師匠と我らとの関係 15(諸法実相抄)

 

 

諸法実相抄における弟子との関係 

 

 

一般に「諸法」とは、宇宙に存在する一切の法、森羅万象であり、「実相」は、あらゆる現象の真実の姿・相を言います。

本抄は、文永10年、大聖人52歳、佐渡流罪中に、天台宗の学僧であった最蓮房が法華経方便品の「諸法実相」について質問され、それに対して大聖人が答えられ、併せて、信心実践の上での大切な信心指導が多く述べられていますので、ご紹介します。

 

 

「問うて云わく、法華経の第一の方便品に云わく『諸法実相乃至本末究竟等』云々。この経文の意いかん。答えて云わく、下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、ことごとく一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりという経文なり。 依報あるならば、必ず正報住すべし。釈に云わく『依報・正報、常に妙経を宣ぶ』等云々。また云わく『実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土』云々。また云わく『阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず』云々。これらの釈義分明なり。誰か疑網を生ぜんや。されば、法界のすがた、妙法蓮華経の五字にかわることなし。」(諸法実相抄 新1788頁・全1358頁)

現代語訳:問うて言います。法華経第一の巻方便品第二に「諸法実相とは、所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等」と説かれています。この経文の意味はどの様なものでしょうか。

答えて言います。下は地獄界から上は仏界までの十界の依報と正報の当体が、全て一法も残さず妙法蓮華経の姿であるという経文です。依報があるならば、必ず正報が住しているのです。妙楽大師の法華文句記の巻十下には「依報も正報も常に妙法蓮華経を顕している」等と述べています。また金剛錍には「実相は必ず諸法としてあらわれ、諸法は必ず十如をそなえ、十如は必ず十界という区別相があり、十界には必ず身と土が存在する」と述べています。また、同じく金剛錍の中で「阿鼻地獄の依報と正報は尊極の仏の自身の中に具わり、毘盧舎那仏の一身とその所在も凡夫の一念の外にあるものではない」としています。これらの妙楽大師の解釈義は明解です。誰が疑いを生ずるでしょうか。そうであれば、法界の姿は、妙法蓮華経の五字にほかならないのです。

 ※本抄には、更に「実相というは、妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経ということなり。(中略)仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりということを、諸法実相とは申すなり。天台云わく『実相の深理、本有の妙法蓮華経』云々。」(新1789頁・全1359頁)【現代語訳:実相というは、妙法蓮華経の異名です。諸法は妙法蓮華経ということです。(中略)仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿であり、万法の当体の姿が妙法蓮華経の当体であるということを「諸法実相」とはいうのです。この事について天台大師は「実相の深理は本有常住の妙法蓮華経である」と述べています。】とあり、明確に、諸法と実相は不可分の存在であり、妙法蓮華経を意味する、と述べられていますね。

 

 

「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり。地涌の菩薩の数にもや入りなまし。もし日蓮、地涌の菩薩の数に入らば、あに、日蓮が弟子檀那、地涌の流類にあらずや。経に云わく『能くひそかに一人のためにも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、この人は則ち如来の使いにして、如来に遣わされて、如来の事を行ず』。あに別人のことを説き給うならんや。」(諸法実相抄 新1790頁・全1359頁)

現代語訳:地涌の菩薩の先駆けは日蓮一人なのです。地涌の菩薩の数に入っていないかもしれません。もし、日蓮が地涌の菩薩の数に入っているならば、日蓮の弟子檀那は地涌の流類ということになるでしょう。法華経法師品の「よく密かに一人のためにでも、法華経そしてその一句だけでも説くならば、まさにこの人は如来の使いであり、如来から遣わされて如来の振舞いを行ずるものと知るべきである」との文は、誰か他の人の事を説かれたのではないのです。

※私達、日蓮門下の立場からすれば、私達が地涌の菩薩であり、だからこそ、如来の振舞いを示さなければならないのです。

 

 

「いかにも、今度、信心をいたして、法華経の行者にてとおり、日蓮が一門となりとおし給うべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば、釈尊久遠の弟子たること、あに疑わんや。経に云わく『我は久遠より来、これらの衆を教化せり』とは、これなり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は、男女はきらうべからず、皆地涌の菩薩の出現にあらずんば唱えがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱えしが、二人・三人・百人と次第に唱えつたうるなり。未来もまたしかるべし。これ、あに地涌の義にあらずや。あまつさえ、広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱えんことは、大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし。(諸法実相抄 新1791頁・全1360頁)

現代語訳:信心をしたからにはどの様なことがあっても、このたび、法華経の行者として生き抜き、日蓮の一門となり通していきなさい。日蓮と同意であるならば地涌の菩薩なのでしょう。地涌の菩薩であると定まっているならば、釈尊の久遠の弟子である事をどうして疑うことができるでしょうか。法華経従地涌出品に「これらの地涌の菩薩を、私が久遠の昔から教化してきたのである」と説かれているのはこの事です。末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は男女の分け隔てをしてはなりません。皆、地涌の菩薩が出現した人々でなければ唱えることのできない題目なのです。はじめは日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、二人・三人・百人と次第に唱え伝えてきたのです。未来もまたそうでしょう。これが地涌の義ではないでしょうか。そればかりか広宣流布の時は日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とする様なものです。ともかくも法華経に名をたて身を任せていきなさい。

※私達は、世界唯一の生命尊厳、人間尊敬の仏法哲学を学んでいるのです。積極的に人生を謳歌しようではありませんか。

 

 

「この文には日蓮が大事の法門どもかきて候ぞ、よくよく見ほどかせ給え、意得させ給うべし。一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給え。あいかまえて、あいかまえて、信心つよく候いて、三仏の守護をこうむらせ給うべし。行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず。我もいたし、人をも教化候え。行学は信心よりおこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし。」(諸法実相抄 新1792-3頁・全1361頁)

現代語訳:この手紙には日蓮が大事な法門を書いておきました。よくよく読んで理解し、肝に銘じていきなさい。一閻浮提第一の御本尊を信じていきなさい。十分に心得、信心を強くして釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の三仏の守護を受けていきなさい。行学の二道を励んでいきなさい。行学が絶えてしまえば仏法ではないのです。私自身も行い、他人にも教化していきなさい。行学は信心より起きてくるのです。力があるならば一文一句であっても人に語っていきなさい。

※有名な「行学二道の推奨と信心が絶対不可欠」の御文です。日蓮仏法を学べば学ぶほど、自身の器が小さいと気付かされますね。

 

 

「日蓮が相承の法門等、前々かき進らせ候いき。ことにこの文には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ。不思議なる契約なるか。六万恒沙の上首・上行等の四菩薩の変化か。さだめてゆえあらん。総じて日蓮が身に当たっての法門わたしまいらせ候ぞ。日蓮、もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん。南無妙法蓮華経と唱えて、日本国の男女をみちびかんとおもえばなり。経に云わく『一に上行と名づく乃至唱導の師なり』とは説かれ候わぬか。まことに宿縁のおうところ、予が弟子となり給う。この文あいかまえて秘し給え。日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ。」(諸法実相抄 新1793頁・全1361-2頁)

現代語訳:あなたには日蓮の相承の法門を、前々から書き送っています。特に、この手紙には大事な法門を記しております。日蓮とあなたとは不思議な契約があるのでしょうか。六万恒河沙の上首の上行菩薩等の四菩薩の変身でしょうか。決まっていて理由のあることでしょう。全体として日蓮が身にあたる法門を差し上げています。日蓮は、もしかすると六万恒河沙の地涌の菩薩の眷属であるかもしれません。南無妙法蓮華経と唱えて日本国の男女を導かんと思っているからです。法華経従地涌出品には「一番に上行と名づけた上首の地涌菩薩は、唱導の師匠である」と説かれているではありませんか。あなたにはまことに深い宿縁によって日蓮の弟子となられたのす。この手紙を心して秘していきなさい。日蓮が己証の法門等を書き記したのです。

※此処でも「日蓮仏法の重要法門を記している」と述べられており、私達日蓮門下だからこそ、この重要法門をも学習する事ができるのですね。

 

 

◎不思議な宿縁によって大聖人の弟子となり、地涌の菩薩の一員にも連なる最蓮房に対して、大聖人は、法華経の経文から事例を引き、「諸法実相」の真の仏教上の意義、地涌の菩薩の使命、御本尊中心の信仰の在り方について、御教示されています。

私達にも通じる重要な御指導であり、素直に実践していきたいですね。

 

 

 

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