「La vie en rose」第3回(改) | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 

 目が覚めたのは九時を少し回った頃だった。
 携帯電話に着信の記録が残っていた。しょっちゅう連絡が取れなくなるから、という理由で幹部でもないのに持たされているのだ。すぐに電池が切れて充電するのが面倒くさいが勝手に捨てることもできない。
 番号は中央警察署のものだった。

 一瞬、眠っている間に誤って携帯電話に触れてしまいコールバックがかかってきたのかと思った。しかし、発信履歴のほうには該当する番号は残っていなかった。
 留守番電話サービスに電話をかけてみると、相手の顔色を窺うようなオドオドした声で「非番の日に申し訳ないが、中央署の佐々木に連絡をして欲しい」とメッセージが残されていた。時刻は午前五時二十一分。警官が警官に対してのものでない限り、電話をかけるには非常識の誹りを免れない時刻だ。
 中央署に電話をかけて佐々木なる人物から電話をするように言われたと告げた。応対に出た横着な口をきく若い警官がしばらく待てと言って、それから佐々木副署長と替わると言った。
「やあ、熊谷警部補。朝っぱらからスマンな。県警のほうにかけたら今日は非番だと聞いたものでね」
 必要以上に鷹揚なしゃべり方をする男だったが、声には本当に済まなそうなニュアンスも感じられた。
「構いません。どういうご用件ですか?」
「坂倉有紀子を覚えているかね?」
 覚えていると答える前に、私はこの佐々木という男のことを思い出していた。件の捜査本部で実務的な切り盛りをしていた四課の管理官で、私を介さずに有紀子が捜査本部と連絡をとるときにはこの男が窓口になっていたはずだ。いつの間にやらかなりの栄転をしたらしい。
「覚えています。昨日、マリファナの所持容疑で逮捕されたそうですね」
「何故、君がそれを?」
 その質問には答えなかった。空中を飛び交う電波に引っかかったように彼の質問が宙ぶらりんになった。
「……まあ、いい。それを知っているなら、付随する厄介ごとも知っているんだな?」
「はい。高柳家の顧問は大瀧弁護士でしたね。昨日は大変だったんじゃありませんか?」
「その通りだ。昼過ぎに手下のイソ弁を連れて怒鳴り込んできてな。その主張がまた、何ともエスプリが効いてるんだ。高柳伸吾氏は今泉公園で拾ったマリファナ入りのセカンドバッグを交番に届けようとして、近くを警邏中だったパトロールの警官にそれを所持していたと誤認されたに過ぎないんだとさ。そんな馬鹿げた話はないと思うんだがね」
「そうだとすれば、今度は高柳氏の私物を盗んで持ち歩いていた容疑でバッグの所有者を検挙しなくてはならなくなる。それが事実なら被害届を出せと言ってみたらいかがです?」
「嫌がらせとしては面白いが、まあ、それはいい。何を言ったところで現場の判断じゃどうにもならんからな。ところで坂倉巡査だが――」
 有紀子をかつての階級で呼んでしまっていることを佐々木は気づいていないようだった。
「高柳氏を釈放した以上、彼女だけ拘束しておく理由がない。従って彼女にもお引取り願おうと思うんだが、身元引受人がおらんのだよ」
「無罪放免であれば、そんなものは必要ないでしょう」
「そうもいかん。実は立件を見送る方針ではあるのだが、彼女が職務質問に際して、その……巡査に軽い暴行を働いていてな」
「暴行?」
「そうだ。巡査のほうも油断したんだとは思うが、彼の金的を蹴り上げてしまっとるんだ」
「それはまた……」
 所轄署としては頭の痛いところだろう。暴行の事実がある以上は有紀子をまるっきり無罪放免とするわけにはいかず、しかし、彼女だけを公務執行妨害で立件するわけにもいかない。法廷で何を暴露されるか分かったものではないからだ。
「事情は分かりましたが、それと私に何の関係が?」
「坂倉有紀子が身元引受人に君を指名しているんだよ、熊谷警部補」
「……私を、ですか?」
「ああ。そういうわけで非番の日に申し訳ないが、署まで来てくれんかね」
 有紀子が何を考えているのか、私にはまるで想像できなかった。しかし、行かないわけにはいかなかった。
 すぐに行くと答えて電話を切り、私は急いでシャワーを浴びに行った。
 
 福岡市役所と済生会福岡総合病院、そして博多大丸デパートの別館に囲まれた中央警察署の建物は、アールデコの出来損ないのような格子状の外観も相まってやけに貧相に見える。
 愛車のいすゞ・ピアッツァを地下駐車場に突っ込んで、受付に「佐々木副署長に呼ばれた」と告げた。

 しばらく待たされた後、朝っぱらから私の携帯電話を鳴らしたのと同じらしきオドオドした男が私を案内した。中央警察署の構造になら彼よりもよほど詳しい自信があったが、仕事を奪う気にならなかったので大人しく後ろについて歩いた。
 通されたのは取調室があるフロアの小部屋だった。
 部屋の中には佐々木ともう一人の厳つい物腰の男がいた。誰もいないというのに声を潜めて何かの打ち合わせをしている。

 見覚えのない男だった。もとより、自分が関わりのある部署であればともかく、そうでなければ所轄署の役付きの顔と名前など覚えていられるものではなかった。特に私が所属する捜査二課は知能犯や経済事犯が中心ということもあって所轄署と合同捜査になる機会が少ない。
 男は防犯課の課長で塚本と名乗った。

 おそらく高柳伸吾を釈放することに一番立腹している人物のはずで、彼は行き場のない憤りを何故か私に向ける視線で発散しようとしていた。あるいは有紀子の身元引受人だからかもしれない。
 佐々木がいる間は行動を起こすとも思えないので好きにさせておくことにした。
「悪いな、熊谷警部補」
「いえ。それで彼女は何処に?」
「今、調書を取っている。それが終わったら晴れて自由の身だ」
 それまでの間に私も引受人としての手続きを済ませておくことにした。

 塚本課長が案内しようと申し出たのを遠慮すると彼は怪訝そうな顔をした。機会は少なくても手続きをするのに必要な事項は知り尽くしている。

 生活安全課と留置場係に提出する書類に署名して取調室の前に戻った。小部屋を覗くと二人は姿を消していた。
 通り掛かった知己と軽い世間話をしていると取調室のドアが開いた。
「――どうもすいませんでした」
 暗く沈んだ謝罪が聞こえた。
 砂をまぶしたようなザラザラな声だった。しかし、それはまぎれもなく聞き覚えのある有紀子のものだった。
 出てきたのは情報誌の写真よりも年嵩――要するに歳相応に見える女だった。
 白いフェイクファーがついたダウンジャケットにオフホワイトのトレーナー、バーバリーチェックのミニスカート。形のいい脚は黒のタイツに包まれている。足元はカーキのワークブーツ。ポケットには折り畳んだキャスケットが無造作に突っ込んである。

 仕事終わりに逮捕されてそのままなので、それはおそらく営業用の格好なのだろう。二十九歳の女性が着るのは少々無理があるような気がしたが、だからと言って似合っていないわけではなかった。
 担当の係官が私のほうを指し示した。
 有紀子は私を見つけるとどんな顔をしていいのか迷うように複雑な表情をしていたが、結局照れ臭そうに笑うことにしたようだった。廊下の灰皿に吸殻を投げ込んで、彼女に向かって小さく手を挙げてみせた。
「――よう、久しぶり」
「お久しぶりです。すいません、ご迷惑をかけて」
「お前さんの迷惑なら構わんさ。家まで送ろう。それとも何か食べにいくか?」
「ありがとうございます。家まで送ってください」
 事情を問いたげな知己に目顔で挨拶してその場を後にした。
 風貌や物腰に時間の経過以上の澱のようなものも感じられたが、それでも彼女は二年前と同じように、あるいはそれ以上に魅力的だった。
 私は心の中で安堵のため息をついていた。風俗産業の女性に特別な偏見を持っているわけではないが、彼女の二年間を慮るともっと擦れていてもおかしくなかったからだ。
 訊きたいことは山ほどあったが私は何も訊かなかった。彼女も特に話そうとはしなかった。地下駐車場に降りて有紀子をピアッツァの助手席に乗せた。
「へえ、ハンドリング・バイ・ロータスじゃないですか。熊谷さんっていいクルマに乗ってるんですね」
 有紀子は車内を見回しながら言った。
「そうかな。まあ、新車で買ったときはそれなりの値段だったが」
「あたし、好きなんですよね。これってジウジアーロのデザインでしょ?」
「らしいな」
 ピアッツァは発表当時、イタリアのデザイナー、ジョルジェット・ジュジャーロがボディ・デザインを手がけたことで話題を呼んでいた。エッジの効いた低いボンネットと涙滴状のクーペボディが日本車らしからぬ異彩を放っている。他にもステアリングの周りにスイッチ類が集中配置されていて、ほとんどの操作をステアリングから手を離さずに行えるなどのカー・マニアの琴線に触れるギミックが満載だった。
「しかしお前さん、よくジウジアーロなんて知ってるな?」
「ジウジアーロがデザインした中に好きなクルマがあるんです。ロータス・エスプリ」
「リチャード・ギアが乗ってたやつか」
 私は言った。有紀子が驚いたように目を丸くした。
「……熊谷さん、ひょっとして「プリティ・ウーマン」なんか見たんですか?」
「去年の暮れにレイト・ショーでね。他にやってる映画がなかったんだ」
 映画「プリティ・ウーマン」の冒頭でリチャード・ギアが扮するビジネス・エリートが夜のハリウッドをブッ飛ばすシーンがある。ギアはその途中で娼婦――ジュリア・ロバーツを拾うのだが、そのシーンでギアが乗っているのがシルバーのロータス・エスプリだった。
「クルマ好きだとは知らなかった」
「そんなに詳しくはないんですけどね。父が初代のランチア・デルタに乗ってて、ジウジアーロのデザインだっていうのをすっごく自慢してたんです。インターチェンジのランプでベンツ抜こうとして大クラッシュしちゃいましたけど」
「そりゃまた無茶な」
 私がいすゞのスポーツ・クーペを選んだのは、実は正真正銘の親戚付き合い(遠縁のガキがいすゞのディーラーに就職したのだ)なのだが、有紀子が感心してくれているようなので真実は伏せておくことにした。
「家はどっちだったかな」
 私は訊いた。警察時代の彼女の住まいは県警本部の近くだった。しかし、そこは辞めたのと同時に引き払っている。
「都市高の月隈ランプの先のほうです。空港の近く」
「南バイパス沿いか」
 有紀子はうなずいた。私はピアッツァを地下駐車場から出して市役所前を通って国体道路に乗り入れた。
 夕方になるとクルマの流れが悪くなるこの道も、平日の昼間であればほとんどストレスなく通ることができる。櫛田神社の前で駅前通りに入って、そのまま博多駅のほうに進んだ。
「熊谷さんってどの辺に住んでるんですか?」
「住吉。ちょうどこの辺だ」
 このまま真っ直ぐ進めば博多駅の真っ正面にでるが、住吉通りのほうに曲がれば私のアパートはすぐだ。
「それがどうかしたか?」
「遊びに行ってもいいですか?」
「……別に構わないが。じゃあ、後で地図を書こう」

 不意の質問に私は困惑を隠して答えた。しかし、有紀子はキッパリとそれを拒否した。

「そうじゃなくて、今から」
「今から!?」
 私はよほど素っ頓狂な声を出したのだろう。有紀子は驚きと半笑いの入り混じった奇妙な表情をしていた。
「お前さん、疲れてるんじゃないのか?」
「そうでもないわ。初めて入ったけど、留置場ってそんなに寝心地悪くないのよね」
「そりゃ貴重な情報をありがとう。しかし、今からか……」

 間を持たせるためだけに飲みかけだった缶コーヒーに手を伸ばした。本当はタバコに火をつけたかったが、有紀子は少し喉が弱くて、潜入捜査の間もそれだけは苦痛だと言っていたのを思い出した。
「何か問題あるの? ひょっとして誰か、女の人がいるとか?」
「誰もいないし、来る予定もない。ただ――」
「ただ、何よ?」
 表情には出さなかったが私はひどく狼狽していた。さっきから有紀子の言葉から敬語が消えていて、代わりに激情に似た何かがにじみ始めている。

 良くない兆候だった。

 私はハザードランプを点灯させてピアッツァを路肩に寄せた。とりあえず大きく肺の中の空気を吐き出した。そうでもしないと言葉が出てこなかった。

「……あー、その、俺の下種な勘繰りだったら勘弁してくれ。いいか、お前さんと俺は二年ぶりに会ったばかりなんだぞ。しかも、ちょっと普通とは言い難い状況下でな。なのに、いきなりそれはないだろう?」

 有紀子はゾッとするような冷たい視線を私に向けた。

「へえ、熊谷さんってそんなこと気にするんだ? そんなにあたしと寝るのが嫌?」

「そんなことは言ってない。ただ、君は疲れていて冷静じゃないと言ってるんだ。申し出は嬉しいが、今は帰ってゆっくり眠ったほうがいい」

「勝手な男」

 有紀子はドッカリとシートに身体を預けて、それまで普通に降ろしていた脚を高々と組んだ。蓮っ葉な仕草は今の彼女の格好と驚くほど似合っていた。
「二年前に言ったわよね。あたし、熊谷さんなら付き合ってもいいって。あのときは婚約者がいるだろうって軽くいなされちゃったけど、今は誰も邪魔しないわ。それとも風俗で働いてるような女は嫌?」
「誰もそんなことは言っていない。現役はさすがに勘弁してもらいたいが」
「だったら、今すぐ辞めるわ。だから――」
「ちょっと待て。お前さんは混乱してるだけだ」
「今さらゴチャゴチャ綺麗ごとなんて言わないでよ!! あなたはあたしの幸せをぶち壊しにした人なのよ!?」
 私は有紀子の顔をジッと見やった。

 自分の言っていることの意味をどこまで理解しているのかは分からないが、その表情はまるで煌々と燃え上がる炎に晒されて赤く染まった紙のようだった。ほんの少し炎が揺れて隅にでも触れれば、あとは消し炭になるまで燃え上がってしまうだろう。
「最初からそのつもりだったのか?」
 私は訊いた。
「えっ?」
「最初からベッドに誘うつもりで俺を身元引受人に指名したのか、と訊いてるんだ。そうやってアバズレのような自分を見せつけて俺に罪の意識を感じさせて、二年前の腹いせをするために。アパートに連れて行くのは一向に構わないが、それだけは答えてくれ」
「それは――」
 有紀子は口ごもった。予想外の質問が彼女の思考に冷却材の効果をもたらしたようだった。
「……あなたしか、頼りにできそうな人が思いつかなかったから」
「そうだろうな。君が警察を辞めて何をやっていたのかは知らないが、残念ながら、あんな仕事をしながら信用できる人間に出会うのは難しい。ま、普通の仕事をしながらだって簡単なことじゃないがね」
 有紀子は足元のフロアマットに視線を固定したまま、あらゆるものを拒むように身体を硬くしていた。
 私はピアッツァをスタートさせた。そのまま直進して博多駅のほうに向かった。
「……君の婚約者やその親御さんを説得できなかったことについては、俺なりに責任を感じているよ」
 一度、そこで言葉を切った。返事がかえってくる気配はなかった。
 私は言葉を続けた。
「どれだけ詫びても君の気持ちは収まらないだろうが、もし何か俺にできることがあるんだったら教えて欲しい。結果を保証することはできないが、力を尽くすことだけは約束する。だからというわけじゃないが――」
「……ないが?」
「これ以上、自分を傷つけるのはやめてくれ。君はこれまで手ひどく傷ついてきた。何の罪もないというのにな」
 駅前を通り過ぎて百年橋通りに入っても有紀子は何も言おうとしなかった。南バイパス沿いとまでは聞いているのでそこまでは行ってみるつもりだった。いずれは家の場所を訊かなくてはならないが、それまではそっとしておいたほうがいい。
「――ごめんなさい」

 駅の南側から半道橋を通り過ぎ、南バイパスに入った辺りで有紀子はようやく口を開いた。
 間を持たせるためにかけていた「バック・イン・ザ・USSR」のおかげで、危うくその呟きを聞き逃すところだった。それくらい、その呟きは素っ気ないものだった。そっぽを向くように外の景色に目をやっているので表情は分からなかったが、声を聞く限りでは激情は遠くへ去ってしまったように思えた。
「謝ることはないさ。若い女性にベッドに誘われるなんて、ずいぶん久しぶりの経験だったからな。ちょっと若返ったような気分だ」
「……あたし、そんなに若くないですよ。四捨五入すれば三〇歳だし」
「前に俺が四捨五入して四〇歳と言ったときには、まだ若いと言ってなかったか?」
「男と女は違いますよ」
「違わないよ。そろそろ月隈のランプだ。家の場所を教えてくれないか」
 有紀子はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、やがて、それを吹っ切るように澄ました微笑を浮かべた。空港を左手に見ながら走っていると、私が知っている朗らかな心地よい声で「そこを右です」と言った。

 私は彼女の案内どおりにピアッツァのステアリングを切った。