いわゆる「道郷問題」について 後

 

 

騒動の全容

 

 

「動郷問題」に関連する以下の古文書を紹介します。

(古文書の扱いは、振り仮名部分のカタカナ表記箇所もひらがな表記に改めましたが、振り仮名自体は原文通りとしました。)

 

 

日郷側の言い分

 

「大石寺衆云く日目大石寺を以って日道に付属す日道日行に付属す日行日時日阿日影日有日乗日底日鎮日院。小泉の久遠寺日義云く日道に六ケの謗法有り一には未処分の跡を奪ひ取るなり、日目天奏の為に上洛せんと欲し濃州に於て御入滅なり、是の故に大石寺は日目日道に付属せず日道付属の状之れ無し、然るを大石寺を押領す是れを未処分の跡を奪ひ取ると云ふなり、二には玉野日尊は日興御勘気十二年なり、其の間に日道日尊の供養を受るなり、三には故聖教を以って屛風を張る等なり。」(富要集 要山日辰上人 記「祖師伝」5巻 宗史部 34頁)

 

現代語訳:大石寺の信徒衆が云うのには、日目は大石寺を日道に付属し、日道は日行に付属し、日行から日時、日阿、日影、日有、日乗、日底、日鎮、日院と付嘱が続いたのですと。小泉の久遠寺の日義は、日道に六項目の謗法が有ったと云っています。一には未処分の寺跡を奪い取るなり、日目が天奏の為に上洛しょうとしたが、濃州に於いて御入滅されました。その為に大石寺では日目は日道に付属しなかったので、日道には付属の証明書はありません。ところが、日道は大石寺を横領しこれを未処分の寺跡を奪い取ったと云うのです。二には玉野日尊は日興の御勘気から十二年になりますが、その間に日道は日尊からの供養を受けています。三には故人の聖教・宗義を用いて宗風をなびかせる等です。

 

 

日道側の言い分

 

「小泉久遠寺日義云わく日道に六ケの謗法有り、一に未処分の跡を奪ひ取るなり日目天奏の為に上洛を為し濃州に於いて御入滅なり、是の故大石寺は日目より日道に付属せず日道に付属状之れ無し、爾れば大石寺を押領す是れ未処分の跡を奪ひ取ると云ふなり、二には玉野太夫阿闍梨日尊は日興の御勘気十二年なり、其の間日道、日尊の供養を受けるなり、三には故聖教を以て屛風を張る等なり云云。

愚謂らく此の難甚た非なり日目遺跡日道に付属する道理一に非ず、其の故は新六人の初日代は日興の付所重須に居住す、日澄は先に逝去す日道是れ次第の法将なり勲功重かるべし学解亦勝る故に是一、日道は目師の甥南条時光の養子、性相近し最付属たるに堪えたり、況や日道は目師の直弟、日郷は伊賀阿闍梨日世の弟子にして目師の孫弟子なり、是の故に目師常の持言に此の栗はいがの中よりほり出すと庸常御出言ありき日代遺状の内付処と云へる例を以て之を知れ是二、日道は時光の後室妙法尼の養子なり上野皆南条の領内なり、何ぞ有縁の日道を閣き無縁の日郷に付属せらるべき是三、亦次に付属の状之無しと云ふ事亦以て謂れ無し、右譲状新田の坊地を日道に譲り与ふるは下の坊の事なり、上新田講所たるべしとは大石寺講所たるべしとなり下之坊は時光建立にして高開両師経行の精舎なり、故に本寺とも亦は斎等とも云ふべけれども此の指南を以て興門の末寺頭とする者なり、何ぞ付嘱状無しと云ふや、況や又御上洛の刻には法を日道に付属す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝へず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付属す、爰に知りぬ大石寺を日道に付属することを、後来の衆徒疑滞を残す莫れ云云。」(富要集 日精 記「富士門家中見聞 中」5巻 宗史部 216頁)

 

現代語訳:小泉久遠寺の日義が云います。日道に六項目の謗法が有ります。一つに未処分の寺跡を奪い取ったのです。日目が天奏の為に上洛しようとして途中の濃州に於いて御入滅されました。その為に、大石寺は日目より日道に付属していなくて日道に付属状はありません。だから、(日道は)大石寺を横領し、これは未処分の寺跡を奪い取ったと云う事です。二つめは、玉野太夫阿闍梨日尊が日興よりの御勘気を受けて十二年です。その間、日道は日尊より供養を受けています。三つには故人の聖教・宗義を用いて宗風をなびかせている事です。

愚人(私)から謂わせてもらうと、此の難は大変有り得ない事です。日目の遺跡を日道に付属する事は道理であり一の証拠に当たりません。其の理由は新六人の初めの日代は日興の付所である重須に居住しています。日澄は先に逝去しましたが、日道は彼を次第の法将であるとし、勲功は重い筈であり、宗学解釈も更に勝っているので、故に是れが第一の理由です。日道は目師の甥で南条時光の養子であり、性格も人相も(目師に)近く最も付属に堪える資格があります。ましてや日道は目師の直弟であり、日郷は伊賀阿闍梨日世の弟子にして目師の孫弟子です。その為に目師の常の持言に「此の栗はいがの中より取り出す」と通常から御発言があり、日代遺状の内付処と云える例を以って之を知りなさい、是れが二の理由です。日道は時光の後室妙法尼の養子であり、上野は皆、南条の領内です。どうして有縁である日道を閣き無縁の日郷に付属されるでしょうか、是れが三。更に次に付属証明の状が無いと云う事も更に謂れ無い事です。右譲状新田の坊地を日道に譲り与えるのは下の坊の事です。上新田講所であるべしとは大石寺講所であるべしとなり、下之坊は時光が建立した高開両師の経行の精舎なのです。故に本寺とも斎等とも云うのですが、此の指南があって興門の末寺頭とするのです。どうして付嘱状が無いと云うのでしょうか。ましてや又御上洛の時には、法を日道に付属し、いわゆる形名種脱を相承し、判摂名字の相承等です。総じてこれを謂わば、内用外用金口の智識であり、別して之を論じれば、十二箇条の法門があり、甚深の血脈であり、その器で無ければ伝えられません。この様に当家の大事の法門を既に日道に付属しており、この文章で」知らせているのです。大石寺を日道に付属した事を。後来の衆徒よ、疑滞を残さないでください。

 

上記文書の堀日享上人見解:

「新田坊地は奥州三迫にして下の坊にあらず 上新田講所とは講師の誤読にして道師を其主とするもの 但し大石寺本山のにはあらさるなり 内用とは内証の誤りか」(富要集 5巻 宗史部 216頁 天註)

 

 

「日道日郷の諍論に就いて数通の書物を見るに是非得失自ら分明なり、然るに保田小泉の人々日目上人の御譲状之れ有り、又贔負の沙汰を以って押し掠めて負処に随せしむ云云、正慶(日享師は「建武なり」としている)二癸酉より応永十二乙酉に至る合て七十二年なり、其の間度々の対決に終に譲状を出さず其の後に遺状出来するか、況や彼寺の列祖予に、示して云く遺状全く之れ無し已上第一の誑惑なり、又鎌倉の前代は北条・後代は足利なり、先代の地頭は南条・後代は奥津なり両家ともに贔負せるか、法陽の状の如んば後代の時は日伝贔負甚た強し、然らざれば争か新御堂等を建立せられんや、是くの如き強縁有りと雖も道理歴然なれば代状を下さる御堂を破却し寺中を追放し畢ぬ、是れ譲状なき贔負なき証拠なり、然るを偽って譲状ありと云う是一、又非理を以て門家の乱逆をなす名聞名利の仁に非ずや是二、又目師御守の内御本尊十八鋪並に御自筆御書とも其外目師の聞書切紙等付属無きを盗み取る所の罪過極めて重し是三、日尊日郷共に御伴なり、然れば日尊を証人とせずして非分邪義をかまへ誹法毀人の謗罪此れ重罪に非ずや是四、其の上軽賤憎嫉すること無量なり是五、剰へ日興身延を出で富士久遠寺に移る等の邪説をなす是六、法門又非分甚多し是七、彼の門徒には此七逆罪あり此の故に一門徒に先立ちて早く滅亡すること日濃が所作とは申しながら日比の謗法の招く所なり、縦ひ目師御付属一定也とも出家の身に於 いて公事を企ること穏便ならざる事なり、其の故は出家として仏法の勝負尚望まざる所、然るを止むを得ずして法の邪正を論するなり、況や世事に於てをや(以下略)」(富要集 日精 記「富士門家中見聞 下」5巻 宗史部 254頁)

 

現代語訳:日道と日郷の論争について、数通の書物を見るとその是非・得失は自ずと明らかです。ところで、保田小泉の門徒衆に日目上人からの御譲状が有ると云います。又贔屓された処分を用いて押し掠め負い目に随わせているのです。それは、正慶(日享師は「建武なり」としている)二年癸酉より応永十二年乙酉に至るまで合せて七十二年になります。その間に度々対決し最後まで譲状を出さないのに、その後に遺言状を提出するでしょうか、ましてや彼の寺の歴代貫主が私に、示して云うのです。遺言状が全く存在しません、だから、これが第一の誑惑なのです。又、鎌倉の前代は北条・後代は足利です。先代の地頭は南条・後代は奥津ですが、両家ともに贔屓しているのでしょうか、法陽の状の様であるならば、後代の時は日伝の贔屓が大変強く、そうでなければ、どの様に新御堂等を建立できるでしょうか。この様に、強縁が有ったとしても道理が整然としているので、代状を下さる御堂を破却し寺中を追放したのです。これこそが、譲状が無くて贔屓も無い証拠なのです。ところが、偽って譲状が有ると言っています、是れが第一の理由です。又、理屈も無しで富士門家を乱すのは名聞名利の人だからでしょう是れ二、又、目師が御守りしている御本尊十八鋪並びに御自筆御書、その他に目師の聞書切紙等を付属も無いのに盗み取るという罪過は極めて重いです是れ三、日尊と日郷は共に〈目師の〉御伴です、そうであれば、日尊を証人としないで、訳の分からない邪義を構えての誹法毀人の謗罪は此れ重罪でしょう是れ四、その上、軽賤憎嫉すること測れないほどです是れ五、そればかりか日興が身延を出で富士久遠寺に移った等の邪説をとなえる是れ六、又法門の理解しがたい事が甚しく多いのです是れ七、彼の門徒には此の七逆罪が有るので此の為に(日濃が)一門徒に先立って早く滅亡すること事は、日濃が所作とは申しながら日頃の謗法が招いたのです。もし、目師の御付属が必ずあったとしても、出家の身で公事を計画する事は穏便ではできない事です。その理由は出家として仏法で勝負する事を望まないのですが、ところが止むを得ず法の邪正を論じてしまうのです。ましてや世間の事においても同様でしょう。

 

上記文書の堀日享上人見解:

「地頭南条時綱日郷を助く日伝は其子なり 奥津は代官なり日伝は其主今川家に取人故に代官の事務反動する事多し 代状とは如何なるものなりや 日郷等は尊師に依らず 北山妙師等に依りたるが如し 是強に地理の為にあらざるなり 日義等の悪説なるべし 此も後年の説なり 本師少しく誤解せるが如し」(富要集 5巻 宗史部 254頁 天註)

 

 

◎大石寺59世堀日享上人の編集の古文書なので、大石寺側擁護の文書になっている様に見え、小泉久遠寺側が指摘した六つの項目の内、三つしか書かれていないのは何故だろうと疑問を持ちます。この「道・郷」の関係は大変根が深く上野・南条一族を分断し、七十数年で納まらず、次の「石泉の離反」の問題に繋がっていくのです。

 

 

 

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