じゅんちゃんとのご縁は

 

2020年3月から5月までやってた

王妃のお茶会シリーズ


(= 2019年5月から始まった

当時八木さやちゃんの

自分ビジネスオンライン講座の

コミュニティで勃発した

数々のオトナの本気のお遊びの一つ


ズラを被って王妃言葉で話す

お茶会という名の

王国建設=自分ビジネスの

グループコンサルでもあった)



私が告知用の顔ハメ画像を作る係だったので

 

お茶会を主催した彼女と

繋がったのが最初。

 

 

 

 

 

 

 

 

そのあと

なんか波長が合って

 

夜通しインスタカラオケ大会やったり😄🎤

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

去年は2ヶ月間の宇宙語瞑想で

じゅんちゃんが降ろしてくれた

 

おおきくて優しい宇宙の

メッセージから

 

安堵感、安心感のエネルギーをたくさんもらった

 

 

 

 

 

 

 

 https://youtu.be/oaiF7TMXy4g


 

 

今回

坐骨神経痛がひどくなった時に

遠隔ヒーリングしてくれて

 

その時の

リーディング

(今なにが私に起こっているか)

の内容が

 

驚きとともに

思い当たりすぎだった

 

 

 

'耳から入れる情報が多すぎて

脳が暴走している

 

痛みは脳で作られるから

それが1番弱っている所に出ている'

 

 

この

'耳から入れる情報'

という言葉が

 

具体的にすぐ

思い当たった

 

 

単純に

'人の配信を聞きすぎ'

ということだけでなく

 

物理的に

毎日かなりの時間

 

エアポッドを

耳に差し込んで

 

いろんな情報を

耳から入れ続けていた

 

 

それが

自分が考えているより

ずっと

身体に影響していたんだと

わかった

 

 

料理や片付けをしながら

とか

 

散歩中も

 

一日中

誰かの配信の録画や

エイブラハムのYouTubeとか

 

本の音声バージョンを

オーディブルで聞いたり

 

誘導瞑想の音源を

寝る前に聞いていたりした

 

 

気がつけば6個の

コミュニティに入っていて

 

そのうち3つは

かなり頻繁に

更新があるけれど

 

 

'全部配信を聞かなきゃ'とは思ってなくて

 

自分が聞きたいタイミングで

聞くことにしているから

 

それでいいんだ

と思っていた

 

でも今

考えてみると

 

表面的な

自分への言い訳として

使っていたような気がする

 

 

(他人軸になってないよ

自分で決めてるよ、みたいな?)

 

 

 

その

‘聞きたい'

という気持ちを

よく見てみると

 

 

本当に聞くのが楽しみだから

聞いていたのかどうか?

 

 

いつのまにか

楽しみというより

何か

自分のインスピレーションになるものを

得たいから聞く

 

というようなメンタリティに傾いていた気がする

 

 

だから

 

聞いてるうちに

ふと

もういいかな、っていう感覚になったとしても

 

そこですぐやめないで

聞き続けていた

 

 

 

ちょっと前に

すごく好きでいつも気分良く聞いていた

ある人の配信中に

 

ふっとその人の

声のトーンから

受ける感じが変わって

 

一瞬だけど

音がたわんで揺れる、みたいな

急にスローモーションになったような

おかしな感覚になった

 

話の内容が特に変わったとか

 

嫌な内容だったとかでは

全くなかったので

 

それは

聞いている私の中の

何か、なんだ

ということはわかった

 

うまく説明できないけれど

 

あれは

もしかしたら

 

もう聞かなくていい

 

という

身体からのサインだったのかもしれない

 

 

こういう微妙な違和感を

 

これまで

 

小さな

無視して構わないような

ものとして扱ってきた

 

 

もうちょっと

聞き続けていたら

 

何か自分にとって

インスピレーションになることが聞けるかも

 

みたいな

ビンボーマインドに

 

半ば無意識に

引きずられてた

 

 

そういう

'小さい'こと

と思ってきた

違和感のエネルギーが

 

以前よりもずっと大きく

 

現実に影響するように

なっている気がする

 

 

 

この3週間

一度もエアポッドを触っていない

 

 

 

誰かの声や音楽による

誘導瞑想よりも

 

今はただ

静かに坐るだけの瞑想がいい

と感じているので

 

それをやっていると

とても気分がいい

 

 

 

耳から入れる情報を

大幅に減らしたら

 

明らかに

 

自分の声だけに耳を傾ける

静かな時間が増えた

 

 

 

 

急に配信を聞かなくなって

最初の数日は

慣れるまで

なんとなく手持ち無沙汰になったので

 

何をしたい?

 

いちいち自分に聞いていた

 

ふと

ノートに目がいって

 

何か書きたくなって

 

 

気がついたのは

 

この数年ずっと

ノートは望みを書くもの

 

というのがお決まりになっていて

 

 

日記みたいに

ただその日に起こったことを

書き記す

ということを

 

長いことやっていなかった

 

 

望みを書くのはもちろん楽しいけれど

 

 

 

いつの間にか

 

もっと’望まなきゃ’って

 

ちょっと前のめりな感じに

なってたかもしれない

 

 

 

日記のように

 

日々の出来事を

1日の終わりに

思い返して綴ることは

 

 

その日1日

 

よくやったね

楽しかったね

嬉しかったね

怒ったね

腹立ったね

って

 

 

自分の営みを

 

シンプルに

丁寧に確認して

 

愛してあげる作業みたいだ

 

と思った

 

 

 

 

ふと

 

静かな部屋の中で

 

紙の上を走るペンの音が

聞こえることに

気がついた

 

 

 

配信を聴くのをやめて

 

心に

静けさが戻ってきたから

 

このかすかな音に

耳を澄ませられるように

なったんだ

 

と思ったら

 

 

 

ようやく

ほんとうの自分に

戻ってこれたみたいで

 

 

すごく嬉しかった

 

 

 

 

足の痛みが酷くなりすぎて

 

配信を聴くのをやめざるを得なくなった

 

という事実だけ見たら

 

まさに強制終了なんだけど

 

 

じゅんちゃんのリーディンつのおかげで

 

ほんとに自分に必要だから

起こっていることなんだ

 

って思えたから

 

感謝しかないよ

 

 

 

 

じゅんちゃん

 

 

 

 

本当にありがとう

 

 

 

 最後の画像は


初めてリアルで会った


2021年江ノ島らーめん🍜はなみずき


(私の🍓いちごトレーナーが

似合ってるJUNCO🍓😆🍓🖤🖤🖤)









&


去年の江ノ島神社デート⛩





 

 

 じゅんちゃんのブログは

こちら💁‍♀️💚🐉💚








 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

My Story_2

 

自分のための覚書き

(随時書き足し又は別スレッドで詳しく書く予定)

 

 

 

🌿私は、檀家になっている地元のお寺の坐禅会に熱心に通っていた父親の影響で、高校1年の夏休みに山のお寺に参禅したのがきっかけで、仏教の勉強をしたくて駒沢大学の仏教学部に進んだ。

 

 

🌿1982年6月、語学留学でアメリカ・ネブラスカ州オマハの州立ネブラスカ大学へ。

夏季英語クラス終了の後、学生ビザが延期されたのでミネソタ州ミネアポリスの禅センター(アメリカ人が坐禅の修行と仏教の勉強をする場所)を訪ね、2ヶ月滞在。10月末に日本に帰国。

 

🌿帰国後、出家を希望しているアメリカ人女性を案内して、12月に永平寺その他の禅寺を廻る旅行中、京都の小さなお寺の留守番役をしていた夫と出会い、翌年8月に結婚。

夫は曹洞宗の僧侶で、1976年から5年間、マサチューセッツの森の中に坐禅堂を建てて、アメリカ人と修行していた。寄付された森を開拓して

坐禅堂を建てる生活を5年間、のちに首を痛めて治療のため日本に帰国していた。

 

 

🌿出会って5ヶ月で婚約、その3ヶ月後に結婚したけれど、結婚後2週間で、遠距離の別居婚を選択。当時夫が留守番役として住んでいた京都市内のお寺に夫婦で住むことはできなかったこともあるが、私はお袈裟の縫い方を教えてもらえると聞いて、何の躊躇もなく喜んだ。今から思うと、かなり変わった選択をしたものだと思う。

 

兵庫県の山奥にあるお寺に単身で1年間住んで、手縫いのお袈裟(古代インドで仏陀が制定した伝統を踏襲したお袈裟。如法衣とも言う。)を学んだ。

(手縫いのお袈裟との深い縁については、別記事で。)

 

1983年から1991年までは京都府下のお寺で海外から坐禅にくる人たちと修行。夫は禅の古典を翻訳する仕事も続けた。1992年の1年間は京都市内に住む。

 

🌿1993年8月夫と娘(5歳)息子(2歳)と渡米。夫がヘッドティーチャーとしてミネソタ禅センターミネアポリスに10年住む。

 2003年6月インディアナ州ブルーミントンに移住し、夫はお寺を創立。曹洞宗の海外寺院として登録されているけれど、建物は普通の3階建て。地下室を坐禅堂として使っている。

 

 

🍓2011年12月、日本一時帰国の際、子供の頃好きだったいちごグッズをまた集めてみようかな、とふと思いつく。アメリカに比べて日本はいちごグッズが豊富なので、スーツケースに一杯グッズを詰め込んで、持ち帰った。


翌年2012年の7月、ネット検索でいちごグッズコレクターの人のアメブロ記事を見つける。私の出身地の埼玉県で、いちごグッズ専門のギフトショップをやっていた方が、一時お店を閉めるという記事だった。


もう少し早く見つけていたら、お店に行けたかもしれない、と残念だったけれど、ブログ記事にコメントを入れたくてアメブロのアカウントを作った。まさか自分がいブログを書くとは夢にも思っていなかったけれど、ちょうどその頃旅行中にたくさんのいちごグッズに出会ったので、紹介する記事を書いてみようかと思い、イチゴブログを始めた。





それ以来いちごグッズコレクターでブログを書いている人たちとの交流が始まった。

 

2013年3月には、リアルでお初の日本のいちご好き仲間さん二人と、フロリダのオーランド空港で待ち合わせて、レンタカーを借り、フロリダ・ストロベリー・フェスティバルを3日間楽しんだ。

 

 

(いちご関係の詳細は、長くなるので別記事にて🍓🍓🍓)

 

 

 






 

 

 

 

My Story_1 

 

自分のための覚書き(随時書き足し又は別スレッドで詳しく書くかも)

 

 

 

 

🌿1958年6月16日(月)午後12時31分生まれ

🌿双子座

🌿血液型B

 

 

 

🌿一番古い幼少時の記憶:お手伝いのしげちゃんに連れられて、呑竜(どんりゅう)保育園へ通う。お寺が経営している保育園で、山門の近くにあった駄菓子屋さんでブリキの金魚のじょうろを買ってもらった思い出。

 

お弁当箱が、小さな楕円形の赤いアルミ製で、水彩画のような猫が描いてあった。母が先の尖ったもので削って書いてくれた平仮名の名前が、お弁当箱の裏にあったのは、後年の記憶で覚えている。

 

保育園の庭で遊んでいて、滑り台の上で男の子に親指を噛まれた。包帯を巻いた指先を見ている記憶。

お昼寝が嫌いで、いつもずっと目を開けていた。

部屋の中でみんなが集まっているとき、なぜか一人で外にいて、ビーズのネックレスの両端を持ってブンブン振っていたら、糸がちぎれてビーズがばらまかれた。

 

 

🌿家は曹洞宗(禅宗)のお寺の檀家だったけど、幼稚園はキリスト教だった。朝とお帰りの集まりの時にお祈りをしていた。’てんにましますわれらのちちよ。ねがわくはみなをあがめさせたまえ。みくにをきたらせたまえまえ。。。。’今も、お祈りを全部覚えている。

 

クリスマスの時、降誕祭の紙芝居を園児が一枚ずつ持って、裏に書いてある話を読み上げる、というのがあって、私はなぜかお金持ちのおばさんが’オホホホホ’と笑う台詞を読んだら、みんなが笑っていたのを覚えてる。

(あれって、どんな話だったんだろう?全然記憶にないけど、もしかしてサンタクロースの話だったのかも???)

 

ある時、ディズニーのバンビの柄の、裾にレースのついたシュミーズ一丁で立っていたのを覚えてる。あれはお昼寝の時?服を汚したからだったのか?

白い綺麗なレースがたくさん付いていて、大好きなシュミーズだった。

 

お弁当の時間には牛乳屋さんがフルーツ牛乳を届けにきていた。冬はお弁当がつめたくならないように温める棚があった。

 

幼稚園の名前、覚えていたのに、、、何だったっけ、、、検索しても何も出てこない。そうだ、確か園長先生の名前をとってトモエ幼稚園だった。

 

薬屋のむすこ、ヤスオくんが一緒だった。ヤスオくんちに遊びに行ったら、おじいさんがコタツで大きな柿が熟して柔らかくなったやつを、スプーンですくって食べていた。

 

学区の区切りが、うちの隣の食堂までが東小学校、その先にあるヤスオくんの家は西小学校だったので、それっきり遊ぶことはなかったな。

 

 

 

住んでいた家は旧中山道沿いにあって、借家だった。裏に大家さんの家があった。

いつ頃からあの家を借りていたんだろう?

1956年に脳溢血で亡くなった私の祖父が、この家の裏で写した写真を見たことがあるので、少なくとも私が生まれる前から家族で住んでいたことは確か。

 

 

父は東工大の受験に失敗して神田の電気学校に通っていたが、私の祖父が脳溢血で亡くなり中退。借りている家の通りに面している部分をお店にして、ラジオ、テレビを扱う電気屋を始めた。その後、電気屋は倒産して、私が小学生の頃には電気工事の有限会社をやっていた。

 

 

あの頃は駅から結構離れたところに商店街があって、うちの左隣は食堂。銀行、家具屋、紙問屋、瀬戸物屋、薬局、洋品店、靴屋、、、、

右隣は乾物問屋、毛糸屋、お菓子屋、お茶屋、写真屋、金物屋。

家の向かいはタイヤ屋兼車修理、その隣には小さな医院があった。

 

 

毎年11月3日に秋祭りがあって、各町内から山車が5、6台、旧中山道の商店街をねり歩いた。七夕の時も同じで交通規制になり、道の両側にずらっと露店が並んでいた。お祭りが大好きで、夜店の明かりが連なるのを見てワクワクした。

 

自宅のすぐ前の歩道にも夜店のたこ焼き屋さんとか出るので、夜店の隙間を抜けて玄関から家に入る。お祭りの真っ只中に住んでいる感じが、ちょっとウキウキして楽しかった。

 

 

一昨年(2020年)の秋に日本に帰国した時

数年ぶりに街の中を歩き回った。

お墓参りに行き、かつての街並みを尋ねると

まだ残っているパン屋さんや文房具屋さん、毛糸屋さんもあった。

 

私が育った借家は、確か3年前にはまだそのままだったのに

全て取り壊されて、その区画だけ高い雑草が生い茂っていた。

(左隣は昔からある乾物問屋、右隣は銀行の駐車場になっていた)

 

裏にあった大家さんの家も一つづきで無くなっていたので

ずっと奥のほうに、小さな裏道に面した家が何軒か見えた。

 

昔はうちの裏玄関から出て、大家さんの家の横を通り過ぎて

綺麗な木戸を開けると、その左手に屋根付きの井戸があり

 

その井戸を囲むように小さな家が数件、片側には三軒長屋、

その横は

通りに面して左隣の乾物問屋の裏にあった大きな蔵の壁になっていた。

 

 

隣の銀行の脇の小道から、さらに裏道に入って

昔の井戸がまだあるのか探し回ってみたら

 

あった。

 

中へ入っていけないので井戸があるかどうか見えなかったけど

草ぼうぼうの中に

朽ちかけた屋根が見えた。

 

右手の建物が

昔の三軒長屋の位置になる。

 

 

 

 

草ぼうぼうの路地の入り口から見たら、井戸のあるエリアは右奥になる。

 

 

子供の頃は、この路地は綺麗に掃除されていて、

左手の角に見える家の垣根は、昔は板塀で、柿の木の枝が塀からはみ出ていて

夏頃には、小さな小さな青い柿の実が道にたくさん落ちていたのを覚えてる。

 

 

この路地を真っ直ぐ歩いていくと、突き当たりがうちの大家さんの家の木戸。

木戸を開けて大家さんの家の横の露地を進むと

私が育った借家の裏口があった。

 

 

 

 

この井戸の周りに住んでいた人たちとの、子供の頃の記憶とか

少しだけど、また書いてみようかな。

 

 

さっき探してみたら

けっこう昔の写真(白黒のやつまで)を日本からアメリカに持ってきていたので

 

 

記録のために

別記事にして写真をアップしておこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    (お墓参りに行く途中買ったお花を置いて、草ぼうぼうの跡地を撮影)

               2020年10月25日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 

ようやくヒューレン博士の思い出記事

3部作を書き終えて

 

あと追加で

いちごのクリーニングツールのこと

ハワイ島で撮った黄色のハイビスカスと

ピンクのプルメリアの花の

ちょっと不思議な話

 

この二つを書きたいと思いながら

 

気がつけば日々は過ぎていた。(笑)

 

 

書きたいと思いながら

即実行に移してないコンテンツが

沢山あって

 

それを描き終わらないと

現在の時間軸にたどり着けない

=今リアルタイムで起きてることを書き始めらない

みたいな

変な制約を作っていたけど

 

 

もう、いろいろ前置きをすっ飛ばして

今日は

朝起きてから今(お昼過ぎ)までに考えたことを

なんでもいいから

片っ端から書いてみることにした照れ

 

 

 


ちなみに今、お腹が空いてきて

 

さっきキッチンに行ってコーヒーを淹れようと思ったら

いつも使ってる紙のフィルターがなくて

 

え〜じゃあ地下室の禅堂のキッチンに取りに行くかあ〜

 

と思ったんだけど

なんか誰か人が来ている気配があったので躊躇している。

 

(My Storyにちょっと書いたけど、旦那が僧侶で坐禅を指導しているので、住んでる場所はいちおう曹洞宗の海外寺院。普通の建物だけど地下室を坐禅堂にしている。今日は土曜日だけど、お寺のオフィスに誰か出入りしてる気配あり。)

 

 

あまり知られていないが、

私はけっこう人見知り。

そう見えないように振る舞うことはできるけど

 

今はわざわざ誰かと顔を合わせたくない気分なので

コーヒー飲みたいのを我慢している

 

コーヒー飲みたい、より

人と顔を合わせないほうがホッとする

というほうを選ぶのも

たまにはいいよね、なんて口笛

 

 

 

このところスーパーに行くと

ほとんど毎回、クリスピードーナツのピンクのやつが入っている

6個入りを買ってしまう。

 

 

ハッピーちゃんのイマココ7Daysプログラムで

自分のインナーチャイルドを

国宝ベイビーと名付けて

大事に大事に扱ってあげる、と言うのをやっていたんだけど

 

私の国宝ベイビーちゃんは

ピンクのものが大好きなので

スーパーに行くと目についたピンクのものを

片っ端から買ってあげている。

 

クリスピードーナツは6個入りの箱に

ピンクのアイシングにスプリンクル付きが

一個しか入ってないんだよね。

 

バラでピンクだけ何個か買えたらいいんだけどな〜

 

 

 

 

 

 

このピンクのドーナツと一緒にコーヒーが飲みたい💖

 

 

ていうか

今気がついたけど、ミルク切らしてるわ〜💦

 

(書きたい放題書いてみる、を自分に許可したら

話がどんどん逸れていく、、、💦💦💦笑笑)

 


 

まあ、それは置いといて


 ここから

ようやく本題に入る(笑)

 

 

 

この新しいブログのタイトルを

現実創造の実験ラボにしたのは

 

 

ハッピーちゃんの一番最初のブログ

’世界は自分で創る’を本として出版したものを読んだから。

 

 

彼女がブログを始めた最初の頃

本当に毎日実験結果をレポートするように

アクセス数の変化を記録していた。

 

 

何もない、ゼロ地点からはじめの一歩から

リアルタイムで変化を記録していくって

ぶっちゃけ凄いチャレンジだと思う。

 

なぜなら

何も変化が起きなくて

いつまでもおんなじようなところをぐるぐるしているだけだったら

めっちゃ恥ずかしいじゃん。

 

というのが

明らかに

私の恐れの壁(ウォールホラー)の一つだったので

 

それを超えるには

実況中継やるしかないな、と思ったのだ。

 


去年の夏に

私の長年の夢の一つが現実になり

 

それを大きく育てたい、と思っているので

その過程を

文字通りゼロの地点から記していきたいのだ。


 

長年の夢というのは


私の趣味である

イチゴグッズのコレクターとして

市販されていない

自分が欲しいと思うイチゴのデザインで

服やグッズが欲しい!


そう願っていたら

昨年の6月に

すごいデザイナーさん達

(テキスタイルのためのグラフィックと

その布地を使ったドレスのデザイン)

との出会いがあって


想像を遥かに上回る素敵な

ゴールドいちごのデザインが上がって

初期段階の商品制作と限定販売もやれたので    


今年はそこからさらなるクリエイションを

していきたいのだ。


当面の(というか、いつもだけど笑)

チャレンジは

やはりお金のこと。

 

 

 

2019年にさやちゃん

(当時八木さやちゃん。現在の吉野紗弥佳さん)の

自分ビジネス・オンライン講座のコミュニティに参加してから

 

お金に関していろいろなチャレンジをしてきた。

 

過去2年間

2021年と2022年に

アメリカから日本に一時帰国したときは

 

滞在費が初めから全部足りていないのに

まずは飛行機のチケットを買い

コロナの自主隔離2週間分の滞在費だけなんとか先に払って

日本に行ってしまい

 

一昨年はバーチャルお賽銭箱を担いで

昨年は直前に新商品の予約販売サイトを作って

 

みんなから応援してもらって

結局なんとかなったのだけれど

 

あれはまさに

2年続けて

SNSで実況中継をやりながらの実験だった。

 

(いろいろミラクルも起こって、ネタ満載の

この2回の日本行きについては、別記事で書く。)

 

 

2年連続でやりきって

スリル満点で楽しかったけど


さすがに、もうお腹いっぱい。

 

去年日本から帰ってきて


’も〜やんない!!!

こういうやり方はお終いだぁーーー!!!’

と自分に宣言した。

 

 

次に日本に行くときは


楽々の余裕で

お金の算段なんか全く必要ない状況で

スイッと行ってスイッと帰ってくるのがいい🎶

 

 

 

ということで

今年、2022年の私のお金チャレンジ実況中継を

これから始める。

 

 

 _____と書いてみたけど


どうも’チャレンジ'という言葉が

しっくりこない感じがある。



そっか


'チャレンジはもうヤメだ!って

自分で言ったくせに


言ったそばから

またやろうとしてるじゃん(笑笑)


 

 

 チャレンジというメンタリティとは

違うアプローチをいろいろと試して



実験の結果を

レポートとしていくことにする照れグーメラメラメラメラメラメラグー


 







 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2012年1月

 

ホオポノポノのベーシック2ワークショップが開催される

ハワイ島の北西部の海岸沿いにあるリゾートホテルに

到着してから

 

特に誰に聞いてみるでもなく

ホテルの中に入って歩いて行ったら

綺麗な広い中庭に、丸テーブルと椅子がたくさんセットアップしてある。

 

 

 

建物の入り口で受付のテープルが出ているのが見えたので

多分あれかなと思い、そちらに向かった。

 

受付にいた若い女性は

日本語で出版されたホオポノポノの本でお見かけしたお顔だった。

私はためらいもなく、自分がここに来た事情を説明した。

 

 

’申し込みしていないのですが、来てしまいました。’

と言ったら

特に驚く様子もなく

あ、どうぞお入りください、と言ってくれたのだけど

 

 

’いえ、実は参加費が払えないので、

ここに(中庭に)いさせてもらってもいいでしょうか?’

と言ったら

さすがにちょっと困惑したようだったけど

 

 

私の勢いに押されたのか(笑)

特に’それは困ります’というような言葉はなく

それならどうぞ、みたいな

黙認してくれる感じだった。

 

そのうち

中庭に面した会場のドアが閉まって

ベーシック2のワークショップが始まり

 

私はそのまま

中庭のテーブルに座らせてもらって

ベーシック1のテキスト(クリーニングツールのリスト)を見ながら

ずっと4つの言葉を頭の中で唱えていた。

 

 

Thank you

I’m sorry

Please forgive me

I love you

 

 

ふと顔をあげたら

右手の方から会場に向かって女性が歩いて行くのが見えた。

 

スマホを耳に当てて話しながら歩いているその人の顔を見たら

当時、ニューレン博士のホオポノポノ・パートナーだった

K R(カマイリラウリ・ラファエロヴィッチ)女史だった。

 

 

 

 

 

 

(KR女史とヒューレン博士。この写真がリリースされた時期から考えると

おそらくベーシック2が開催されたハワイ島のリゾートホテルのプライベートビーチで撮影されたのではないかな。)

 

 

 

2010年の12月

私は母親とお正月を過ごすために日本に帰国したんだけど

 

その時期に日本に帰りたいと思った一番の理由は

12月中旬に四国の高知で、ハワイからKR女史が訪れて講演会をすることになっていたからだった。

 

あの時、公演終了後にサインや握手のために並んで

私は出版されたばかりの、うちの旦那の本(禅の書籍を英訳したもの)を

KR女史にプレゼントした。

 

 

そういえば

のちに電話でKR女史の個人セッションを受けたことも思い出した。

その時に、何か頭に乗せてますね、って言われたんだけど

 

シカゴのワークショップでヒューレン博士から教えてもらった

私のパーソナル・クリーニングツール、チョコレートケーキを

イメージでいつも頭に乗せていたので

その話を伝えた。

 

あの時は

あの講演会のために初めて訪れた高知市だったので

講演終了後にどこかで夕食を取ろうと思っていたけど

 

せっかくだから土地の人が知っている美味しいお店とかに行きたいと思い

講演の時に隣に座っていた女性がロビーにいるのを見かけて

思い切って声をかけてみた。

 

その女性は親切に、わざわざ自分の知り合いのお店に車で連れて行ってくれて

食事の後なぜか、私に高知の海を見せたい、と言って

もう真っ暗で何も見えない時間なのだけれど

海岸沿いの道路をずっとドライブしてくれた。

 

暗い海が闇の向こうにあるのを感じながら、何か不思議な感じがした。

 

この女性とはこの後数年間

メールのやりとりが続き

ある年には、私が四国の松山に住んでいる妹を訪ねた時に

彼女が松山まで来てくれて、再開したりした。

 

 

こんなふうにホオポノポノが縁で繋がった人たちのことを思い出す。

ベーシック2のワークショップでも

何人かの人との出会いがあった。

 

 

 

ワークショップの午前中の部の途中でティータイムがあり

自由に参加してくださいと言ってもらったので

 

 

知っている人もいないし

ワークショップに参加していないというのに

そんなことは全く気にならず(笑)

参加者の中に溶け込んで

 

頭の中では4つの言葉を英語でずっと唱えながら

ドリンクを飲んだり

お菓子やサンドイッチなどを摘みながら

人混みの中を歩いていた。

 

ふと背中に気配を感じて後ろを振り向くと

車椅子に乗った年配のアメリカ人女性と目があった。

 

自然に会話が始まって

わかったことは

その人はだいぶ昔からヒューレン博士を知っていて

博士のことを’イハレアカラ’というハワイアン・ネームで呼んでいた。

 

 

日本のことが好きみたいで

私が日本人だとわかったら

’イハレアカラは、いつも私のことをダルマに似ている、っていうのよ’

と話してくれた。

確かに、目が大きくてギョロっとした感じで

ちょっと強面のがっしりした顔のつくりの人だった。

 

 

そうやってしばらく彼女と話していた時

突然誰かがサッと私の横を通り過ぎ

すれ違いざまに、私の右のほっぺをひょいとつまんで

そのまま歩いて行ってしまった。

 

あっという間の出来事だったので

その人の顔を見る暇もなかったのだけれど

 

視野の隅に見えていた人影はヒューレン博士だと思った。

 

車椅子の女性と顔を見合わせて

あれはなんだったの?と笑い合ったのだけど

 

 

あれは

ヒューレン博士からのクリーニングだったのではないかと思った。

 

 

過去2回参加した、ホオポノポノのベーシック1ワークショップでは

申し込んだ時からすぐに、参加者へのクリーニングが始まっていると聞いていた。

 

 

ホオポノポノでは土地の記憶のクリーニングもするので

 

ワークショップがおこなわれる都市、土地と建物、部屋に対しても

全て事前に、また当日にも

いろいろな形でのクリーニングが行われているらしい。

 

 

そんな中で

申し込みもせずに、いきなり現れた私は

事前のクリーニングがゼロなので

 

後で気づいたのだけれど

かなりの’ワイルド・カード’だったのではないかと思う。

 

 

ほっぺをつまむのがクリーニング、と感じたのは私の感覚だけど

 

あれは’緊急事態への対処’みたいな感じで

あんなふうになったのかもしれない。

 

 

私は自分では意識せずに

 

いたずら者のトリックスター的な役割をしていたのかもしれない。

ティータイムの後またワークショップが始まり

 

私は中庭でクリーニングを続け

 

ランチもどうぞ、と言ってもらったので

全く遠慮することなく(笑)

 

さっき知り合った車椅子の女性と

他に数人の日本人のグループの人たちと一緒に

大きなテーブルについた。

 

 

(このランチのあと、午後のクラスまでの休憩時間に

私は一人で、ホテルのプライベートビーチに出てみた。

この時ビーチで感じた不思議な感覚について

パート4で書くことにする。)

 

 

午後のワークショップ終了後に

日本人だけのグループの数人と一緒に夕食を取ることになり

そこでワークショップの内容などについて聞くことができた。

 

その時みんなに言われたのが

 

 

’申し込むお金がなくても、まず申し込んでしまえば現実が後からついてくる’

ということ。

(これは数年後に試してみたら、その通りだということが証明されて、以来ずっとそのやり方をしている。)

 

 

’ベーシック2の内容は、一つを除いてベーシック1と変わらないものだった。’

 

もう一つ言われたのは

多分私は、ワークショップの最中に会場の外をクリーニングする役目だったのでは

ということだった。

 

確かに、中庭でずーっとやっていたのはクリーニングだけだったな、と

妙に納得した。

 

 

それにしても

その’お役目’をやるために

申し込み金がないのに、旅費だけなんとかして

会場に来てしまうとは、なんという暴挙(笑)

 

 

(ちなみに私が住むインディアナ州は、アメリカのほぼ中西部にあり、西海岸のロスアンジェルスまで、直通飛行機で約3時間半。そこからハワイまでは日本への距離の約半分で6時間かかるので、飛行機代もほぼ日本に行くのとたいして変わらない値段)

 

 

確かに自分でも何であんなことができたのか

私を動かした、あの勢いは何だったのか

と、今でも思う。

 

 

自分がかなりヤバい、アホな人間であることは知っているので

それを認めたとしても

それだけでは説明つかないような行動だったと

今更ながらに思っている。

 

 

この時知り合った日本人のグループと車椅子のアメリカ人女性とは

その後数年間、SNSで繋がってやり取りをしたり

リアルで会ったり、という交流が続いた。

 

 

サンデイエゴに住んでいたその女性に会いに行って

彼女のアパートに泊めてもらったりした。

 

彼女は生活保護を受けていたらしいけれど

その後ハワイ島に引っ越したいと言って

車椅子で乗れる大きな愛車と共に、願いを果たしてからも

しばらくは、いつも完璧なタイミングで突然電話がかかってきて

近況を聞いたりしていた。

 

 

アイリーン

今はどうしているのかな?

 

もしかしたらイハレアカラと会ってる?

 

 

 

いま

ふたりがニコニコして、こっちを見ているイメージが浮かんだ。

 

 

 

 

THANK YOU

I'M SORRY

PLEASE FORGIVE ME

I LOVE YOU

 

 

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

To the memory of Dr. Ihaleakala Hew Len.

 

 

 

 

(このあと番外編:①ビーチで感じた不思議な感覚__黄色いハイビスカスとピンクのプルメリアの思い出

②いちごのクリーニングツール)