いわゆる「道郷問題」について 前 

 

 

大石寺三祖日目上人の跡目を争い、日道と日郷との間で大石寺内の勢力を二分する深刻な対立が起きたのです。日郷は、建武2(1335)年に万年救護の本尊や御影像等を持って大石寺を出て、現在の千葉県保田に妙本寺を開きました。日道と日郷の争いは、両者の死後も後継者によって続けられ、70数年に亘った、とされています。

今回、堀日享上人編集の「富士宗学要集(略して、富要集)」から問題の経緯を述べた関連文書を紹介します。

(古文書の扱いは、振り仮名部分のカタカナ表記箇所もひらがな表記に改めましたが、振り仮名自体は原文通りとしました。)

 

 

それぞれの人物紹介

 

A.新田日道上人(1283-1341年)

 

弁阿闍梨、大石寺第四世法主

 

「日道伝 

釈の日道、俗姓は新田卿目師の甥なり、母は時光の息女なり妙法尼の孫なり、弘安六年伊豆の国に於て誕生す、若年より出家と作さんと欲す名て目師の弟子と為し富士に登り上野に居住す、後興師の座下に詣り法華の行学を習修す、爰に於て僧房を起立し常に之に居住す今の行泉坊是なり(中略)碩学の歎れ有るに因って有職を賜はり弁阿闍梨と号し新六人の内に加へらる、奥州に下向し日目建立の寺庵を経行せんと欲し出で給ふか、是より已前に目師の知行の田畠を日道に付与し給ふ(以下略)」(富要集 日精 記「富士門家中見聞 中」 5巻 宗史部 211頁)

 

日道の事跡:

  正安元(1299)年 17歳で日目の弟子となり出家する

  元弘2(1332)年 日興弟子新六人の一人に選定される

  正慶2(1333)年 「三師御伝土代」を記す

  同年        日目・亰天奏に先立ち、日道に法を付属する

  建武3(1336)年 天奏を目指し奏聞状を書く

  同年        諌暁八幡抄と法華題目抄の奥書をする

  興国2(1341)年 日行に付属し、大石寺西大坊にて入滅する(59歳)

  寺院建立: 本源寺、上行寺、妙教寺、妙円寺(以上、東北地方)

 

上記文書の堀日享上人見解:

「道師郷師の寺跡争ひ両山の所伝大に誤る 現存両山古文書等全く郷師所在の蓮蔵坊及ひ東坊地の争にして大石に関するものにあらず又起源は建武二年なり 郷師付属を受くるの証なく三年及三度の対決無根の誤なり 貝鐘等の事あるべきにあらず」(富要集 5巻 宗史部 215頁 上隙に書いている[天註と名づけている])

 

 

B. 太田日郷上人(1293-1353年)

 

富士門流宰相阿闍梨、保田妙本寺開基、小泉久遠寺第四代貫主、日豪(日毫も)と同人物

 

「日郷伝

釈の日郷は俗姓は越後の大田なり、志学の比より学を好む、隣里に金津と云ふ仁有り常に屋棟に登て富士山に向て礼拝して題目を歌府、日郷童音男足る時金津に問うて云はく何なる事を祈り毎日比の如くなるや、金津云はく我が帰敬する所の寺、富士の麓に在り、故に日々拝するのみ、郷公云はく我を行れて富士に往け我れ受法すべしと、金津喜んで日郷を具し富士に到り伊賀公日世の所に着く今の久成坊是なり、日世為に説法す日郷聞て深信の故、即弟子と作り出家し宰相と名づくるなり目師の座下に於て御書を聴聞し兼て法華の行学を習修す、目師法器たるを視て弟子と為し給ふ、亦重須に往詣して始て興師に見え、談所に出仕し論談決択するに利智精進なり、後有職を賜て宰相阿闍梨と号す、是より結衆に列して重須に往還し給ふ。興師御入滅の後は目師に随順し蓮蔵坊に居住す、正慶二年十月下旬、日目天奏の為に上洛す日郷御供なり、美濃国垂井の宿にて御入滅なり、即荼毘し奉り御骨を京都東山鳥辺野に上せ奉る、其の後日郷は目師付属の御本尊以下取り具して富士に下向し蓮蔵坊に着き日目の御遷化を大衆に告ぐ、亦目師大石寺を以て我に付属す遺状之有るの由を告げらる、之に依って大衆二に分れ両方貝鐘を鳴らし正慶二年十二月より建武二年に至る三年の間対論し三度の対決あり、終に衆を引て退出し給へり、日郷富士を出で鎌倉に到り弘通を為す(以下、略)」(富要集 日精 記「富士門家中見聞 下」 5巻 宗史部 240頁)

 

日郷の事跡:

  延慶3(1310)年 十八歳で日目の弟子となる

  元亨2(1322)年 日興書写本尊を授かる

  正中3(1326)年 日目書写本尊を授かり、蓮蔵坊に随侍する

  元弘2(1332)年 日興弟子新六人の一人に選定される(日豪の名で)

  元弘3(1333)年 日目天奏時、日尊と共に随伴する

  同年        日目逝去の為、富士に帰り下之坊に納骨する

  延元3(1338)年 南条時綱より大石寺東坊[蓮蔵坊]の地を譲り受ける

  興国5(1344)年 日叡を伴って蓮蔵坊に入居する

  康永3(1345)年 上洛し上杉管領に伝奏する

  興国7(1346)年 光明院に天奏し、綸旨と嵯峨帝宸翰の法華経拝領する

  正平4(1349)年 再度、天奏する

  正平8(1353)年 本尊・聖教類を法華堂に安置する

  同年        法華堂を南条時綱の子・牛王丸(日伝)に付し、

             牛王丸の出家まで山城房日明に仮付属する

  同年        後事を門下に託して入滅する(61歳)

  寺院建立: 顕徳寺、法華堂[妙本寺]

       

上記文書の堀日享上人見解:

「古来自他大に誤る全く大坊寺跡争にあらず 日郷故ありて蓮蔵坊を追はれしが起因なり 貝鐘を鳴らし三年に三度の対決等事実無根なり 史実は三四代七十二年に亘りて蓮蔵坊及東坊に関する係争なりしなり 両山に其古文書厳存すれども古来何人も此を研究せずして漫に訛伝を妄信したることの愚かさよ」(富要集 5巻 宗史部  240頁 天註)

 

 

 

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