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気になる言葉 <第868回>

第四十一侯、『処暑』の次侯、『天地始粛(てんちはじめてさむし)』になりました。

「粛」は鎮まる、弱まるという意味ですから、例年なら、ようやく暑さも落ち着き、万物が改まってくる時季のはずです。しかし、今年の夏は温暖化のせいか、全く一筋縄ではいきません。まだしばらくは我慢の酷暑が続きそうです。

ただ、そうは言ってもよくよく耳を澄ますと、セミの声はいつの間にかツクツクボウシに変わり、夜から明け方まで田んぼには松虫や鈴虫の声が響くようになりました。厳しい暑さの中でも、秋は少しづつ歩を進めていることに慰められます。

 

そうこうしているうちに今週は台風十号がこの地域に向かってやって来そうです。わたしなど、古い話ですが、伊勢湾台風でのトラウマがありますので少し過敏になりがちですが、お互い気をつけたいものですね。

 

この日の朝散歩には、いかにも処暑の夜明けという雰囲気があり、虫の音も涼しげで、とても爽やかに感じました。

 

<写真1>

 

しばらく歩くと、夏の終わりによく目にする鶏頭の赤い花が見えてきました。文字通りニワトリの頭のようなグロテスクな形をしているために苦手な人も多いのですが、最近は赤い色だけでなく、オレンジ色とかピンク、むらさき色などさまざまな色彩もあり、切り花としても親しまれるようになってきました。

この鶏頭の花の歴史は案外古く、平安時代に原産地のインドとか熱帯アジアから伝わったと言われています。

 

<写真2>

 

鶏頭の十四五本もありぬべし (子規)

鶏頭のあかに朝日の朱重ね  (東亜未)

鶏頭の花にもありて裏おもて (鷹羽狩行)

 

この中で、正岡子規の「鶏頭の 十四五本も ありぬべし」という句は教科書などにも載っており、誰もが知っている有名な句ですよね。

この句を詠んだとき子規は脊椎カリエスを患い、激痛を伴う寝たきりの生活を送っていました。子規は中村不折からもらった鶏頭が庭に咲いていることを知っていますが、自分の力で近づき観察できないまで衰弱していたのです。

「目の前で咲きほこる鮮やかな赤い花は来年も咲いているだろうか、、、」子規はそう考えたのかもしれません。

最晩年に詠まれたこの句からは生きることへの執着や、長い闘病生活を過ごした万感の思いが伝わってきます。

 

 

 

今週の<気になる言葉>は、似顔絵などを描くイラストレーターでエッセイストの南伸坊さんのAIについての言葉です。

「AI(人工知能)がいろんなことができるって言ってるけど、似顔絵はAIにはできないと思うんですよ。」と語る南伸坊さんの話が印象的でした。その理由は、「何となく似ている」って

いういい加減なところがコンピュータにはなかなか理解できないからだそうです。

たしかに、そっくりそのままとか、そこから何かを削っていくようなことはコンピュータなら何でもないと思います。

しかし、この特徴が似ているポイントで、後はどうでもいいような似顔絵独特の描き方は今のコンピュータには出来ないのです。

「何となく似ている」という人間臭いファジーな感覚がまだAIには理解できていないから、という指摘がとても面白かったですね。

 

 

 

今週の<旅スケッチ>は、夕方陽が沈んでいく中で見た光と雲の景色です。

 

 

どこにでもあるような田舎道の向こうに夕陽が沈んでいく様子ですが、道の脇にある大きな木の向こうに沈む太陽があり、その残照が木の葉の繁りを通して見えています。

空には夕日の赤い光に染まった雲も見えます。

そして、それらの色が道の表面に反射して複雑な色合いを見せています。

最近は「静けさの中の自然な光と雲」というテーマでいろんな景色を描いていますが、その雰囲気が少しでも皆さんに伝わればいいのですが、、。

 

 

 

今週の<朝の散歩道>の一枚目は散歩道の脇に咲くマルバルコウソウ(丸葉縷紅草)の花です。

 

 

ヒルガオ科の熱帯アメリカ原産の花で、8~10月にかけて道端で他の草に絡みつくように咲いています。

葉は卵型でとがり、花は朱赤色で中心部は黄色です。花冠は直径1.5~2cmで、上から見ると五角形になっています。江戸時代に観賞用として持ち込まれ、それが次第に野生化して繁殖していったもののようです。

何ともかわいらしい花ですが、畑などでは厄介な強勢雑草だそうで、今では生態系被害防止外来種になっています。ただ、これもすべて人間の都合ですが、、、。

 

二枚目は、最近、散歩道の脇でよく見るようになった「稲ホールクロップサイレージ」という白い大きなロールの並ぶ様子です。

 

 

この辺りでは九月に入ると稲刈りが少しづつ始まりますが、最近、その田んぼの中に白くて大きなロールをたくさん目にするようになりました。

これは、牛の餌となる稲が早い時期に刈り取られ白いラップに包まれてロール状にされたもので、正式名としては「稲発酵粗飼料」とか「稲WCS(Whole Crop Silage)」と呼ばれています。

まず、稲の穂と茎葉を収穫機で丸ごと刈り取り、それを円柱状に形を整えます。次に別の作業車がフィルムを巻いて中に薬剤を噴霧して密封します。しばらく置いておくと、中で乳酸発酵が始まり、甘酸っぱい匂いがしてきます。これを積んでおいて冬場の牛の餌にするわけですね。

 しばらくすると、わたしの朝の散歩道にもこの甘酸っぱい香りが漂ってくるはずです。

大事なお米を牛に?、、、と思ったりするのですが、最近の外国産飼料の高騰を考えると安価な国産飼料になるという位置づけなのだそうです。

そういえば、最近、農協が持っていた大きなサイロが壊されて無くなりつつありますが、一つづつのロールがサイロの代わりになっているからなんですね。まさに時代の変化です。

 

 

 

 

1.「AI(人工知能)は万能だと言ってるけど、似顔絵は描けない」

         ー南伸坊(イラストレータ、エッセイスト)ー

 

私と同年配の自称「面白中毒」のイラストレータ南伸坊氏と舌鋒鋭い生物学者池田清彦氏の二人が語り合う愉快な対談本『老後は上機嫌』が出版されました。早速買い求めて読んだのです

が、まさに面白く生きるヒント満載の楽しい本でした。その中からの一つを紹介します。

 

AI(人工知能)がいろんなことができるって言ってるけど、似顔絵はAIにはできないと思うんですよ。

写真みたいに本物そっくりに描くとか、そこから略すみたいなことはできるけど、人間が描く似顔絵みたいなものはAIには描けない。

つまり、コンピュータは写真のような正解があらかじめ分かっていることについては素早く回答できるのですが、似顔絵では一番の特徴を捉え、そこだけを大きく強調して、あとはどうでもいいように描くものであり、決まりがあるところから始まっていないからです。

昔のコンピュータにはパターン認識はできないと言われていたのですが、今はそれを何とか克服してきました。

しかし、根本的なところがまだ違います。それは「何となく似ている」っていういい加減なところがコンピュータにはなかなか理解できないからなのです。

 

人が似顔絵を見て「似てるね」っていう時、何となく面白がって笑ったりします。何で笑うのかなって思うのですが、きっとうれしいからなんでしょうね。

「自分の中でその顔について認識していたことが、似顔絵を描いた人と通じ合った」という喜びのようなものがあるからではないでしょうか。だからAIには似顔絵らしきものは描けるけど、笑える似顔絵というのはなかなか描けないのでは、と思うのです。

 

コンピュータのように計算して描いた似顔絵は、それなりのことでしかなく、笑えるところまではなかなかいけませんね。つまり人は何か意表を突くとか、びっくりするとかあるいは、思ってもいなかったけどたしかに似てるよね、というような意外性のようなものがないと笑えないのです。

残念ながらAIには、まだそのようなアルゴリズムとか手法は、確立していないのが実情です。

 

それではまた。