「La vie en rose」第1回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
「――警部補、熊谷警部補」
 中洲の人形小路にある小さな飲み屋。振り返ると佐伯真司が立っていた。
「ここ、いいか?」

「好きにしろよ」
 佐伯は私の隣に腰をおろして女将に熱燗を注文した。カサカサに乾かしてしまった南高梅を連想させる年老いた女将が、その印象を裏切らない不機嫌なダミ声で「はいよ」と返事をする。
「相変わらずむさくるしいな。何とかならんのか、そのヒゲ面は?」

 佐伯は強面に似合わない妙にやわらかい笑みを浮かべていた。心に重荷を抱える人間がそれをごまかすために浮かべる微笑だ。
「開口一番、悪口か」
「事実を口にしたまでだ。まったく、人里に下りてきた熊にしか見えんぜ」
「うるさい、お前が他人のことを言えるのか?」
「俺はとりあえず人間だよ」
 佐伯はこすり合わせる手にハァっと温かい息を吹きかけた。
「もうすぐ二月も終わりだってのに、雪が降ってやがるぜ。福岡ってのは南国九州じゃなかったか?」
「日本海側だからな。積もりそうか?」
「そこまではなかろう。積もってくれると嬉しいんだが」
「どうして?」
「理由はないが、昔から大雪だの台風だのが好きでね。ああいう時ってワクワクしないか?」
 私は返事の代わりに大げさに肩をすくめてみせた。佐伯はニヤリと笑う。
 人相の悪さではこの男も人後に落ちない。八名信夫をそのまま若くしたような風貌で、役者としてならヤクザの若頭か銀行強盗、カタギの役をやるとしても頑固な料理人とか年季の入った指物職人役が似合いそうだ。四十歳前にしては枯れた感じなのでシリアスな家庭ドラマもいいかもしれない。ただ、間違っても警官の役は回ってきそうにない。
 口開けからずいぶん時間が経っているのに客は私と佐伯だけだった。何処の骨董市で見つけてきたのか問いたくなるような古いテープ・レコーダーからは八代亜紀の「舟歌」が流れている。
「ご無沙汰だな。この前会ったのはいつだ?」
 私は訊いた。
「同期の忘年会じゃなかったか。――いや、工藤のオヤジの娘の結婚式で会ってるはずだ」
「会ってない。出席の予定でその日も準備までしてたんだが、結局行けなかったからな」
「呼び出しか」
「詐欺容疑でマークしてた会社の重役が高飛びしそうになったんだ。おかげでブラック・スーツに白ネクタイで空港に駆けつける羽目になった」
「二課は大変だな」
「防犯課ほどじゃないさ。と言うか、公の場でもないのに階級で呼ぶなよ」
「同期でもケジメはつけなきゃな。俺はしがない巡査部長、そっちは二課のエースだ」
「バカなことを」
 カウンター越しに徳利と猪口が届いた。私は熱燗を注いでやった。
「今日は上がりか、熊谷?」
 佐伯は酒がこぼれないように慎重に猪口を口に運んだ。
「ああ。追ってたヤマがようやく片付いたんで、久しぶりに早く帰れたのさ。しかも明日は非番だしな。そっちは?」
「こっちも上がりだ。とりあえず今日は、だがな。残念ながら未解決事件が特売日に頒けてやれるほど溜まってる」
「俺たちの仕事はいつもそうさ。終わりはない」
「違いない。しかし、こいつは旨いな」
 佐伯はつき出しのがめ煮を口に放り込んでいた。女将のシワだらけの顔の奥の目がほんの少しゆるんだが、それは私のような常連にしか見極めることができない程度の変化だった。
「……それで、いったい何の用だ?」
 私も小芋を口に運んだ。私はこの店では女将が作る煮物しか食べない。品書きには焼き物や揚げ物だってあるのだが、焼酎のお湯割りに合う酒肴となるとこれを選んでしまうのだ。
「同期の旧交を温めに来ただけさ」
「嘘をつけ、お前がそんな柄か」
「えらい言われようだな」
 佐伯は苦笑いを浮かべながらハイライトを振り出して、店のマッチで火をつけた。
「高柳征士郎を知ってるか?」
「与党県連の大物だな。支部長の代議士連中もあの爺さんの機嫌だけは損ねないようにしていると聞いたことがある」
「その孫の若造が今朝早く、マリファナ所持の現行犯でパクられた。女連れでな。パクったのは今泉公園の辺りを巡回してた地域課の新人だ。職質で引っかけたらしい」
「ずいぶん優秀な坊やだな」
「まったくだ。中央署の署長室で全身から冷や汗が出るくらい褒められたことだろう」
 力のある政治家の身内を逮捕するのには常にリスクが伴う。このリスクは現場の警官にはそれほどでもないが、ある程度以上の職位に就いているとなかなか無視できない代物になる。警察署長程度で終わりたくないという上昇志向の連中にとっては特に。
「それで?」
「孫についてはおそらく圧力がかかるだろう。それは別にいい。ウチのヤマじゃないからな。問題は一緒にパクられた女なんだ」
「何者だ?」
「坂倉有紀子巡査、いや、元巡査だ。覚えてるだろう?」
 私は思わず佐伯の顔を見やった。古い過去を思い出すような薄い微笑に陰鬱な影が貼りついている。
 しばらく返事をすることができなかった。
 言葉を紡ぎだすために私もタバコに火をつけた。ゆっくりと煙を吸い込んで、それをため息と共に殊更ゆっくりと吐き出す。緩慢な自殺と称されるその行為にも心を落ち着かせるという立派な効果があった。
「……ああ、覚えている」
 タバコ一本を灰に変えた後で私はようやく呟いた。忘れようと思っても忘れられる名前ではなかった。

「彼女は今、何をやってるんだ?」
 私は訊いた。
「シャングリ・ラとかいう出張ヘルスで働いてる。逮捕されたときはお仕事が終わったあとだったらしい」
 今泉公園の周辺にはラブホテルが集中している。そこに呼ばれて仕事を終え、客と一緒にホテルを出たところでやられたというわけだ。
「しかし、そんな仕事をしているとはな」
 佐伯は同感だというように小さくうなずいた。
「本名そのままの”ユキコ”って源氏名で、本人によると結構な売れっ子らしい。確かに婦警にしては見栄えがする娘だった」
「……そうだったな」
 だから彼女は中洲のホステスになりすました。

 

 中洲の高級クラブを隠れ蓑にした違法カジノの実態をつかむために博多署に捜査本部が設置されたのは、二年前の秋の終わりごろのことだった。
 捜査の指揮を執っていたのは県警捜査四課だったが、クラブを経営する会社が他に詐欺行為にも手を染めているという理由で経済事犯に詳しい私が、カジノの客に麻薬を捌いているらしいという理由で生活安全課の佐伯が、それぞれ捜査本部に呼ばれていた。
 捜査は開始直後にいきなり暗礁に乗り上げた。
 肝心の賭場の場所がまるでつかめなかったからだ。理由は程なく分かった。秘密裏の場所にある常設のカジノではなく市内のホテルを転々としていて、その夜に何処で賭場が立つのかは当日の夜、クラブを訪れた者にしか知らされないという周到な仕組みだったからだ。
 唯一、その情報をつかみ得るとすればカジノの客が必ず立ち寄るクラブのホステスくらいだった。事前調査ではホステスはカジノとは無関係という話だったが、酔って大事なことを洩らしてしまう男は必ずいるものだ。
 問題はそこに誰を送り込むかだった。
 ホステスの一人を抱き込んでエス(スパイの頭文字――内通者のことだ)に仕立てるというアイデアは出された瞬間に消えた。そうするには時間と手間、そして費用がかかり過ぎたし、それだけの効果があるとは言えなかった。万が一、正体が露見したり裏切ったりしたらすべてが台無しになる。

 上層部が出した結論は”婦人警官をホステスとして送り込む”という前代未聞のものだった。
 テレビドラマと違って、日本では警官がいわゆる潜入捜査をやることはまずない。

 理由は実に簡単でそれを合法とする法律が日本にないからだ。犯罪組織の中に潜り込んでいれば正体が割れるのを防ぐためにも他の連中と行動を共にする、つまり犯罪行為に加担せざるを得ない場合がある。しかし、その犯罪が露見したときには潜入捜査していた人物も訴追を免れることができない。捜査員だけ立件を見送るという方法もなくはないが、弁護側に違法捜査を指摘されると何かと面倒なことになる。
 それでなくても身の安全の問題など反対意見も噴出したが、しかし、今回は他に方法がなかった。すったもんだの議論の末に選抜されたのが、県警の刑事総務課に所属する当時二十七歳の婦人警官――坂倉有紀子だった。
 いかにも婦人警官らしい真面目な娘だったが、生来の勘の良さと同時に水商売が肌に合うようなところもあったらしく、有紀子は驚くほどスムーズに夜の世界へ溶け込んでいった。捜査陣の中で面が割れている可能性が低かった私は客を装ってクラブへと足を運んだが、逢うたびに文字通りの”夜の蝶”へと羽化していく彼女に驚きと幾ばくかの不安を感じたものだ。
 それでも気を抜くことは絶対に許されなかった。薄氷を踏むような捜査の間、彼女からもたらされる情報を元に内偵は順調に進んだ。
 公判を維持するに足る充分な証拠固めができたと判断した上層部は、彼女の潜入からちょうど二ヵ月目の夜に捜査員に対して一斉検挙を命じた。
 私や佐伯のような外様にはお声はかからなかったが、その様子は当日のニュースで何度も見せられることになった。年末や番組改編期の警察密着モノでもない限り、通常は逮捕の現場にテレビ・クルーが立ち会うことはない。それは実績をアピールしたい誰かが、評価する誰かに向けたものだったのかもしれない。それはそれでもよかった。
 問題は踏み込まれた現場のクラブホステスの一人として、有紀子の顔がVTRにハッキリ映ってしまっていたことだった。しかもバックのモブの一人だったためか、最初の午後六時からのニュースでは彼女の顔にモザイク処理が為されていなかった。
 有紀子には三ヵ月後に入籍を控えている婚約者がいた。その叔父がニュースを見て婚約者の親に「嫁になる娘は警察官ではなかったのか」と怒鳴り込んだことから大騒ぎになったのだ。
 本来ならそれほど大事にはなりえない話だった。本人の説明で納得しないのなら上司の誰かが話しに出向けば済むことだからだ。私や佐伯もそう思って「えらい災難だな」と苦笑いを浮かべながら有紀子をメシを食いに連れて行く算段をしていたくらいだ。
 ところが事件の送致を受けた検察庁から四課の課長に”危急の相談”というやつが舞い込んだ辺りから話がおかしくなり始めた。
 詳しいことは部外秘とされて窺い知れなかったが、どうやら証拠の一部に微妙な点があって、警察が潜入捜査をしていたことが知れると重要証拠の一部に違法収集証拠と見做される危険が生じたらしかった。
 県警上層部は当該事案における潜入捜査を否定した。有紀子の抗議はまるで聞き入れられなかった。
 しかも、話はそれだけでは済まなかった。有紀子が潜入していた高級クラブが裏で売春組織を運営していたことがその後の報道で明らかになったのだ。売り掛けがかさんだり薬漬けにされたクラブのホステスを女の供給元にしていたというおまけまでついていた。
 当然のことながら有紀子は猛然と関与を否定した。しかし、一度持たれた偏見の頑迷さは想像を遥かに超えていた。 
 連絡係を担当した私は彼女の動向を知るものとして、一連の事態の説明をするスポークスマンの役目を押し付けられることになった。私は婚約者の両親と叔父に対して有紀子には何一つ恥じるところがないことを力説した。
 しかし、県警の見解を崩すことを許されない私は手足を縛られて海に投げ出されたも同然だった。私は婚約者の家族を納得させることができなかった。できるはずがなかった。
 婚約は双方の同意の名の下に一方的に破棄された。
 失意の有紀子は元々の所属である刑事総務課に戻され、そこで一ヶ月ほど腫れ物に触るような扱いを受けた後、辞表を提出した。上層部がそれを待っていたのは周知の事実で、彼女は形通りの慰留を形通りに受け流して警察を去った。
 
「彼女も――坂倉有紀子もマリファナを?」
 私は訊いた。
「そこまでは知らん。やってなかったとは思えんがな。とりあえず高柳の孫の容疑が揉み消される以上、彼女だけ立件されることはあるまい」
「だろうな」
 私は黙り込んだ。佐伯も同じように押し黙って手酌酒を口に運んでいた。
「それを知らせにわざわざ来たのか」
「そういうわけじゃない。誰かに話さなきゃやりきれなかっただけさ」
「その誰かが俺だったということか」
 俺に知らせてどうなる――続くその言葉は口には出さなかった。
「そういうことだ。迷惑だったなら謝る」
「……別に構わん。ところでお前、こんな時間まで外をほっつき歩いてていいのか?」
「言われなくても帰るさ。真奈を風呂に入れてやらなきゃならん」
 頼んでもいないのに佐伯は懐のパスケースの写真を私に見せた。そこにはやや面長なくっきりした顔立ちの美人と、彼女の面影を残した愛らしい女の子が写っている。一歳半か二歳、そんなところだろう。
「どうだ、可愛いだろう?」
 佐伯が言った。気持ち悪いくらいに目許が緩んでいる。
「ふん、あれだけ子供嫌いだったお前が親バカとはね。人ってのは変わるもんだ」
「お前も所帯を持ってみりゃ分かるさ。まあ、あんな美人を逃がした時点で、お前の結婚運は尽きちまってるんだろうがな」
「大きなお世話だ」
 佐伯は小鉢と徳利を空にすると千円札をカウンターに置いて席を立った。ごちそうさんの一言に女将が無愛想な毎度ありを返す。入口から吹き込んでくる風は確かに氷のような冷たさを持っていた。
 女将と私だけになると店内からは途端に音が消えた。ガスレンジでコトコトと煮立っている鍋の音とストーブの上のヤカンから立ち上る湯気の音、カウンターの向こうで女将が雑誌のページをめくる音。オート・リバースなんて洒落た機能のないテープ・レコーダーはとっくに沈黙してしまっていた。
 私は焼酎のグラスを口に運んだ。
 しかし、それはもはやアルコールが入った苦くて不味いぬるま湯でしかなかった。