三矢の訓対談 | 小早川秀秋日記 ~ボクはここにいる~

小早川秀秋日記 ~ボクはここにいる~

古戦場の町関ケ原の史跡ガイド・観光案内・歴史語り部の関ケ原組創設者関ケ原おもてなし武将小早川秀秋。
2018年3月をもって一旦関ケ原を去りました。(2017/11/22日記参照)
関ケ原組からの嫌がらせと脅迫により現在定期活動はしておりません。
※写真の加工・無断転載禁止

三矢の訓対談 (みつやのおしえたいだん)
隆景さんの三原でそのような催しが開かれた。
現代の毛利家、吉川家、(再興)小早川家の三家が集まるのだ。


毛利元就公が息子たちに一本の矢は容易く折れるが三本の矢は折れない、三人力を合わせてという物語は有名だよね。(史実ではないよ)
この話の元となったのが三子教訓状と呼ばれる三めーとる近い文なのだがそれに因んだ催し。

三家の他に大学の先生と三家の居城があった三市町(安芸高田市、北広島町、三原市)の方が集まってお話。
三家集まるのは小早川家が断絶して以来だそうだ。四百年…えっ…


話は全体的に吉川家と三原市が取り纏め役という感じだったかな。
毛利家は我が道をずんずん進んで行って吉川から補足が出る(笑)
同一お題で三家それぞれ話すと最後の小早川家が綺麗に纏めるのに、小早川家だけだとこちらもずんずんずん♪
最近よくお見かけする再興小早川家当主さんは今日もまた石田三成子孫のお話をされる。
すっっごく仲良しみたいだね。一昨年だったかな?近江の観音寺対談で初顔合わせしてから石田家と良好みたいだ。
石田と小早川のちこなつ(ちこちこなつなつ)…
毛利と吉川が嫉妬しそう…
四百年前じゃ考えられないけれどこれが平和な平成なんだよな。よきかな、よきかな。
色々あったけどさ、当時は皆生き残りをかけて必死だったんだ。
悪とか正義とかじゃないんだよ。
それに石田家当主は秀秋は最初から東軍だと思っていると以前話されていた。だから裏切りとは思っていないとも言ってくださったね。

三家も三市町も力を合わせて毛利一族で観光を進めたいそうだ。
団体駕籠旅は是非やって欲しいな。
解説付き毛利家つあーとかいいよね、お泊まりでごはんも因んだ物とか郷土料理でさ、毛利家の晩餐にようこそ!とか、尼子からキミを引き抜くもてなしみたいな感じで。
○○部屋みたいに部屋を飾らなくていいんだ、設定だけ、添える言葉だけ『ぽく』すれば十分いけると思うよ。
大丈夫、後は自分たちで脳内で物語作るから(※家臣談)


他に各地市町に伝わる毛利一族由来の躍りの披露と大学による毛利家のおもてなし料理の再現があった。


先着であわひ(白和え)、雲月羮(野菜や肉魚を似て寒天で固めて菊(当時はたんぽぽ)を散らしたもの)、鳥(鶏肉の味噌焼き)の三つの中から一つ食せたのだが、ボクは『あわひ』をいただいたよ。
味付けはほぼないけれど、噛んでいると鮑の旨味が出てくる。十分美味しい。
再現と言っても完璧な再現は無理なんだ。
文献には食材しか書かれていなかったり、肉でも鳥とだけしかなかったりと、詳しい材料や調理方法が書かれていない。
数々の記録と、史跡の発掘から導きだした物で推測で作るんだ。

あわひ

入り口には三市町のゆるきゃらが。

安芸高田市のたかたん
三原市のやっさだるマン

北広島町の花田舞太郎

やっさだるまん殿にうちの小鳥川さんと撮っていただいた。
お付きのお兄さん、お姉さんありがとう~(о´∀`о)
小早川秀秋のきゃら(自作)と隆景さんの三原の子のつーしょっと♪

小早川家から寄贈された小早川家の武具が展示されていた。しかも写し絵可能!



毛利の民の併せ技はなかなかだった。
次もあったら行こう。