「La vie en rose」第4回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 二日後の夜、有紀子は私のアパートを訪ねてきた。
 デニムとセーターの上にベージュのダッフルコートという地味な出で立ちで、足元は履き込んだ感じのコンバースのハイカット、化粧も最小限のナチュラルなものだった。
 考えてみれば有紀子の私服を見るのはこれが初めてだった。警察時代には彼女は家から制服を着て出勤していたし、潜入捜査のときのドレスやスーツは協力してくれたブティックが用意したものだ。一昨日の格好も私服とは言いがたかった。
「ホントだ、男の人の部屋とは思えない」
 上がりこむなり、有紀子は遠慮する気配もなく私の部屋を見渡していた。敬語はすっかり消え去っていたが、わざとそうしているようなところが見えた。
「昨日、慌てて掃除したんだ。お前さんが来るって言うから」
「その言い方、子ども扱いされてるみたいで嫌だなあ」
 何を言われているのか、気づくのに時間がかかった。確かに”お前さん”は年嵩の人間がよく使う二人称だ。

 しかし、そう言われても私は困惑するしかなかった。
「他に何と呼べばいいんだ?」

「そうねえ……。君じゃ他人行儀だし、あんたも変だし。名前で呼んでくれると嬉しいかな。友だちはみんな、あたしのことユッコって呼ぶのよ」

「ユッコ、ね。そうしてもいい。俺のことをミッキーと呼ばないと約束してくれるなら」
「覚えてたのね、それ」
 互いに顔を見合わせて静かに笑いあった。有紀子はソファに腰を下ろした。
「晩メシは食ったのか?」
「まだ。お昼が遅かったんで、食べそびれちゃった。どうしよう、何か食べにいく?」
「それでも構わんが、良ければ何か作るよ」
「熊谷さん、料理なんてできるの?」
 有紀子は目を丸くしていた。
「一人暮らし歴二〇年をバカにしちゃいけない。と言っても、手の込んだものは作れないが」
「できるだけいいじゃない。あたしなんか家事はまるでダメ」
「それで嫁に行こうと思ってたってんだから、厚かましいにも程があるな」
「料理のできる旦那さんを貰うからいいんだもん」
「何だ、まだ諦めてなかったのか」
「当然でしょ。熊谷さんは?」
「俺はとっくに諦めてる。ずっと惚れてた女がいたんだが、逃げられたんでな」
「へえ……」
 私は席を立ってダイニングキッチンへ行った。
 パスタケースの中には充分な量のストックがあった。寸胴の深鍋に水を張ってガスコンロに火をつけて、それが沸騰するまでの間に冷蔵庫の中身とメニューの相談に取り掛かった。
 瓶詰めのバジルのペーストがあったので、以前に読んだ翻訳モノの小説に出てきたレシピを作ることにした。何度か試したものなので失敗することもない。
 冷凍のブロッコリと松の実を取り出しておおよその目分量で耐熱皿に盛った。本来のレシピではピスタチオを使うはずだが私はあのナッツが今ひとつ好きになれない。香ばしさがでれば他のナッツでも良かったはずだ。上からラップをかけて電子レンジに突っ込んだ。
 パスタだけでは物足りないだろうから何か主菜になりそうなものがないかを探した。
 冷凍庫には肉や野菜のストックがある。ただ、それらは解凍してからじゃないと使えない。電子レンジで急速解凍という手もあるが、私のキッチンの道具はどれも年季が入っていてどうしても味が落ちてしまう。
 見つかったのはソテー用に厚めにスライスした豚肉くらいだった。それを二センチ弱の幅に切って軽く塩コショウを振っておく。あとでソースと絡めるのでそれほど強く味をつけておく必要はない。
 鍋が沸騰してきたので塩を入れてからスパゲティを量って鍋に入れた。キッチンタイマーをセットして壁に貼り付けた。余熱の分だけやや硬めに茹で上げたほうがいいと書いてあったような気がするので、いつもより心持ち短めの時間にしておいた。
 フライパンにオリーブオイルを敷き、レンジから取り出した松の実をラップに包んだまま叩いて細かく砕いたものを入れた。
 おろしニンニクとバジル・ペーストをそれに加えて弱火で温めるように合わせていく。これも本来のレシピではすり鉢で混ぜてそのままパスタに和えるのだが、せっかく茹で上げたパスタを冷えたソースと合わせたくないので温めておくことにしている。塩コショウで味を調えてから食べやすい大きさに割ったブロッコリを入れてしっかり混ぜておいた。
 もう一つのコンロのフライパンに油を敷いて豚肉を炒めた。
 肉から脂が出てくるので最初の油はほんの少しでいい。なくてもいいくらいだ。

 箸で転がしながら肉に火が通ったのを見極めて、冷蔵庫から取り出したにんにく味噌をスプーンで投入した。そのままでは味が濃すぎて食べられないが、肉や野菜に合うので私はよく炒め物に使っている。入れ過ぎると辛いので肉に軽く回る程度の量でいい。
 これは青森のほうで作っている甘辛い味噌ににんにくのスライスを混ぜ込んだものだ。いつぞや、市内の百貨店で行われていた物産展で知ったものだが、気に入ったのでわざわざ取り寄せて常備している。

 炒めた豚肉をキッチンペーパーを敷いた皿に盛って余分な油を吸わせてから、来客用にしか使わない――つまりまったく使わない――ウェッジウッドのスクエアの皿にサラダ菜と一緒に盛りつけた。
 そうしているとスパゲティが茹で上がった。しっかりと湯を切ってからバジルソースのフライパンに入れてほんの少しの茹で汁でのばしたソースを和えた。これも同じくウェッジウッドの皿に盛りつけた。パルメザン・チーズを振りかければ完成だ。
 最後にワイングラスとキャンティの赤を取り出した。室温でも飲み頃には少し冷たかったが、変な温めかたをするよりは手のひらの温度で温めるほうがいいだろう。
「おい、できたぞ」
 私はリビングに顔を出した。有紀子はソファから立ち上がって部屋の中をうろついていた。たいして広くもないリビングにそれほど見どころがあるとは思えなかったが、有紀子の興味は尽きないようだった。
「ねえ、この人がさっき言ってた逃げられた彼女?」
 テレビの上のフォトスタンドを指差していた。
「そうだ。あとで話してやるから先にメシにしよう。冷えたら不味くなる」
 有紀子を伴ってダイニングキッチンに戻った。テーブルに向かい合うようにセッティングは済ませてあった。
「すっごーい!!」
「だろ?」
 手狭なダイニングではさすがに椅子まで引いてやることはできない。私は手で座るように促してからワインの栓を開けた。テーブルワインは味や香りがどうこうと言わずにガブガブ飲むものなので細かいことを言わずにグラスに注いだ。
 有紀子は見ているこちらが驚くほどの勢いで料理を頬張り、トスカーナ・ワインらしい軽めの口当たりのキャンティを飲み干していった。
「うっわ、おいしいっ!!」
「喜んで貰えたんなら良かった。ちょっと多かったかと思ったが、その調子なら大丈夫だな」
「足りないかも」
「……もし本当に足りなかったら、後で何か食べに行けばいい」
「冗談よ。量も充分だしホントに美味しい。あ、でも――」
「でも、なんだ?」
「にんにくがちょっと気になるかも。……まあ、お互いさまだからいっか」
 有紀子は意味ありげな微笑を浮かべていた。私はわざと気がつかなかった振りをした。
 
 食事が終わってリビングに戻った。
 二人でワインを一本空けてしまっていて、私はともかく有紀子は頬と目許がほんのり赤くなっていた。彼女が普段私が座っている二人掛けのほうに腰を下ろしたので、私はL字に配したもう一つの一人掛けに座った。
 有紀子はどっかりと座りこんだ姿勢のまま、上半身を風の中の帆のようにゆらゆらと左右に揺らした。
「おい、大丈夫か?」
「顔に出やすいだけで、そんなに酔っちゃいませんよーだ」
 可愛らしい舌を突き出して顔をしかめる。酔っ払いの「酔ってない」ほど当てにならないものもないが、ほろ酔いで少し緩んだ表情の彼女を見るのも悪くはなかった。
「じゃあ、そういうことにしておこう」

「他に何か、美味しいお酒ないの?」

「おい、まだ飲むのか?」
「もっちろーん」

「……仕方ないな」
 キッチンから二人分のグラスとベルタのリゼルヴァ・デル・フォンダトーレを運んだ。

 見かけによらず酒豪だった”彼女”のリクエストで手に入れたグラッパだったが、封を切る前に彼女はいなくなってしまった。大した感慨があるわけでもないのにずっと封を切りそびれていたのだ。
 グラスにグラッパを注いだ。酒肴はチーズボールとクラッカーくらいしかなかったが、パスタはやはり作り過ぎだったのでそれで事足りた。
「かんぱーい」
「乾杯」
 口に含むとブドウの濃厚な香りが鼻に抜けてまろやかな口当たりが楽しめる。ブランデーの芳醇さも悪くはないが、私はグラッパやイタリア・ワインの純朴さが好きだ。

 とはいえ蒸留酒なので度数はかなりのものだ。有紀子もグラスから立ち上る香りを丹念に嗅いでいるがワインと同じペースでは飲めないでいた。いきおいチビチビと舐めるような飲み方になるのだが、実はそれが私の目論見だった。もともとそれほど酒が強い娘ではないのだ。
 私は立ち上がってテレビをつけようとした。有紀子はテレビより音楽のほうがいいと言った。
「趣味に合うものはないと思うが」
「熊谷さんの趣味でいいよ」
 手元のリモコンを取り上げて再生スイッチを入れた。最後に何を聴いたのかは自分でも覚えていなかった。手持ちのCDに演歌や歌謡曲はないので場の雰囲気を壊すことはないだろう。
 流れ出したのはエディット・ピアフだった。
「これ、ジャズ?」
「シャンソン。フランスの歌謡曲さ」
「へえ、そんなの聴くんだ。ちょっと意外」
「よく言われるよ」
 曲は「Hymne a l'amour」だった。

 日本でもずっと以前に越路吹雪が「愛の賛歌」のタイトルでカバーしている。フランス語は門外漢だが、誰かの対訳と読み比べたときに歌詞の改変の度合いにひどく驚いた覚えがある。
「ねえ、ひょっとしてこのCD、この人のものなんじゃないの?」
 ソファの背もたれにどっかりと身体を預けた有紀子の手には、いつの間にかさっきのフォトスタンドが握られていた。
「バレちゃ仕方ないな。その通りだ」
「だと思った。ねえ、さっきその人のこと、話してくれるって言ったよね?」
「むさ苦しい中年男の失恋話なんか聞いてどうする?」
「知りたいの。教えて」
 有紀子の声に好奇心とほんの少しの後ろめたさのような響きが混じった。
 私は会話の邪魔にならない程度までCDのボリュームを下げた。それから思い出すように別れた”彼女”との馴れ初めから末路までを語った。
 要するに”彼女”は私の高校時代からの友人の細君の妹で、あまりにも女っ気のない私を心配した夫妻が仲を取り持ってくれたのだった。
 もちろん、それは私のことだけを心配しての話ではなかった。街を歩けば誰もが振り返る美貌の持ち主だったが、性格的に――というか精神的に――少し難があって、普通の人間関係にはなかなか馴染めない女だったからだ。ある程度人間的・社会的な面で信用できて、恋人というより保護者役を買って出てくれそうなお人好しがいないものか――夫妻のそんな要望を満たすのに私は打ってつけだったというわけだ。
 幾ばくかの気まずさと気恥ずかしさ、それと同時に繊細なガラス細工を扱うような緊張感が入り混じった交際だったが、私が彼女に多くを求めなかったのと、彼女のほうも彼女なりに努力してくれたおかげで大きな破綻をすることなく関係は続いた。
「どれくらい付き合ったの?」
「六年だな。別れたのは二年前だ」
「どうして別れちゃったの?」
「それはむしろ俺が知りたいことだよ。何せ、理由も何も言わずに突然、姿を消してしまったんだからな」
「失踪したってこと?」
 家出とか”どっかへ行った”ではなく失踪という単語がスムーズに出てくるところは有紀子の出自を表していた。
「そういうことになる。――急に東京に行くことにした。向こうでの仕事なんかはすべて決まってる。だから捜さないでくれ。彼女が姉に宛てて残した手紙にはそう書いてあった」
「追いかけなかったの?」
 有紀子の声音に非難が混じった。
「捜そうとしたさ。しかし、彼女の姉に止められた。妹を繋ぎ止められなかった人にこれ以上余計な手出しをして欲しくない。そう言われたよ。彼女の父親の意向もあったらしい。いつまでもフラフラしている下の娘を、爺さんはあまり良く思っていなかった。ちょうどいい厄介払いくらいに考えていたのかもしれない」
「でも――」
「感傷的なことを言うつもりはないが、俺はふられた側なんだぜ。今でこそこうやって冷静に話せるが、当時はそれなりに傷ついたし怒りもした。勝手に何処かへ行った女のことなど知ったことか。そう思っても非難される謂れはないんじゃないか?」
「そうなんだけど……」
 有紀子はグラスを両手で包み込むように持って、納得いかないように口を尖らせていた。そうしていると何か温かい飲み物をすすっているように見える。
「なのに、忘れられないのね?」
「どういう意味だ?」
「だってそうじゃない。知ったことかって思ってるのに、どうして写真はそのままなの?」
「代わりに入れる写真の適当なものが見つからないからさ」
「じゃあ、このCDは?」
「もともとは彼女の趣味だが、今は俺の趣味だ。似合わないことは充分に分かってるよ」
「ふん、意地っ張り。どうして認めないのかなあ?」
 私は答えなかった。その場に沈黙が満ちた。
 曲はいつの間にか「La vie en rose」に変わっていた。有紀子は聞き覚えがあるような顔で聴き入っていた。歌詞の意味は分からなくても、甘いメロディに重なるピアフの傷心的な歌声はそれだけで切なさと美しさを醸し出していた。
「これ、他の人も歌ってない?」
「ずいぶんカバーされてるよ。スタンダード・ナンバーだからな。日本じゃ「薔薇色の人生」ってタイトルになってる」
 
”Quand il me prend dans ses bras,Il me parle tout bas,Je vois la vie en rose”

(彼は私を腕に抱き、低い声で囁きかける。まるで、バラに囲まれて生きているみたい)
 
「へえ……。何だかロマンチック」
「まったくだ。願わくば、そんな人生を送りたいものだな」
「やだ、熊谷さんったらオジサンみたい」
「オジサンなんだよ。知らなかったのか?」

「そう?」

「そうさ。とてもユッコとは釣り合わない」

 その場に唐突としか言いようのない緊張が走った。私は彼女の中の何かに触れたらしかった。
 有紀子はソファの片側に身体を寄せてスペースを作ると、私を少しきつい目で睨みながらそこを平手でバンバンと叩いた。
「そんな遠くにいないで、こっちに来て」
「飲み過ぎのようだな。そろそろ酔い覚ましのコーヒーを淹れるとするか」
「そんなの飲みたくない。フン、そっちが来てくれないなら――」
 有紀子はよろよろと立ち上がった。呂律がしっかりしているのでそう酔ってはいないと思っていたが、足元どころかテーブルに置いて支えている手も危うかった。
「分かった、行くから座れよ」
「そう――?」
 しかし、すでに遅かった。彼女はそのままバランスを崩して私のほうに倒れ込んできた。
 とっさに腕を出して身体を支えてやったので脚をテーブルにぶつけただけで済んだ。本当はそれだって相当に痛いはずだが有紀子は感じていないようだった。ソファに押し戻すわけにもいかずに思案していると、有紀子はさらに私のほうに体重を預けてきた。
「おいおい、しょうがないな」
 諦めて彼女を抱き止めてやった。
 胸板に落ちてくるショートボブの黒髪から洗い髪のふんわりした匂いが漂った。アルコールのせいなのか、有紀子の体温はやけに高く感じられた。押し付けられる乳房の重さや回される手の温もりが、忘れて久しい何かを思い出させた。
 有紀子はトロンとした眼差しで私を見ていた。手荒にならないように腕を解いて有紀子を二人掛けのソファに横たえた。
「……お願い、彼女のことは忘れて。今だけでいいから」
 何かを言わなければならないような気がした。しかし、口にするべき言葉は存在しなかった。

 私はゆっくりと彼女に覆い被さり、慈しむように唇を重ねた。