観だけで相手の行動を否定しないでほしい。
アドバイスのつもりかもしれないが、自分がそう思ったことと相手の受け取りは違う。
だから主観的な忠告よりも必要なのはまず、理解であり、許しであり、受容である。
気にし過ぎかもしれないが、相手の自分への関わりに少し寂しさを感じた。

そのことと関係して、いじめの構造について話す。
「いじめられるほうにも原因がある」なんて言葉は真っ赤な嘘だ。
だからと言って、いじめる側がすべて悪いのかというと、そういう次元の話ではない。
子どものいじめに、どっちが悪いかの論議なんでナンセンスだ。
よくいじめの心理の説明として、次のような話が取り上げられる。
"自分は何らかの辛さや我慢を抱えていてこんなにも苦しいのに、アイツは自分が苦しいと感じることを何ともなしにやっている。それにとても腹が立つからアイツを苦しめてやろう。"と。
つまり、いじめる側は自分の辛さを癒すために、誰かに同じような苦しみ押し付けるのである。
この場合(というかほとんど)のいじめは、子どもの辛さに気付いてやれないおとなの責任だ。
必要なのは子どもの辛さに少しでも近づくことである。
"近づく"というのは、相手の気持ちを理解していこうとする姿勢であるとともに、相手の気持ちに少しでも似ている感情を感じることでもある。
もちろんそういった寄り添うことは、何も子どもに向けてだけではない。
本来すべての人と関わるときの、大切なことではないだろうか。
そんなことを考えた、今日の放課後でした。