「La vie en rose」第7回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 

「――どうしてこう、寒いんすかね」
「そりゃあ、冬だからだろ。嫌なら警察辞めてハワイにでも移住しろよ」
「また、先輩はそういうことを言う……」
 古瀬和夫は不満そうに呟いた。
 もっとも、この男は一年中不満か出来損ないの皮肉を口にしている。シニカルに歪めた口許はもはや元に戻らないのではと思えるほどだ。
 博多署の保安課の刑事であまり良い噂を聞かないのだが、一応は同じ高校の柔道部の後輩に当たるので邪険にすることもできない。いかにも小心者の雰囲気を漂わせた風貌に相応しく、OB会を始めとして様々なところに様々なコネを作り上げているのだ。今さら母校との縁が切れても取り立てて不都合はないが、余計なところで反感を買わないほうがいいという打算が働いているのが実際のところだった。
 私はコートのポケットに手を突っ込んで、古瀬の後を中洲二丁目の現場に向かっていた。
 中洲に不案内なことはないが念の為に場所を訊いたら、古瀬は道案内を買って出た。そんなに暇なのかという言葉が喉まで出かかったが、断わるほどのことでもないので好きなようにさせておくことにした。
「ところで、このヤマに二課がどういう関わりがあるんすか?」
 古瀬が言った。興味があるというより不機嫌そうな私をとりなすような口調だった。
「被害者がウチで追ってた件の関係者なんだ。まだ、ハッキリとした繋がりが出てきてるわけでもないが、とりあえず現場も見ておくってところだ」
「相変わらず仕事の鬼っすね」
「お前が仕事してないだけだよ」
 古瀬は年甲斐もなく頬を膨らませて「そんなことないっすよ」と呟いた。
 確かにこの男も仕事をしていないわけではない。方向性が間違っているだけだ。
 つい先程、まだ業界に入って間もなさそうな若い客引きが馴れ馴れしく声をかけてきたのだが、古瀬は人目を憚らずにその男の脛を蹴り上げていた。横暴な警官は何処にでもいるが、だからといってその横暴が何処ででも通じるわけではない。それなのに周囲の誰一人として古瀬の行為を非難しようとする者はいなかった。

 古瀬和夫がこの界隈のヤクザ者の間でアンタッチャブルな存在である証しだった。
 
 一月半ほど前、一月二十七日の早朝、那珂川沿いの遊歩道のベンチで一人の酔客が凍死しているのが発見された。
 いくら南国九州といっても冬の朝夕は零下まで気温が下がる。そんなところで眠ってしまえば凍死することもあり得ない話ではなかった。実際、福岡でも年に数人は路上生活者が命を落としている。
 ただ、この男の場合は事情が違っていた。身体にはハッキリと生活反応がある殴打の痕が残っていたし、金品や身元を示すものは根こそぎ持ち去られていた。しかも検死の結果、血液中からはアルコールと共に多量の睡眠薬が検出されたのだ。
 酒類に睡眠薬を混入して寝入ったところで身包みを剥いで店外に放り出す荒っぽい店は以前からあった。問題視する声はもちろんあったが、こういう手口に対する警察の目線ははボッタクリに向けるものと同じで、どこかに”ひっかかるほうも間抜け”という冷笑的な部分がある。
 それでも死人が出たとあっては笑い話では済まされない。強盗と遺棄罪の容疑で捜査が行われた結果、ようやくその夜に被害者が飲んでいた店が特定されたというわけだ。身元のほうも数日前に歯形の照合でようやく確認されていた。
 
「こっちです、先輩」
 古瀬が指し示した先、中洲のど真ん中の客引きたちがたむろする中洲大通りの一角から入った路地に<Pompadour>はあった。
 路地にはスナックやピンクサロン、個室ビデオ屋、ストリップ劇場が建ち並んでいる。中洲でも指折りのボッタクリ店の集中地帯だ。正式な地名ではないがこの通りを地獄通りと呼ぶ者もいるくらいだった。
 ポンパドール(と振り仮名が振ってあった)はうらぶれた通りに必ず一軒はあるうらぶれたスナックで、店名は何処かの本から適当に引っ張ってきたものと考えてよさそうだった。昼間の盛り場が化粧を落とした立ちんぼ並みにみすぼらしく見えることを差し引いても、ルイ十五世の公妾の名前は相応しくなかった。
 店内では博多署の刑事課の知己が数人と鑑識班が現場検証をしていた。
 インテリアは煽情的な紫で統一されていて、天井には結婚式場くらいでしかお目にかかれない大げさなシャンデリアが吊るされている。営業をやめてから時間が経っているらしく、テーブルやカウンターにはうっすらとホコリが積もっている。
 古瀬は「じゃあ、俺はこれで」と言って店内に入ってこなかった。道案内を買って出たのは外出する口実が欲しかっただけだろうから、当然の反応だと言える。呼び止める必要もないのでそのまま行かせた。
「おう、熊谷。どうした?」
 中の一人、毛利という刑事課のヴェテランが私を振り返った。庇の代わりになりそうな長い眉毛と垂れ下がった目尻のせいでいつも眠たそうな印象を与えている。もっとも中身は真逆のキレ者で捜査四課の次期課長と目されている。今は確か、警視に昇進したことで一時的に博多署の刑事課長に異動しているはずだった。本来なら署のデスクで報告を受ける立場なのに現場主義が抜けないので、時折こうやって自ら出張ってくるのだ。
 私は被害者が二課で外為法違反の容疑でマークしていた人物であることを話した。李健一、四十八歳。台湾籍の在日二世。東南アジア方面を主にした旅行会社を経営していた。その一方で台湾系の地下銀行の関係者とも言われていて、暴力団や企業の違法活動で得られた資金をオフショアの海外口座を転々とさせて出所を分からなくする、いわゆるマネー・ローンダリングに手を染めていると目されていた。
「何か関係はありそうか?」
 毛利は言った。
「まだ分かりませんね。李の部下の話では、旧正月の半月後には戻ってくると言われてたのが、三月になっても戻ってくる気配がないんでおかしいとは思ってたらしいんですが」
 旅行会社の社員は口を揃えて、社長は毎年そうなのだと言っていた。
 今年の旧暦の元日は二月十五日。李健一は一月二十四日に台湾に向けて出国している。それがわずか三日後に中洲の裏通りで昏睡強盗紛いの手口で命を落とした。目的のはずの旧正月を台湾の親類と祝うこともなく。
「入国管理局は何と言ってる?」
「リィ・ジェンイーなる人物の入国履歴はないそうです」
「偽造パスポートでこっそり舞い戻ったというわけか」
「でしょうね。ところで、店の関係者はどうなんです?」
 私は訊いた。
「店のオーナーは不動産屋のほうから調べはついてるが、名義を貸してただけでノー・タッチだったと言い張ってる。借りてたほうの支配人――というほど大した店じゃないと思うが、そいつは今、任意で話を訊いてるところだ。店員は履歴書から行方を追ってるが、この業界の常として適当なことばっかり書いてあるらしくて、全員を把握するのにはちょっと時間がかかりそうだ」
 刑事の一人が毛利を呼びにきたので、私は現場検証の邪魔にならないように店内を見て回った。
 被害者の身元の手掛かりになりそうなものは、ここからも発見できてないようだった。李をよく知る捜査員の話では型崩れしたダンヒルのセカンドバッグがトレードマークだったようだが、それも見つかっていない。
 隠密の帰国の理由が何であれ凍死との関連は薄いだろう。黒社会の住人の常として李もいつ誰に命を狙われてもおかしくはなかったが、黒社会では殺すと決めた相手をこんなまだるっこしい方法で消したりしない。まるで消しゴムで消されたようにフッといなくなるか、見せしめとばかりに派手に惨殺されるかのどちらかだ。
 私は近くにいた刑事の一人の許可を得てピンク電話で二課の課長に電話を入れた。せっかく順調に進んでいた内偵捜査が暗礁に乗り上げたというつまらない報告を受けて、課長は「その件はいいから戻って来い」とつまらなそうに命じた。
 毛利に捜査資料を回してくれるように頼んでから私はポンパドールを後にした。
 戻って来いとは言われたものの、待っているのが課長の愚痴と山積みのデスクワークだというのは分かっていた。古瀬のことは言えないと自嘲しつつ、私は捜査車両を停めている春吉のパーキングではなくそのまま明治通りのほうに歩いた。小腹も空いていたし、寒空の下を歩いて冷え切った身体をコーヒーで温めるくらいの自由は許されるはずだ。
 中洲川端から地下鉄で一駅移動して、天神駅の出口広場にあるアートコーヒーでブレンドコーヒーとチーズトーストを買った。窓際のスツールに腰を下ろして、それらをゆっくりと胃袋に収めた。さっきからポケットベルが鳴っていたのは気づかなかったことにした。
 全面がガラス張りの窓からは地下街を行きかう人の流れを眺めることができる。中年男には流行などまるで分からないが、誰もがテレビドラマの中から抜け出してきたような格好をしているような気がしてならない。ブランド・ファッションで全身をコーディネイトして颯爽と歩く様はどこか浮き足立っているようにも見えた。
 目の前をスーツ姿の若い男の二人連れが通り過ぎた。ゆったりとしたイタリアン・シルエットはおそらくアルマーニだろう。本来であれば正装であるはずのそれが、どうにもならない如何わしさを漂わせていた。率直に言えば地上げ屋かホストにしか見えなかった。
 そんな私の視線に気づいたのか、男たちは躾のなっていないイヌのような剣呑な眼差しを投げつけてきた。

 私はタバコを咥えて二人に愛想よく微笑んで見せた。そのまま店内になだれ込んでくるかと思ったのだが、男の一人がもう一人の袖を引っ張ってその場を離れていった。我彼の実力差を見極める目は持ち合わせているのだった。自分たちよりも弱い獲物を見つけるためのものだが。
 ふと、インフォメーションのカウンターの向こうで立ち話をしているカップルが目にとまった。
 男のほうは頑丈そうな四角い顎とかつてはピッチリ撫で付けていたに違いない無造作なオールバック。目許は地下街では意味がないサングラスで隠れて見えない。鼻筋だけが不釣合いにすっきり通っているが、それも何度か折れたことがありそうだった。肩幅の広い大柄な身体を古着のような褪めた色合いのピーコートに包んでいる。背丈は私より少し高い一八〇センチ前後だろう。
 何処かで見たような気がする男だったが、何処で見たのかは思い出せなかった。少なくとも最近見た指名手配犯のリストには載っていなかった。
 向かいに立っている女はこっちに背を向けていた。ニット帽からは滑らかそうなボブカットの黒髪がこぼれている。タン色のダウンジャケットとキュロット・スカート。黒いタイツが脚の形の良さを際立たせていた。決して小柄ではなかったが男と比較すると子供のように小さく見えた。
 待ち合わせだったようで二人は少し談笑してから歩き出した。男が自然と寄せた腕に女が可愛らしく自分の腕を絡ませた。サングラス越しにでも男が愛しげな視線を注いでいることが見て取れた。
 女の横顔を見て、私は咥えていたタバコを取り落としそうになった。男に応えるように微笑んで見せていたのは坂倉有紀子だったのだ。