アシュラ健です。
私たちは日常生活の中で、常に人を裁いているのではないだろうか?
「あの人が悪い」「あの人のせいで」と思うことがどれだけ多いか。
私たちは自分の都合や身勝手な思いにまみれた眼で人を裁いているのだと思います。そんな私たちの姿をこう表現された方がおられました。
人は皆裁判官。他人は有罪、自分は無罪
仮に自分の非を認めた場合でも「確かに私が悪い。けれども」という具合に最終的には相手に非を押し付けてしまうのではないでしょうか。
けれどもという言葉がついてしまうのが私の根性です。
私という存在は、常に人を裁き、そのくせ、人から自分が裁かれることを極端に嫌い、自分の中に問題を見出そうとはせずに、いつでも他を問題としているのではないだろうか
そんな人間の姿というものをよく言い表しているユダヤの格言に次のようなものがあります。
人は転ぶと坂のせいにする。坂がなければ石のせいにする。石がなければ靴のせいにする。人は決して自分のせいにはしない 。
仏教の教えの中にも同じような意味を持つ言葉があります。
自是他非 多因自果
自是他非 自分がこれ、正しくて、他人が非、間違っている、
他因自果 他が因、他人が原因で、自が果、自分がその結果を受ける
すなわち、自分は正しい。相手が間違っている。自分がこうなったのは、相手のせいだ。という人間の姿を言い当てている言葉です。
これも人なんです。
あなたは運がいい⤴︎