気になる言葉 <第854回>
第二十侯「立夏(りっか)」の次候『蚯蚓出(みみずいずる)』です。
土の中で冬眠していたミミズが、遅い目覚めで這い出してくる頃、という意味です。
周りはすでに新緑真っ盛り。次第にその緑も深い色になっていきます。長かった今年のゴールデンウイークも終わり、やっと日常が戻ってきた感じがします。
そんな中、一昨日一番上の孫娘が二十歳になり、久しぶりの誕生会をやったのですが、最高の幸せを感じると同時に、わが身の歳も感じる複雑なひと時でした。
日の出も早くなり、朝散歩を始める時間にはすでに強い日差しを感じるようになりました。早い田んぼでは、すでに田植えが始まっており、水面に光る太陽の反射が眩しいく
らいでした。
<写真1>
しばらく歩くと、いい香りがしてきました。野茨(のいばら)の花の香りです。野薔薇(のばら)とも言いますが、散歩道の周りにはこの時季になると直径2㎝ほどの白い花を多数咲かせ、最盛期には辺り一面薔薇の香りが漂わせます。その匂いに誘われて蜂などの訪花昆虫も多く集ってきます。いかにも初夏の風情を感じます。
わが国の野茨と文学のかかわりは、遠く奈良時代にさかのぼります。大友家持らによって編纂された万葉集にも宇万良(うまら)という名で載っているそうです。
<写真2>
古里は西も東も茨の花 (一茶)
野茨の人拒みゐて真白なる (上辻蒼人)
野茨の花咲く坂を下りけり (藤井美晴)
そう言えば、金子みすゞの『野茨の花』という詩もありましたね。
白い花びら
刺のなか、
「おうお、痛かろ。」
そよ風が、、、、
駈けてたすけに
行ったらば、
ほろり、ほろりと
散りました。
白い花びら
土の上、
「おうお、寒かろ。」
お日さまが、
そっと、照らして
ぬくめたら、
茶いろになって
枯れました。
今週の<気になる言葉>は、2014年に亡くなった渡辺淳一の書いた『鈍感力』という本からの言葉です。
医師として医療に携わりながらユニークな小説を執筆し、多くの文学賞を獲得した渡辺淳一さんですが、医師としての経験や作家としての眼差しを通して、些細なことでは揺るがない「鈍さ」こそが、先行き不透明な現代を生き抜く上で最も大切でであり、必要な才能ではないかと考えたそうです。
いくら才能があってもナイーブで敏感過ぎると、少し叱られただけで深く落ち込んで自滅していくことが多く、むしろ鈍感なくらいが丁度いいのではないか、という指摘です。
たしかに、複雑で多くの困難が待ち受けるこの世の中、些細なことにあまり敏感に反応していては身がもちません。
やや鈍感と言われるくらいが丁度いいのかもしれませんね。
今週の<旅スケッチ>は、早い田植えが終わり、育ちはじめた稲田に薫風が吹きわたる広大な田んぼの風景です。
田んぼの上には透き通った青空と気持ちのいい雲が広がっています。いかにも初夏の雰囲気が漂う、思わず深呼吸したくなるような田園風景でした。
勢いよく育ちはじめた初々しい稲の色を、少し多めの白い絵の具を重ねて彩色してみました。遠くにある山が霞んで見えます。
空には真っ白い雲が風に流されるように広がって見えました。白い透明水彩絵の具と不透明水彩絵の具、パステルなどを使って動きを表現してみました。
初夏の空の爽やかでのびやかな広がりを感じていただければ、、、と。
<朝の散歩道>の一枚目、この時季になると散歩道の近くに点在するミカン園の周囲からミカンの花の香りがしてきます。
濃い緑の葉の中に真っ白い花がいっぱい咲きます。まさに爽やかさを感じる初夏の花の一つですね。思わず加藤省吾の『みかんの花咲く丘』にある歌詞の一節を思い出します。
「みかんの花が咲いている 思い出の道 丘の道 、、、」
花蜜柑風に匂ひを放ちけり (岩木茂)
何処より懐かしき香や花みかん (山田暢子)
花蜜柑ゑくぼのやうな匂ひかな (本多俊子)
二枚目は、ユーモラスな葱坊主(ねぎぼうず)の様子です。
初夏になるとよく見かけるようになる葱坊主ですですが、その正体は「花」です。一つの葱坊主(花房といいます)の中には約250~400の小さな花が詰まっているのですね。
こうなるとネギ自体は栄養分を葱坊主にとられるために食用には向かなくなります。
この状態を「とう立ち」と言いますが、ネギ農家にとっては、なかなかの曲者です。
通常の白ネギにはあまり観賞価値はありませんが、最近ネギ属の中でも「アリウム」という植物が生け花やフラワーアレンジメントなどに利用されたりするそうです。
ここに一畝かしこに一畝葱坊主 (山口青邨)
ざわざわと風に首振る葱坊主 (三宅やよい)
背比べ楽しんで居り葱坊主 (福田みさを)
1.「才能を大きくして磨いていくのは、したたかで鈍い鈍感力です。」
ー渡辺淳一(医師、小説家)ー
医師として医療に携わりながらユニークな小説を執筆し、多くの文学賞を獲得した渡辺淳一という人がいました。医師としての経験や作家としての眼差しを通して、些細なことでは揺るがない「鈍さ」こそが、先行き不透明な現代を生き抜く上で最も大切でであり、必要な才能ではないかと考え、『鈍感力』という本を2010年に出版しました。
最近ふとしたことから、その本を読み返す機会があったのですが、改めて納得する部分が多くありました。
一般に「鈍い」ということはいけないことのように思われています。実際、「あの人は鈍いよ」と言われるのと、「あの人は鋭いよ」と言われるのでは、天と地ほどの違いがあり、もし、鈍いと言われた人が聞いたら烈火のごとく怒るでしょう。同様に、鈍感と言われるのもあきらかに否定的な意味として受け取られます。
しかし、それぞれの世界で、それなりの成功をおさめた人々は、才能はもちろん、その底に必ずいい意味での鈍感力を秘めているものです。つまり、それなりの才能が必要ではあるのですが、それを大きくして磨いていくのは、したたかで鈍い鈍感力というわけです。
たしかに、いくら才能があってもナイーブで敏感過ぎると、少し叱られただけで深く落ち込んで自滅していくケースも出てくると思います。事実、私の会社人生の中でも、そういう人を多く見てきました。その人の上司は、彼を勇気づけようと少し叱るくらいの勢いで声をかけたのに、本人は落ち込み、頭を抱え込んでしまい、それ以上先に進めなくなってしまったのです。
一方、何とも逞しい若い人もいました。彼は”蛙の面に小便”ではないですが、上司から少々厳しいことを言われても、その場では多少神妙にしていたものの、しばらくすると
ケロリと忘れ、自分の考えを前向きに進めて行ったのです。もちろんそれなりの微修正はしたのでしょうが、決してめげるようなことはありませんでした。結果的には彼のそのユニークな仕事が認められ、どんどん昇格していきましたね。
鈍感力、それはまさしく本来の才能を大きく育み、花を咲かせていく力ではないかと私も信じるようになりました。
それではまた。