一人称小説における言葉の選び方と「さっちゃん」 | 『Go ahead,Make my day ! 』

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【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

小説の記述形式を「視点」という分け方をする場合、大分類としては「一人称」なのか「三人称」なのか、ということになります(実際には視点人物の数が絡んできますが割愛) この二者の違いは星の数ほどある小説ハウツー本で論じられているのですが、私が書き手の末席を汚す者として一番「…違うな」と感じるのは、地の文(ナレーション)における言葉の選び方です。


三人称においては、地の文は登場人物の誰でもない”語り手”の言葉ですので、小説の世界観にさえ反しなければ、基本的にはどんな言葉や言い回しを使っても良いわけです。ところが一人称では一部の例外を除いて”語り手=主人公”なので、地の文までもが主人公の言葉、すなわち主人公の人となりを表すものとなってしまうのですが、実はコレ、結構な問題だったりします。


たとえば有名なサッカー選手のポスターを描写する場面があったとします。で、そこに映っている選手を見て、


「気難しそうな顔立ちの頭頂部の薄いサッカー選手」


「ちょっと前、カップヌードルのCMにも出ていた有名なフランスの選手」


「レアル・マドリーの5番、フランスの至宝、ジネディーヌ・ジダン」


どれにするかで、主人公のサッカーに関する知識の差がはっきり出てしまいます。

同じことはファッション、美術、酒、タバコなどあらゆるものに及びます。

単語の量というものは興味のあるもの、生活に密着したものほど細分化されていて、酒を飲まない人にとっては「ウイスキー」と「日本酒」と「ビール」くらいにしか分類できないものでも、飲み手にとってはウイスキー一つとっても星の数ほど種類があり、女性のファッションに疎い我々オッサンには区別の出来ないものでも、当の女性たちには厳然とした違いがあるのです。ちなみに私はいまだにミュールとサンダルの区別がつきません。

これはそういう言葉の選び方一つで主人公の人物を描いてしまえるという利点でもあり、同時に「コレは!!」という比喩を思いついても、主人公の設定上、使えないこともある(自作では主人公はホークスファンという設定なのでサッカーを比喩に使えない)という、なかなか悩ましいものです。

まぁ、それも創作の面白さではありますが(面白いコトあるかい!!←心の声)


とまあ、ここまでは

「一人称においては地の文の言葉の使い方一つまでが”語り手=主人公”を表すものである」

という簡単なことを、クドクドと書いてみたのですが。

なんでそんなことを今更ながら思ってみたかと言うと、実はこの歌をものすごーく久しぶりに聴いてしまったからなのです。


その歌は「さっちゃん」


♪さっちゃんはね~、という例のヤツです。NHKのみんなのうたでやっていたのですが(何故、わたしがそんなものを見ていたのかについては企業秘密ってことで)


この歌の歌詞、覚えてますか?


そのまま転載すると著作権に引っかかるので、要約してみますと――。

1番 さっちゃんはさちこっていうんだけど、小さいから自分のことを「さっちゃん」と呼ぶ。

2番 さっちゃんはバナナが大好きなんだけど、小さいから半分しか食べられない。

3番 さっちゃんは遠くへ行ってしまうらしいんだけど、小さいから僕のこと忘れてしまうのかな?


という内容です(アバウトな要約ですが、意味は通じてますよね?)


で、この歌の何が私の心の琴線をくすぐったかというと。

一人称では地の文全て、その人となりを表すとするならば(3番にボクという人称代名詞が出ますので、間違いなく一人称です)「コレ、ひょっとしてすんごいヤバイ歌なんじゃ?」ということに気付いてしまったのです!!


まず、人間関係の整理。

登場人物は二人。さっちゃん。ボク。

さっちゃんはまず、自分の名前(さちこ)が言えず、バナナが半分しか食べられないことから、幼児(幼稚園児くらいか?)であることが分かる。

ボク。年齢に関することは歌詞には出てこないが、2番において、さっちゃんが大好きなバナナを半分しか食べられないという事実を「かわいそう」と感じる感受性は、相応の精神年齢を感じさせる。1番においても自分の名前が言えないさっちゃんのことを「おかしいな」と上位の目線から言っていることからも、それなりに年長であることは容易に伺える。

そして2人の関係性。3番の歌詞には決定的な事実が描かれている。それはさっちゃんが遠くへ行ってしまうことを「ホントかな?」と言っていることである。

これはすなわち、さっちゃん家とボク家には、そういった情報が確定的なものとして流れてくるような繋がりがないことを示している。言ってみれば親戚であるとか、家族ぐるみの付き合いがあるような関係ではないのだ。せいぜいご近所さんといったところだろう。

ここで男性諸君には自分の幼少時代を思い出して頂きたい(女性は逆を想像して頂きたい)


あなたは親戚でも家族ぐるみでもない、年下の幼女に興味を示した記憶がありますか?

 



私にはありません。

大体、子供の狭い世界において年齢差のある友達と言うのは、親戚か、よほどの繋がりのあるコミュニティでしか成立しないのです。

これらのことから導き出される結論は一つ。


ボクには少なからずロ○コンの気があって、さっちゃんはその対象であった。


ね、アブナイ歌でしょ?


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えー、かなり恣意的な解釈であることをコメント欄で叩かれる前に謝っておきます(笑)。

 

小説はともかく、歌詞は良く考えると「何じゃコレ?」というのが多いですね。

ジッタリン・ジン(綴りが分からん)の「プレゼント」というヒット曲(♪あなたがわたしにくれたもの~、ってヤツね)だって、冷静に聴くとマイ・スイート・ダーリンとか呼ばれてる男も、彼女がいるのに他の女にプレゼント攻勢をかけるような男なわけですし。

油断のならない世の中ですねぇ(←オマエが言うな)