法然の衝撃 阿満利麿著 2 | kingstone page(旧)

法然の衝撃 阿満利麿著 2

 死者との連帯

「さきの『一向専修之七箇条問答』のなかにも、第三条に、親の供養のために墓堂、五輪卒都婆をたてるべきではない、という主張が記されている。また、『歎異抄』の第五条には、『親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらわず』という有名な一節がある。この一節の真意はのちにふれるが、いずれにしても法然の念仏が、当時一般にひろまっていた、死者の鎮魂慰霊のための念仏と摩擦を起こしたことは、想像に難くない。それは、神祇不拝、道徳の軽視と並び、専修念仏の信徒が非難される有力な理由ともなった。」

 先祖を供養しないと言ったら非難されるやろなあ。自分のために念仏し浄土に行ってから(往生して)先祖も含めて、現世に還って来て衆生を救う、ということらしいですが。

 道元禅師の「正法眼蔵随聞記」から

「親孝行というのは大切なことである。だが、それには在家と出家では考えが異なる。在家では『孝経』の教えを守り、生前はもちろん死後も、父母に仕えるのがよい。しかし、世俗の一切をなげうって出家したものにとっては、親に対する孝行も、世俗のことにすぎない。つまり、出家者にとって大切なことは、恩を自己の親だけに限らず、一切衆生が父母であると考えて、その積み行う善をあらゆる所へめぐらすようにしなければならない。」

「親子の関係をふくめて世俗の人間関係を断つ、仏教の出家主義は、いつの時代でも批判をうけてきた。とくに、中国では儒教の立場から鋭い批判がなされ、仏教側っも懸命の反論をくりかえしてきた。」

「この点、従来の鎮魂慰霊の念仏は、自分が仏になるという個人的契機に基づくというよりは、共同体の行為というべきであった。自分一個の救済のためではなく、村全体を疫病や災害から守るための念仏なのであった。当時は、災の多くが怨霊によると信じられていたから、その念仏はいきおい死者の鎮魂慰霊のために手向けられることになったのは当然であろう。
 法然の本願念仏は、こうした共同体の庇護から見離された個人から出発していったのである。」

「日本仏教は、『葬式仏教』という言葉において、もっとも生き生きとしているといってよいであろう。
 このような葬式仏教が成立したのは、十五世紀ころであった。このころから、日本列島のうち、南西諸島や北海道を除いた大部分の村落では、墓地や村はずれにあった小堂に漂泊の宗教者たちが住みつき、恒常的に死者の祭祀をとりおこなうようになった。のちに、このようなお堂やそこに住むヒジリは、江戸幕府公認の宗派に属する立派な寺や坊さんに昇格して、今日の私たちに親しい姿となる。」

 こういう葬式仏教の道を一番劇的に進んだのが曹洞宗。

「また平安貴族の間では、祈祷僧と念仏僧のあいだには、画然とした区別があったという。つまり、病人に息がある間は、真言天台の祈祷僧が病気平癒を祈願するが、いよいよとなると、祈祷僧は退席し、ただちに念仏僧が招かれ、臨終念仏が唱せられた。(堀一郎『我が国民間信仰の研究』)念仏は、あくまでも死者のためのものであった。」

「専修念仏を信じるようになったものは、亡き人々の冥福を祈ることは、もはやない。なぜなら、死者は、阿弥陀仏とその教えを信奉する無数の人々によって、すでに浄土に救いとられていると確信しているからである。まだ、もし救われていない人がいるとしたら、それは、私が浄土に往生してから救う人々なのである。ここには、死者祭祀にまつわる一切の不安は存在していない。死者祭祀の手落ちが不幸を招くなどという脅迫観念にとらわれることはない。信心を得たものに存在するのは、亡き人々への感謝のみであろう。」


 ふ~む、知らないことがたくさんありました。

 しかし、一番興味があるのは、東大寺などの官寺は。荘園などを寄進されて運営されており、また比叡山や高野山も多くの寄進で運営されていたものと思います。そうした中で法然上人は比叡山を降り、市井の中に入った。今風に言えば、莫大なコストのかかる教団から劇的に低廉なコストで大衆的なビジネスモデルを作り出した?

 そこのところの仕組みがどうだったのかな、という点ですね。

 また現在、従来の「葬式仏教」(馬鹿にしてるんじゃなくて、これは大切なこととみんなの合意があったからこそうまく行っていた)が、墓地にしろ戒名にしろお布施にしろうまく立ち行かなくなっている今、どういう展開があり得るのか。

 あるお坊さんが、「仏教が入ってきた時はロックだったんだ」と言っていました。確かにシンバル(?)木魚を打ち鳴らす宗派もあるし、声明の美しい宗派もある。踊り念仏もあったのだし。

 う~ん、どんな展開があり得るのかなあ。