Jazzと小説と沢村一樹 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】




某所でちょいと話題になってましたので、久々に初心に帰って(?)ジャズを。

こちらはマイルス・デイヴィスのアルバム〈Kind of blue〉に収められている〈Blue in Green〉。このアルバムの少し前にバンドに在籍していたビル・エヴァンスの手による曲で、非常に彼らしい緻密で静謐な旋律はさすがとしか言い様がありません。ちなみにクレジットはどういうわけだかデイヴィス名義で、エヴァンスは終生、そのことを不満に思っていたのだとか。

デイヴィスのアルバムは総じて寝る前に聴くのに向きませんが、この曲は数少ない例外だと思います。
タイトルの〈ブルー・イン・グリーン〉の意味とか、エヴァンスはこのメロディで何を表現したかったのかとか、そういうことは一切考えずにただゆったりと耳を傾けるのが、この曲の一番の楽しみ方だと思うのですがいかがでしょう?
(ちなみに動画の作者さんのセンスはかなりいいと思うのですが、いかが?)

で、これと小説が何の関係があるのかと申しますと、ここでもちょっと取り上げた村上春樹氏のこと。
わたしはジャズも村上氏の小説も好きなのですが、昔からそうだったわけではなく。ジャズは半ばカッコつけのために聴いているだけでしたし、村上小説も何度も手に取りながら、何度も途中で投げ出すのを繰り返していました。
しかし、それがそうでもなくなったのは、あることに気づいたからなのですね。曰く、

「分からないものを無理に分かろうとしなくてもいい。ただ、感じるだけでいい」

村上小説には何と申しますか、「何で今そこにそれが?」と言いたくなるような展開とか、「で、それは一体何者なのよ?」と思わず問いたくなるような登場人物がよく登場します。
すごいのはそれが物語が終わっても何なのか明かされず、分からないままであるのも少なくないこと。羊男って何者なのか、作者である村上氏自身「よく分からない」と仰ってますし。
この作風は読者に多くの解釈を許す反面、ある種の読者にとっては非常にストレスの溜まることも間違いないのですね。
それは小説にストーリーテリングのリアリティを強く求める人。
これは決して間違った読み方ではありません。むしろ、小説の基本はストーリーテリングにあるのですから、正統派な読み方と言えるかもしれませんね。
しかし、少なくとも物語にはどこかで作者が持つ”テーマ”が関わってきますし、それを持ち込むときにどこかで単なる(と敢えて言ってしまいますが)ストーリーテリングから離れなくてはならない――実際には離れるわけではなくテーマを表現する為のものを持ち込むのですが――場面があります。
それをストーリーに上手に絡めることで違和感を感じさせない作家もいますし、時にはテーマを前面に押し出しすぎて説教くさくなる作家もいます。もちろん、テーマを持たずにただ頭で考えた面白そうなストーリーを提供するだけの作家もいます。(こういうのを”つくりばなし”と言います。ラノベ作家に多いですね)
そんな中で村上氏のメルヒェン(※)に似た方法論は少し突き抜けているというか、日本人作家としてはかなり特異なやり方なのは間違いありません。
で、少し話が戻りますが、村上氏の小説が肌に合わない人はおそらく、村上作品の”意味の分からなさ”や”答えの出なさ”が許せないんじゃないかな、とわたしなどは思うのですね。それに対して言えることは上に書いた「分かる必要はない」ということだけなのですが。

ジャズも同じでエヴァンスの音楽理論がどうであるとか、ジョン・コルトレーンの独自の奏法(「Sheets of sound」と言って音を敷き詰めるようにできるだけ間断なく演奏するやり方)が何を表現しているかとか、そういう理屈やウンチクをこねる必要はなくて、ただ耳を傾けてその演奏が気に入るか、心に響くか――そのことだけに集中すればいいと思うのです。以前にもいわゆるジャズマニアについて書いたことがありますが、最近、本当に心の底から「他人が何と言おうが自分が気に入るかどうかがすべてだ」と思えるようになってきました。
上で村上作品を勧めるようなことを書いておいて何ですが、他人の言うことなんか気にする必要はないのが本当のような気がします。気に入らない本や音楽に時間を割くには人生はあまりにも短い。そんなヒマがあったら好きなものを読んだり聴いたりするべきです。

で、これが沢村一樹と何の関係があるかと言いますと、

(「Don't think,Feel」=「考えるな、感じろ」)

※ メルヒェン(Märchen)とは散文の物語のことで、超現実的であり超自然的要素を含むものをいう。その際、超自然物は現実には信じるに足らないものではあるが、物語に資する自明なものとして前提される。語義としては「berühmt(有名な)」古高ドイツ語「māri」に由来する「Kunde, Nacaricht(知らせ、消息)」を表わす中高ドイツ語「maere」の指小形である。