荒木又右衛門という事 | 夙の三郎 オフィシャルブログ powered by 俺様

夙の三郎 オフィシャルブログ powered by 俺様

風を知れ!
そして地の薫りを嗅ぐのだ!
さすれば血は炎のたぎりを失う事なく運命の鐘を鳴らすだろう…

もはや枷は外れた



歴史に名を残す人物として荒木又右衛門は知られている(-。-)y-~
なんといっても《鍵屋の辻》の決闘が又右衛門をして剣豪たらしめたとされているし, 俺が好きな作家の故・隆慶一郎サンも【かくれさと苦界行】という作品内で主人公・松永誠一郎のライヴァルで隻腕となった柳生義仙(後に剃髪し烈堂と号する)を鍛え上げる師匠かつ『死んだ筈』なキャラクターとして重用している(チ〇コがデカ過ぎて "相手" が見つからないという非常に不憫な設定だ☆)

てか
又右衛門は何故こんなに歴史に愛される男と成りえたんだろうか?
(´・д・`)
デカ過ぎたから?







 


推測される答えは《赤穂浪士の討ち入り》と同じで, 後代の講談や歌舞伎, 芝居などの表現媒体で拡大解釈や誇張により一般大衆受けするキャラクターに変容されたからだと思う
(・・;)
まぁ冷静に考えりゃ判る話なんだが… 人間てのは『夢を見たがる』生き物だからね
《赤穂浪士》もだが,最初に持て囃された江戸中期という, 平和には違いないが窮屈きわまる時代背景が "必要に応じて" 世の中に提供したエンタメだと思えば理解もし易い

そう
荒木又右衛門とは彼自身が, というより民衆の退屈しのぎが時間や手間を掛けて創り上げた人間なんだよ!
決闘やら何やらは実際に在ったらしいが, 本当のとこは現在の俺らには何一つ解りゃしない
どの程度 強かったのか
本当は謂われるほど強くなかったかも…









ググっとったら素晴らしい画像を見つけましたえ☆全く関係ありまへん











事の発端は衆道=シュドウ
《男同士》って事やね (´ω`)



又右衛門の嫁の弟である渡辺源太夫(当時17歳)は岡山藩主の池田忠雄=徳川家の外戚… からの寵愛を受ける美貌の持ち主だった
彼に恋心を抱く事すら許されない状況を打破しようとしたのは河合又五郎(19歳)だったが, 想いが叶わないと知るや源太夫を殺害した挙げ句に逐電(逃げやした…)という, どう庇い様も無い愚行を犯す!
( ; ゜Д゜)
まぁ短絡という言葉すら生ぬるい不埒な行為だが… しかし馬鹿ほど可愛いのか? 兄の甚左衛門は不肖過ぎる弟を連れて主家・安藤四郎衛門の江戸邸宅へ庇護を求めて駆け込む

結果からしたら, この兄弟揃って底抜けに阿保で馬鹿な行為が被害者側と加害者側の双方に災難をもたらしてしまう訳だが, 安藤家と池田家も過去に火種を燻らせて(原因が河合半左衛門… 兄弟の実父という因縁!)おり, 話は更にややこしくなる
(@_@)
そもそも安藤家の所属だった父である河合半左衛門が些細な理由で同僚を殺した上に池田家へ逃げ込み(親子揃ってクズ),ソレを安易に受け入れてしまった… この構図が17年の時を経て攻守逆転して再燃したんだな☆

池田=有力外様大名
安藤=旗本(将軍直属の家臣団)

どちらも退き下がる理由も気も無いもんだから, 幕府は慌てて仲裁に入る(ぶっちゃけ "無かった事" にしようとした)んだが池田忠雄が『きっと討ち果たすように』遺言を残して死んじゃったもんだから, 周りは蒼然とする

そう
個人間の怨みつらみな次元じゃ無くなったのね…
河合側は桜井半兵衛ら著名な武士を伴い文字通り "追われるように" 逃げ, 渡辺側は死んだとはいえ君命により追わねばならない, どちらにも辛い展開となる
もう, この時点で又右衛門の残りの人生は決定しただろうね
(・・;)











江戸幕府という大きな楔が打ち込まれ30数年経過し, 気風の荒い男達にとってコレ以上は無い拷問のような時代が訪れた
理由や大義名分が何であれ《応仁の乱》以降の力によるブン獲り合いの果ての荒涼感に疲れきった民衆は "自分達とは関係ない争い事" に心を疲弊させながら, しかし心の何処かで『自分じゃない誰か』の突飛な行動を囃し立てて喜んでいたんだろう

自分で動くのは嫌だからな(-。-)y-~
ヴァーチャルだから安心できるんだよ

戦闘内容が《存在しない数の人間》を計上し続けたってのが荒木又右衛門を人間として見ていない証拠だろうね
36人斬りって何じゃい!
武蔵の70人斬りに対抗?
『自分じゃない誰か』なら死のうが生きようが, どうでもイィ

民衆てのは実に酷い種族だ











ここは《鍵屋の辻》



ソレにしてもさぁ…

朝の8時頃に始まった戦いが昼の2時に終了って幾らなんでも長すぎるだろ!!
( ; ゜Д゜)
《関ヶ原の合戦》より長いぞ!
11vs.5とは思えない



 ウィキペディアよりの引用~
又右衛門が馬上だった河合甚左衛門の足を薙ぎ, 更に斬り上げて甚左衛門は即死
桜井半兵衛には小者2人をかからせて得意の槍を渡さないようにさせ, 刀の勝負で半兵衛に深手を負わせた(半兵衛は2日後に死亡)
渡辺数馬は河合又五郎一人に専心し, 数時間に及ぶ死闘の末…

数時間に及ぶ死闘…

数時間とな?
2人はピコピコハンマーで殴り合ったのかな?
(´・д・`)







ちょいと調べりゃ判る事だが
河合甚左衛門 以外は全て《関ヶ原》以降に産まれ(正確には又右衛門のみ1599年産まれ)た… つまり実戦経験は無きに等しい者ばかりだ
ソレが何を意味するかは延々5時間以上も斬り合い続けた若者2人が体現しとるだろう
(´Д`)
不細工この上ない

もう, こうなると《霞の半兵衛》と謂われた桜井サンの実力は疑わしくなるし彼を倒した又右衛門の…いや, 又右衛門は馬上だった甚左衛門の足を薙いだ後に斬り捨てているからソレなりか?

400年も昔だからな…














 ウィキペディアより引用~
数馬と又右衛門は藤堂家に客分として保護されたが, 鳥取藩主・池田光仲(忠雄の息子)の請いにより寛永15年(1638年)8月12日に鳥取に移った
2人はそれぞれ妻子を呼び寄せたが, 又右衛門の妻子が9月に到着した頃の8月28日に又右衛門は頓死したということになっていた
…死因については毒殺など諸説ある


つまり
誰の思惑かは判らんが《始末》されたんだろう(*_*)
仇討ちのルールたる『適用は父や兄など』を無視してまでも敢行した意義は在ったのか?




なんせ400年…