気になる言葉 <第852回> | MIKEのブログ

気になる言葉 <第852回>

初夏を目前にした『穀雨(こくう)』の末候、『牡丹華(ぼたんはなさく)』です。

晩春になり、華麗に咲きほこる牡丹の花が満開になる時季になりました。牡丹に限らず、朝散歩の径の周りにもいろんな花が競って咲いています。

 

私の散歩道の花の中で目立つのが、近くの「ふれあいの森公園」の裏手にある八重桜です。奥に見えるのが公園のこいのぼりです。

<写真1>

 

<写真2>

 

遅れて咲く八重桜ですが、運動会に子どもが踊りに使う「ポンポン」みたいなボリュームのある、何とも派手な花です。

花弁の多さで名前が違うと聞きました。ふつうの桜は6枚で、それ以上は八重桜と言いますが、6~15枚花弁を「半八重咲」20~70枚の花弁を「八重咲」、そして100枚以上のものを「菊咲」と呼びます。

ちなみに、兼六園菊桜という種類は、花弁が300枚もあるそうですからすごいですよね。

 

遅れ咲くこと貫禄の八重桜 (鷹羽狩行)

八重桜袖のごとくに重く垂れ (山口青邨)

手のひらにはづませてみる八重桜 (野口光枝)

 

 

 

今週の<気になる言葉>は、エッセイスト、松浦弥太郎さんの言葉です。

私たちは日常会話の中で、よく「思う」とか「考える」という言葉を使います。両方とも思考に関する動詞なのですが、そのニュアンスの違いを厳密に区別して使っていないような気がしています。

このことについて松浦弥太郎さんは、わかりやすい表現でこんな風に解説していました。

『思う』ときはリラックスしています。ふわふわと流れるとりとめのないイメージに、自分が漂っているようなもので、気持ちもゆるんで、心地よく遊んでいる感じです。

一方『考える』とは、もっと主体性があること。緊張感をもって「さあ考えよう」と決意し、頭を一点だけに集中させたい時に使います。

たしかに、言われるとそうかもしれませんね。しかし、論文などで使うときはともかく、普段の日常会話などでは、あまり厳密に使い分けることもないかな、とも感じますし、皆さんはどう思われますか。

 

 

 

今週の<旅スケッチ>は、私の生まれた半田市にある「半田運河界隈」の風景です。

 

 

初夏も近くなって、いよいよ半田運河界隈の柳たちも新緑をつけ始めました。この風景はミツカン本社の裏手から運河の上流に向かって見た様子です。

この日は朝から南寄りの温かい風が吹いており、柳の枝をそよそよと靡(なび)かせていました。何となく心もふんわりとした感じになる温かい雰囲気がありましたね。

 

この温かさを感じるような柳の葉の黄色がかった緑とか、芝生の緑の配色、空の青さと白い雲の配色などに気を使って描いてみました。

少しでも若葉の柔らかい風を感じていただければ、、、と。

 

 

 

今週の<朝の散歩道>の一枚目は、朝散歩の途中で見た山車祭りの朝の準備風景です。

 

 

阿久比町には町の有形民俗文化財として指定されている山車が地区ごとにあり、合計5台あります。毎年4月になるとこの地区の神社では、勇壮な山車の引き廻しとお囃子

や三番叟などを奉納し、地区ごとに日を分けて今年の豊作を祈る春祭りが行われます。

私の家の近くの宮津地区では4月20,21日が引き廻しでした。宮津地区の山車は、北と、南の二台で白の水引幕と黒の水引幕が特徴で、両方とも江戸時代の作と言われています。

昼の引き廻しの風景もいいですが、早朝の緊張した準備風景もピリッとした雰囲気を感じるなかなか良い風景でした。

 

二枚目は、散歩道の田んぼの畦に咲く春紫苑(はるじおん)の様子です。

 

 

大正年間に渡来した北アメリカ原産の帰化植物ですが、今やしっかり日本の田舎に根を張って存在感を示しています。花期は4~5月でつぼみの時はちょっとした向きにうなだれていますが、咲くとなかなかのきれいさがあります。

よく間違えられるのが6月以降に咲く、同じような花の形をした姫女苑(ヒメジョオン)ですが、姫女苑はつぼみが上向きになっています。

春紫苑は、大正時代に流入してきた外来種ですから、明治大正の俳句には詠まれていませんが、ボチボチ季語として入れてもいいような気がしますね。

短歌とともに。

 

待ちわびて今は惜しみぬ春紫苑 (遊雀)

がんばれよ道に意地張るハルジオン (永井沙呼、16歳)

春の野に ふわりと咲きて むらさきの 

        つぼみうつむき もの思う頃 (白桂)

 

 

 

 

1.「「 『思うこと』 と 『考えること』 は、まったく別です。」

 ー松浦弥太郎(エッセイスト、『暮らしの手帖』編集長)ー

 

私たちは日常会話の中で、よく「思う」とか「考える」という言葉を使います。両方とも思考に関する動詞なのですが、そのニュアンスの違いを厳密に区別して使っていない気がしています。このことについて松浦弥太郎さんが、自身の著書の中で『思うこと』と『考ること』はまったく別です、と語っているのを目にして思わずハッとしました。

 

『思うこと』と『考えること』まったく別です。『思う』ときはリラックスしています。

ふわふわと流れるとりとめのないイメージに、自分が漂っているようなもので、気持ちもゆるんで、心地よく遊んでいる感じです。”鳥の声で遠い夏の朝の記憶をよみがえらせたり”とか。ところが、『考える』となると、話はまるで違います。

「気がついたら物思いにふけっていた」ということはあっても、「気がついたら考えていた」というのはありえません。もしあったとしても、それは錯覚です。

『考える』とは、もっと主体性があること。緊張感をもって「さあ考えよう」と決意し、頭を一点だけに集中させること。仕事のことでも、人間関係でも、何かわからないことでも、「その本質を知る」という目的を持ち、本質を知るために「なんだろう?」と推理を重ねていくプロセスが『考える』ということだと、僕は定義しています。

 

たしかに、よく考えてみると日頃私たちは無意識に『思う』は感情的に、そして『考える』は論理的なニュアンスで使っていますよね。私の好きな絵で言えば、『思う』ことは気ままな

いたずら書きやスケッチのようなもので、自由に気楽な気持ちでやりますが、『考える』ことは言わば真剣なデッサンで一本一本の線や対象物の質感などの観察が必要になってきます。

 

そのために技術レポートとか論文などでは『思う』を使うことは適切ではないとされ、若い頃に先輩からよく注意されたものです。例えば「原因は〇〇だと思う」ではなく、「原因は〇〇と考える」というように。

ただ同時に発想の段階においてはむしろ「思うこと」とか「思いつき」のようなものが大切で、そういうところから「全く新しいアイデアなどが出たりすることも忘れるな」とも指導されました。今思うと、何ともありがたい教えでしたね。

 

それではまた。