気になる言葉 <第839回> | MIKEのブログ

気になる言葉 <第839回>

”日本の七十二侯”では、『小寒』の末候、『雉始雊(きじはじめてなく)』です。

日本の国鳥である雉(きじ)が鳴き始めるころ、という意味ですが、この辺りでは実際に鳴き始めるのは新暦の3~4月頃になります。 まだ鳴き声は聞けていませんが、待ち遠しく感じることもあります。

 

冬至は過ぎたのに、相変わらず夜明けは遅くて夜明け前の朝散歩出発になっています。

気温が冬至の頃より下がっていますので、夜明け直前の空は白くピンクがかったオレンジ色というように染まってきました。 個人的にはキリッとした感じがして好きな色です。

<写真1>

 

このところ目立ってきたのが、散歩道のそこかしこで目にする水仙の花です。

雪の中でも春の訪れを告げる、ということから『雪中花(せっちゅうか)』とも呼ばれています。 この辺りでは今年はまだ雪が降っていませんが、雪の中で見る水仙は確かに雪中の花にふさわしいイメージがありますね。

水仙の原産地はスペインや北アフリカと言われています。 平安・鎌倉時代にはすでに文献に載っていますが、では、どのように日本まで来たのか。

いろんな説がありますが、その中で夢があるのは、人の手ではなく海流に乗って漂着して野生化したという説です。 私としては、いろんな可能性を詮索するより、その夢のある説を信じたい気がしますけれどもね。

<写真2>

 

野水仙咲き盛りつつ松の過ぐ (小黒加支)

水仙のあちらこちらに吹かれおり (内野聖子)

水仙の群れてゐてよし一花よし (竹川美佐子)

 

そういえば、詩人西尾征紀さんの作品に『水仙の花』というフォトポエムがありました。

 

水仙の花を見た/ひととき立ち止まって/

清楚な白い花を眺めた/

寒い風のなかで/咲いている水仙の花にも/

心を惹かれる魅力がある/

清楚な白い花と/細く長い緑の葉の配色も/

なかなか素敵だと思う/

水仙の花は/別名を雪中花という/

昔から冬を代表する花だ/

季節の花には/いつでも再会の歓びがある/

ひととき立ち止まって/水仙の花を眺めた

 

水仙と言えば「福井県の越前海岸に自生する水仙」が有名ですが、このたびの能登地震 による被害はいかがなものだったのでしょうか。 心配になります。

 

 

今週の<気になる言葉>は、若くして亡くなったユニークな哲学者で、子どもたちにも哲学の面白さを易しい表現で伝えていた池田昌子さんの言葉です。

「 人は見事に、自分の見たいものしか見ていない」という言葉は今や有名になっていますが、この言葉を池田さんは

”人間の認識の根本問題であり、大常識である”と表現しています。

私がこの箴言に初めて出会ったのは、塩野七生さんの『ローマ人の物語』に紹介されていたカエサルの「多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない」という言葉からでしたが、その鋭い感性に 思わず唸ってしまった記憶があります。 つまり世界とは、「その人の」感じる世界でしかありえないのである、というのですから、まさに目からウロコでしたね。  そう捉えると、確かにいろんなことがより分かりやすく理解できると思います。 読者の皆さまはいかが感じられるでしょうか。

 

 

今週の<旅スケッチ>は、雪景色ということで、現役時代に出向していたUSミシガン州の思い出の中の作品です。

 

 

真っ白い雪景色の中に家が見えますね。 外は厳しい雪の寒さですが、その家の中には暖かい生活があります。 家の外では遠くに見える林のさらに向こうに湖が見え、その湖面

が白く光っています。 雪国の深い静寂さが伝わってきます。

 

雪の白さの表現は、単純な白ではなく、そこにどういう色を反射させるのかがポイントだ、と先生に教えてもらいましたが、たしかに白い雪の表面にはいろんな周りの色が反射しているわけで、それをどう感じて表現するかが大切な感じがしました。

遠くの草原の色、道の色、そこにできた轍(わだち)の影の色、、よく見ると同じ雪景色もいろんな光の色が存在しているのです。

 

 

今週の<朝の散歩道>は、朝の散歩道の途中で見た紅白の南天の実がたわわになっている様子です。

 

南天は難転と当て字で表記もできるため「災難や難関を転じて福となす」ということから縁起の良い植物とされてきました。 そのために、この辺りでもよく植えられています。

とくに、風水からでしょうか、家の鬼門(北東)に白南天、裏鬼門(南西)に赤南天を植えたりします。

おもしろいのは、福寿草と合わせると「難を転じて福となす」という意味になると考えて、良い掛け合わせになるように、二つをセットで飾ることも多いようです。

また、南天の実は薬用としても知られており、「南天のど飴」などが有名です。

 

南天の実のびっしりと今日も晴れ (奥村啓子)

平凡な日々こそよけれ実南天 (宇恵孝子)

学ぶこと多き日々なり実南天 (与川やよい)

 

 

 

1.「 人は見事に、自分の見たいものしか見ていない」

              ー池田昌子(文筆家、哲学者)ー

 

専門用語に頼らず、日常の言葉によって「哲学するとはどういうことか」を語り続けた池田昌子という人がいました。 残念ながら46歳の若さで亡くなったのですが、亡くなる3年前に出版した『知ることより考えること』というのが私の愛読本の一つで、その中に書かれていた一節です。

 

人は見事に、自分の見たいものしか見ていない。 自分の見えるようにしか見られないという大常識を、今さらながら凄いと思うのである。 いや、これは本当に凄いこと、考えるほどに驚くべきことなのだ。 あんまり当たり前なので、滅多に人は気づかないが、これは人間の認識の根本問題なのである。 すべての人間は、自分の見たいものしか見られない。 見えていないものを見たいと見ても、やっぱり見えるものを見るしかない。

いかな聖人君子といえど、その人が世界を見る見方は、その人が世界を見る見方でしかありえないのである。

すなわち、世界とは、「その人の」世界でしかありえないのである。 だからこそ、このことに気づくと、世界を見る見方が変わるのである。 すべての人がその人の見方で世界を見ている。 むろん自分もそうである。

 

確かにそうかもしれません。 もちろん私自身、意識はしていませんが、自分の見ている世界は、自分の見たい世界なんでしょうね。 この言葉を初めて知ったのは、塩野七生さんの『ローマ人の物語』という本の中で、カエサルが「人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。 多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない」と語ったというのです。

 

実に人間の真理を突いた言葉で、初めて聞くと何だかグサッときますね。 このことを心理学の世界では「確証バイアス」と名づけているそうで、「人は自分の望むものを信じたがり、自分にとって都合のよい情報ばかりを無意識に集めてしまうこと」を意味したものだそうです。

最近はインターネットで容易に情報が手に入る世の中ですが、是非このカエサルの言葉をいつも頭の片隅に置いておきたいものです。 思い込みや先入観で自分の都合のよい情報ばかり集めると大変なことになりかねませんから。

 

それではまた。