師匠と我らとの関係 6(法華取要抄と四信五品抄)

 

 

今回は、共に富木常忍に与えられ、十大部御書とされた「法華取要抄」(文永11<1274>年5月御作)と「四信五品抄(建治3<1277>年4月御作)」からの紹介です。

 

 

法華取要抄における弟子との関係

 

 

「彼々の宗々の元祖等、杜順・智儼・法蔵・澄観、玄弉・慈恩、嘉祥・道朗、善無畏・金剛智・不空、道宣・鑑真、曇鸞・道綽・善導、達磨・慧可等なり。これらの三蔵・大師等は皆、聖人なり賢人なり。智は日月に斉しく、徳は四海に弥れり。その上、各々、経・律・論に依り、たがいに証拠有り。したがって、王臣国を傾け、土民これを仰ぐ。末世の偏学たとい是非を加うとも、人信用するに至らず。しかりといえども、宝山に来り登って瓦石を採取し、栴檀に歩み入って伊蘭を懐き収めば、悔恨有らん。故に、万人の謗りを捨てて、みだりに取捨を加う。我が門弟、委細にこれを尋討せよ。」(法華取要抄 新148-9頁・全331頁)

現代語訳:これらの各宗の元祖等は、杜順・智儼・法蔵・澄観(以上、華厳宗)玄奘・慈恩(法相宗)嘉祥・道朗(三論宗)善無畏・金剛智・不空(真言宗)道宣・鑑真(律宗)・曇鸞・道綽・善導(浄土宗)達磨・慧可(禅宗)等です。これらの三蔵・大師等は皆聖人であり賢人です。その智慧は日月に等しく、その徳は四海に行きわたっています。その上、これらの各祖師はそれぞれに経・律・論を拠り所としており、それぞれの教判の証拠があります。従って王臣は国を挙げて各宗に帰依し、人民はこれを仰ぎ尊崇しているのです。故に、末世の偏頗な学僧が、これらの教判に正邪の判定を加えても人は信用しないでしょう。しかしながら、せっかく宝の山に来て登ったのに、瓦や石を集め取ったり、あるいは栴檀の林に歩み入ったのに、毒草の伊蘭を抱え取ってくるのでは、悔いや恨みが残るばかりでしょう。故に、万人から謗られることを顧みずに、あえて邪義と正義とを取捨選択するのです。我が門弟は、詳しく、この事を尋ね検討しなさい。

※万人の幸福確立の為に、私達は、他宗の邪義を勉強し知らなければなりません。

 

「『諸の悪比丘は、多く名利を求め、国王・太子・王子の前において、自ら破仏法の因縁、破国の因縁を説かん。その王別えずしてこの語を信聴せん』等云々。これらの明鏡を齎って当時の日本国を引き向かうるに、天地を浮かぶること、あたかも符契のごとし。眼有らん我が門弟はこれを見よ。当に知るべし、この国に悪比丘等有って、天子・王子・将軍等に向かって讒訴を企て、聖人を失う世なり。」(法華取要抄 新158頁・全337頁)

現代語訳:(仁王経に)「多くの悪比丘が名利を求め、国王や太子や王子の前において自ら仏法を破る因縁や国を破る因縁を説くであろう。その国王は分別できずに、この言葉を聞いて信ずるであろう」等とあります。これらの明鏡を今の日本国を引き充ててみると、その天地の有り様を浮かべることは、まさに割り符を合わせた様なのです。眼識ある我が門弟はこれを見なさい。まさに知るべきです。この国に悪比丘らがいて、天子・王子・将軍らに向かって讒言し訴えを企てる事で、聖人を失う世なのです。

※現代でも、名聞名利に明け暮れて、正法を理解しない人が多いのです。

 

「仏法を滅失すること大なるに似たれども、その科なお浅きか。今、当世の悪王・悪比丘の仏法を滅失するは、小をもって大を打ち、権をもって実を失う。人心を削って身を失わず、寺塔を焼き尽くさずして自然にこれを喪ぼす。その失、前代に超過せるなり。我が門弟これを見て法華経を信用せよ。目を瞋らして鏡に向かえ。天瞋るは人に失有ればなり。二つの日並び出ずるは、一国に二りの国王並ぶ相なり。王と王との闘諍なり。星の日月を犯すは、臣の王を犯す相なり。日と日と競い出ずるは、四天下一同の諍論なり。明星並び出ずるは、太子と太子との諍論なり。かくのごとく国土乱れて後に上行等の聖人出現し、本門の三つの法門これを建立し、一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑いなきものか。」(法華取要抄 新158-9頁・全337-8頁)

現代語訳:仏法を滅ぼすこと自体は重大な事の様に見えますが、その罪科はまだ浅いと言えるでしょう。今、当世の悪王や悪比丘が仏法を滅ぼすのは、小乗を使って大乗を打ち、権経を優先して実経を消失させているからです。人々の正法への信仰心を削るが身を滅ぼさない、寺塔を焼き尽くさないが自然に仏法を滅ぼすのです。それ故、その損失は前代の正像時代よりも重いのです。我が門弟は、これ(前代未聞の天変地夭が起こった)を見て法華経を信じなさい。(試みに)眼を怒らせて鏡に向かって見なさい。(鏡の像が自分に怒り返してくるでしょう。同様に)諸天が怒るのは人に失があるからです。二つの日が並んで出るのは一国に二人の国王が並ぶ前相であり、王と王との争いです。星が日月を犯すのは、臣舌が王を犯す前兆です。日と日が競い出るのは、四天下で争いが起こる前兆です。明星が並んで出るのは太子と太子とが争う前兆です。この様に、国土が乱れた後に、上行菩薩らの聖人が出現して、本門の三つの法門を建立し、全世界一同に妙法蓮華経が広宣流布する事は疑いないでしょう。

※我々が地湧の菩薩の眷属だからこそ、大願は日蓮仏法の広宣流布であり世界平和の実現なのですね。

 

 

四信五品抄における弟子との関係

 

 

「止観の第六に云わく『前教にその位を高くする所以は、方便の説なればなり。円教の位下きは、真実の説なればなり』。弘決に云わく『【前教】より下は、正しく権実を判ず。教いよいよ実なれば位いよいよ下く、教いよいよ権なれば位いよいよ高きが故に」。また記の九に云わく『位を判ずとは、観境いよいよ深く実位いよいよ下きを顕す』云々。他宗はしばらくこれを置く、天台一門の学者等、何ぞ『実位いよいよ下し』の釈を閣いて恵心僧都の筆を用いるや。畏・智・空と覚・証とのことは、追ってこれを習え。大事なり、大事なり、一閻浮提第一の大事なり。心有らん人は聞いて後に我を外め。」(四信五品抄 新266-7頁・全340頁)

現代語訳:『摩訶止観』第六巻には、「法華経より前の教えで、それを行ずる者の修行の段階が高い理由は、真実に導く手だてとしての教説だからである。完全な教えで行ずる者の修行の段階が低いのは、真実の教説だからである」とあります。『止観輔行伝弘決』では、これを注釈して「『前の教えで』以下は、一時的な教えと真実な教えを判別するものである。教えが真実に近づけば近づくほど、それを行ずる者の修行段階は低くなり、教えが一時的なものになればなるほど、修行段階は高くなるからである」としている。また、『法華文句記』第九巻には「修行段階を判定するという箇所では、観察する対象が深くなればなるほど、真実の教えにおける修行段階ではそれだけ低くなることを明らかにしている」とあります。他の宗派はともかくとして、天台宗に属する学者たちは、どうして「真実の教えにおける修行段階はそれだけ低くなる」という解釈を放置して、慧心僧都(日本天台宗の恵心院僧都源信のこと)の書いたものを用いるのでしょうか。善無畏・金剛智・不空・慈覚大師・智証大師のことは後で学びなさい。先に述べたことこそ実に大事です。一閻浮提で第一の重要事なのです。思慮分別のある人ならば(初めから耳を塞ぐのではなく)聞いた後に私の教え(日蓮仏法)を外してみなさい。(現証を確認するのです)

※位(修行段階)が低いとは、「難行をしなくても成仏できる」との先師の言葉です。他宗への経験を勧める大聖人には、絶対の確信があったからです。

 

「問う。汝が弟子、一分の解無くして、ただ一口南無妙法蓮華経と称うるものは、その位いかん。答う。この人は、ただ四味三教の極位ならびに爾前の円人に超過するのみにあらず、はたまた真言等の諸宗の元祖、畏・儼・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり。請う、国中の諸人、我が末弟等を軽んずることなかれ。進んで過去を尋ぬれば、八十万億劫供養せし大菩薩なり。あに熙連一恒の者にあらずや。退いて未来を論ずれば、八十年の布施に超過して五十の功徳を備うべし。天子の襁褓に纏われ、大竜の始めて生ずるがごとし。蔑如することなかれ、蔑如することなかれ。(中略)罰をもって徳を惟うに、我が門人等は『福十号に過ぐ』疑いなきものなり。」(四信五品抄 新270頁・全342頁)

現代語訳:質問します。あなたの弟子が、少しの理解もなく、ただ一回だけ声を出して南無妙法蓮華経と唱えた場合、その人の位(修行段階)はどの様なものでしょうか。答えます。この人は、単に四味・三教の最後の修行段階の者や、爾前の円教の人を超えるだけでなく、さらには真言宗などの様々な宗派の開祖である善無畏・智儼・慈恩大師・吉蔵・道宣・達磨・善導らよりも勝れること百千万億倍なのです。是非とも、日本国中の人々よ、私の弟子達を軽んじないでください。時代をさかのぼって過去世を調べれば、八十万億劫の間、仏達に供養した偉大な菩薩です。どうして、熈連河の砂の数ほどの仏のもとで覚りを求める心を起こした者やガンジス河の砂の数ほどの仏のもとで覚りを起こした者でないことがあるでしょうか。未来世を論ずれば、八十年にわたって布施を行った者を超え五十番目に法華経を伝え聞いた者と同じ功徳を備えるに違いないのです。皇帝に生まれた時は産着に包まれており、巨大な竜も生まれたては小さいのです。決してないがしろにしてはなりません。(中略)(誹謗した者達が受けた)罰によって、(法華経を信じる者の)功徳を推しはかるならば、私の弟子達は「功徳は十の称号を持つ仏を超える」という経文通りになるのは疑いない事です。

※一回だけの唱題でも日蓮門下は、他宗の開祖よりも幾億倍も勝れ、功徳は仏を越えると仰せなのです。

 

 

◎そもそも、大聖人の教義・法説は、万人の幸福の為の法であり、弟子を育成する目的で、難信難解をできるだけ解り易く解説されたれた御文が多いですね。従って、大聖人の御消息文を含めて御書の全文が、妙法の弘教拡大を未来の弟子に託す為に書かれたとも考えられますね。

 

 

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