師匠と我らとの関係 5(立正安国論と報恩抄)

 

 

今回は、十大部御書の中の平和誓願の書「立正安国論(文永元<1260>年7月御作」と師恩の書「報恩抄(建治2<1276>年7月御作)」からの紹介です。

 

 

立正安国論における弟子との関係

 

 

「主人曰わく、予、少量たりといえども、忝くも大乗を学す。蒼蠅、驥尾に附して万里を渡り、碧蘿、松頭に懸かって千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生まれて、諸経の王に事う。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起こさざらんや。その上、涅槃経に云わく『もし善比丘あって、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駆遣し呵責し挙処せば、これ我が弟子、真の声聞なり』。余、善比丘の身ならずといえども、『仏法の中の怨』の責めを遁れんがために、ただ大綱を撮ってほぼ一端を示すのみ」(立正安国論 新36頁・全26頁)

現代語訳:主人が言います。「自分は器も小さく、取るに足りない人間ですが、かたじけなくも大乗仏教を学んでいます。青蝿が駿馬の尾について万里を渡り、葛は大きな松に寄って千尋も延びるという譬えもあります。たとえ器量は小さいとはいえ、仏弟子と生まれて諸経の王たる法華経を信ずる以上、どうして仏法の衰微するのをみて、哀惜の心情を起こさないでいられるでしょうか。

その上、涅槃経には『もし善比丘が仏法を壊るものを見ても、これをそのまま見過ごして折伏もせず、追放もせず、その罪を責めもしないでいるならば、その人は、たとえ善比丘であっても、仏法の中の怨敵である。もし、よく追放し、強折し、その罪を責めるならば、これこそ我が弟子であり、真の声聞である』と説かれています。自分は善比丘の身ではないが、『仏法の中の怨』と責められる事をのがれる為に、ここではただ大筋だけを取り上げて、ほぼその一端を示すだけです」と。

※此処での主人とは、日蓮大聖人のことであり、師匠なのです。師匠の覚悟を、弟子が継承していくのです。

 

 

「人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる。譬えば、なお、水中の月の波に動き、陣前の軍の剣に靡くがごとし。汝、当座に信ずといえども、後定めて永く忘れん。もし、まず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし悤いで対治を加えよ。」(立正安国論 新43頁・全31頁)

現代語訳:人の心は時に従って移り、物の性分はその環境によって改まるものです。たとえば、水に映った月は波の動きに従って動き、戦いに臨んだ軍兵は敵の攻撃に従ってなびくようなものです。あなたもこの座では正法を信ずると決心しているけれども、後になって必ずそれを忘れてしまうでしょう。もしまず、国土を安んじて現当二世にわたる自分の幸せを祈ろうと思うならば、すみやかに情慮をめぐらし、いそいで邪宗邪義に対治を加え、徹底的に破折していきなさい。

※平和を願う心は、仏法修行者でも一般民衆でも一緒なのです。自身の人間革命に及ばない自身だけの安易な安穏では、人間関係や社会環境の改善に結びつかない事も一緒なのです。

 

 

報恩抄における弟子との関係

 

 

「我ら凡夫は、いずれの師々なりとも信ずるならば不足あるべからず、仰いでこそ信ずべけれども、日蓮が愚案はれがたし。世間をみるに、各々我も我もといえども、国主はただ一人なり。二人となれば国土おだやかならず。家に二りの主あれば、その家必ずやぶる。一切経もまたかくのごとくやあるらん。いずれの経にてもおわせ、一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ」(報恩抄 新213-4頁・全294頁)

現代語訳:我等の様な凡夫には、いずれの師であっても、信ずるのであれば不足(不審)が有ってはいけないのです。(従って、人々は、最初に信じた)教えを仰いで、当然である様に思うのですが、そんな事では日蓮自身の疑いは晴れないのです。(何故ならば)世間を見ると、各宗派がおのおの「我が宗こそは」といって力を誇示しようとも、国主というものは、一国に一人であるべきであって、二人になったら、その国土には争乱が起きます。一家に二人の主人がいるならば、必ずその家は滅びてしまいます。一切経もまた、これと同様である筈です。(諸宗所依の多くの経典中)いずれかの一経のみに、一切経の中の真の大王の教えがあるのです。

※信頼に足りる師匠でなければ、我々は附いていけないでしょう。宗教も同様で、普遍妥当性や道理に合うなど科学的根拠が無ければ、信に耐えることはできないのです。

 

 

「彼の経々は妙法蓮華経の用を借らずば、皆いたずらのものなるべし。当時眼前のことわりなり。日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば、南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく、塩のひるがごとく、秋冬の草のかるるがごとく、氷の日天にとくるがごとくなりゆくをみよ。」報恩抄 新257頁・全326頁)

現代語訳:彼(他宗派)の経々は、妙法蓮華経の働きを借りなければ、全て役に立たず、空しい教えになってしまいます。これらの事は、この時代の当然の道理なのです。日蓮が南無妙法蓮華経と唱え弘めることによって、南無阿弥陀仏の働きが、あたかも太陽が出ると月が隠れる様に、潮が引いていく様に、秋冬の草が枯れていく様に、氷が太陽の光りで溶けていく様に、(衰えゆく)成り行きを、(はっきりと)見届けなさい。

※科学が発展しゆく時代の趨勢からも、生命尊厳、人間性尊重の哲学である「日蓮仏法」言い換えると「創価思想」が浸透し輝きわたる日を、一日でも早く実現させる為に、私達が率先して行動して行きましょう。

 

 

「花は根にかえり、真味は土にとどまる。この功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。」(報恩抄 新262頁・全329頁)

現代語訳:花は咲き終わると根だけが残り、菓は熟して落ちても土にとどまります。この(妙法の)功徳は、故道善房の聖霊の御身に集まるでしょう。

※弟子の手柄を師匠に手向けるのが師匠への恩になるのでしょうが、道善房の妙法信仰への頼りなさに対しても、この御文から、大聖人の師(故道善房)を思う真心、御報恩の深さが感じられます。我々学会員も大いに見習うべきですね。

 

 

◎創価学会には、地球民族主義、仏法民主主義、第三文明など、世界平和と人類の幸福につながる創価思想の概念があります。現実的には、人権擁護、核兵器廃絶、環境破壊防止、社会福祉等(つまりSDGs)の活動が中心ですが、青年やこれからの人だけではなく、全創価の人の参入に期待したいですね。

 

 

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