気になる言葉 <第843回> | MIKEのブログ

気になる言葉 <第843回>

二月も中旬を過ぎようとしています。第二節気の『雨水(うすい)』です。

降っていた雪がいつしか雨に変わり、積もった雪や氷が本格的に解け始める頃、という意味ですが、固く締まっていた土がゆっくりと潤い始め、春の気配に草木が蘇ります。

昔から雨水の時季は農耕の準備を始める目安とされてきました。

この辺りでもすでに田んぼの荒起こしが始まっています。

 

朝散歩の途中で見る日の出にも、気のせいか春の気配を感じるようになりました。今朝のコースでは、ちょうど老人ホーム(一期一会荘)のチャペル横からの日の出でした。

<写真1>

 

しばらく歩くと周囲が明るくなり、菜の花畑の黄色い色がいっそう鮮やかに見えてきました。この時季、まだ肌寒い時季ではありますが、こういう黄色い可憐な「菜の花」が

一面に咲いているのを見ると、いかにも「あぁ、もうすぐ春だな」と感じ、何となく嬉しくなります。 

 <写真2>

 

ふる里は菜の花明かりのなかにあり (平田紀美子)

日に風に菜の花匂ふ村となる (藤和子)

川眩し土堤に菜の花溢れ咲く (荒川優子)

 

こういう一面の菜の花畑の風景を見ていると、毎年のことですが、山村慕鳥の『風景 純銀もざいく』という詩を思い出します。

 

いちめんのなのはな いちめんのなのはな 

  いちめんのなのはな いちめんのなのはな

    いちめんのなのはな いちめんのなのはな 

     いちめんのなのはな 

   かすかなるむぎぶえ いちめんのなのはな

 

いちめんのなのはな いちめんのなのはな 

  いちめんのなのはな いちめんのなのはな

   いちめんのなのはな いちめんのなのはな   

    いちめんのなのはな

   ひばりのおしゃべり いちめんのなのはな

 

いちめんのなのはな いちめんのなのはな 

  いちめんのなのはな いちめんのなのはな

   いちめんのなのはな いちめんのなのはな 

    いちめんのなのはな

   やめるはひるのつき いちめんのなのはな

 

文字だけで、こんなに一面に広がる菜の花が感じられる、、、何とも不思議な詩ですね。

それもあってか、以前から私の好きな詩の一つになっています。

この詩を読むと、小学生の頃、家の前に広がっていた大きな菜の花畠の中でかくれんぼをして遊んだことを思い出します。服を花粉で真っ黄色にして、いつも母親に叱られた思い出とともに、、。

 

 

 

今週の<気になる言葉>は、国際政治学者で京都大学名誉教授、中西輝政さんの考える心のあり方についての言葉です。

「人が事を処する上で大切なことは、目の前のことは悲観的なほど堅実に手を打っていく。しかし、未来に対しては腹の底から大きな楽観を持てるよう常に心を調え、物事を

大きく捉えるようにする。私は、この組み合わせが大切だと思うんですね。」

つまり、一言で言うと『短期の悲観、長期の楽観』、これが事を成すにあたって一番大事な心のあり方だと考えてる、というのです。

とくに最近のような、失われた30年の後の日本人の悲観的な劣等意識を考えるにつけ、こういう中西先生のような考え方で行くことが最も良いように思えます。

短期的には悲観して堅実に進めながらも、長期的には、もう一度日本の可能性を信じて楽観し、どっしりした希望をもって歩んでいくことの大切さです。

もっと、自分達の持っているはずのポテンシャルに自信をもっていきましょう。

 

 

今週の<旅スケッチ>は、アメリカ出向時代に目にしたミシガンの雪景色です。

 

 

ミシガンの冬は長く、寒さも半端ではありませんでした。すこし町を離れていくとこんな風景を目にすることも珍しくありませんでした。

雪の積もった通りの向こうから朝日が昇ってきました。雪のせいなのか、寒さのせいなのか、空がピンクがかったオレンジ色にうっすらと染まっています。その色が通りの雪

に反射して、幻想的な雰囲気を醸し出しています。

また、木々の枝に積もった雪というのも、逆光の中でで見ると決して白い色ではなく、いろんな色が混ざった不思議な雰囲気を感じるグレイ色に見えます。

 

白さを強調したい屋根に積もった雪とか道端の草などは、画用紙にウヲッシュをした後、マスキングをしておきました。その後にいろんな彩色をし、最後にマスキングを取り除いてから雪を表現しました。また、雪の白い色を塗った後に反射した光のピンク色などの薄い色の彩色を施してあります。

 

 

今週の<朝の散歩道>は、宮津の村の道端に生えている馬酔木(あせび)です。

 

 

毎年この時季になると楽しみにしているのですが、今年は何だか少し早いような気もします。「あしび」とも呼びますが、うす紅色の壺形の花をいっぱい咲かせ、近寄ると微

かに香る、いかにも春の訪れを感じさせる花です。

不思議な漢字を当てていますが、枝葉に「アセボスチン」という有毒成分を含んでいるために、馬が食べると酔ったように足が萎えることから付けられているのですね。

奈良公園の鹿たちはよく知っているので決して食べないそうです。

 

咲くよりは垂るるこころに馬酔木咲く (林翔)

いっせいに馬酔木の花のひとりごと (延原ユキエ)

馬酔木咲く心の鈴も鳴らしたし (子安教子)

 

初めて「馬酔木」の花を知ったのは、教科書に載っていた堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』でした。堀辰雄が奥さんと二人で浄瑠璃寺を訪れ、山門前で見た馬酔木の白い花に感動する場面が印象的でしたね。

 

「まあ、これがあなたが大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄って行きながら、その細やかな白い花を子細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、

そのふっさりと垂れた一塊りを掌の上に載せたりしてみていた。

どこか犯しがたい気品がある。それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。云わば、この花のそんなところが、

花というものが今よりかずっと意味深かった万葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもっと他にあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛されていたのだ。

 

 

 

 

1.「『短期の悲観、長期の楽観』、これが一番大事な心のあり方である」

              -中西輝政(京大名誉教授)-

 

少子化、地方の活力衰退、外交安全保障などなど、日本が抱える内憂外患は深刻さを増す一方で、まさに”混迷窮まれり”の感がしますが、『そんな時代を生きる私たちにとって、大切なことは何か』というテーマで対談した中西輝政さんと櫻井よしこさんの記事の中に、その回復のヒントがあるように感じました。とくに、ポイントになる中西さん

の言葉を紹介します。

 

人が事を処する上で大切なことは、目の前のことは悲観的なほど堅実に手を打っていく。

しかし、未来に対しては腹の底から大きな楽観を持てるよう常に心を調え、物事を大きく捉えるようにする。私は、この組み合わせが大切だと思うんですね。

そうしないと、個々人の生き方も社会の活力も湧いてこない。ですから『短期の悲観、長期の楽観』、、これが事を成すにあたって一番大事な心のあり方だと考えています。

しかし、今の日本人は逆転してしまって、短期的には抵抗の少ない道を選んで易きに流れ、長期的には素直に楽観できないで、心の静穏を欠いてしまい、自虐的な悲観論に陥ってしまう。この心理が少子化や地方の活力衰退などに及んでいると思います。

 

例えば日本経済は、「失われた30年」と言われ続けてきましたが、もうそれは明らかに終わってきている。にもかかわらず、日本人は「日本はダメだダメだ」という自己卑下の

バイアスがかかってしまい、なかなか抜け出せないでいますよね。ここから脱出するには、中西さんの言うように、短期的には悲観して堅実に進めながらも、長期的には、もう一度日本の可能性を信じて楽観し、どっしりした希望をもって歩んでいく、という必要があるのかもしれません。

 

そう言えば、以前読んだ河合隼雄(心理学者)の『幸福論』という本の中に「人間が幸福であると感じるための大切な条件として、『将来に対して希望が持てること』」という言葉

がありましたが、たしかにそうかもしれませんよね。

”景気”の気は、人々の心のあり方ですから、将来への希望をもって、それを良くするために、今こそ私たち日本人は大きく「心機一転」させ、将来への可能性を信じる必要があるのではないでしょうか。

 

それではまた。