日蓮仏法の私なりの解釈 9 (仏法と病の関係 5)

 

 

仏法における良医と良薬

 

 

前回でも仏法の良薬が定義されていましたが、今回大聖人は、更に仏法における良医・良薬が何かを詳しく説明されています。

 

 

「寿量品に云わく『あるいは本心を失えるもの、あるいは失わざる者あり乃至心を失わざる者は、この良薬の色・香ともに好きを見て、即便ちこれを服するに、病はことごとく除こり癒えぬ』等云々。久遠下種・大通結縁、乃至前四味・迹門等の一切の菩薩・二乗・人天等の本門において得道するものこれなり。経に云わく『余の心を失える者は、その父の来れるを見て、また歓喜し問訊して、病を治せんことを求索むといえども、しかもその薬を与うれども、あえて服せず。所以はいかん。毒気は深く入って、本心を失えるが故に、この好き色・香ある薬において、しかも美からずと謂えばなり乃至【我は今当に方便を設けて、この薬を服せしむべし】乃至【この好き良薬を、今留めてここに在く。汝は取って服すべし。差えじと憂うることなかれ】。この教えを作し已わって、また他国に至り、使いを遣わして還って告ぐ』等云々」(観心本尊抄 新141頁・全250-1頁)

現代語訳:法華経寿量品に「(良医の子供達が、父の留守中に邪宗教の毒を飲み)本心を失った者と、本心を失っていない者とがいた。それから、本心を失っていない者は(帰ってきた父の良医の与えた)色香ともに好みの良薬を見て、直ちにこの良薬を服用し、病はことごとく消え回復した」とあります。(この経文の文上の意は、)久遠に下種され、大通仏の十六王子に結縁し、前四味(五味の中、最後の醍醐味を除く四味で、乳味は華厳・酪味は阿含・生蘇味は方等・熟蘇味は般若を示す)から法華経の迹門に至るまでの一切の菩薩や二乗や人天等が法華経本門で得道する経緯を譬えているのです。また寿量品に「本心を失っている者は、自分達の父が帰ってきたのを見て、大喜びし病の治療法を尋ねながらも、でも父が薬を与えてもあえて服用しない。どうしてなのか。毒気が深く入って本心を失った為に、好きな色香である薬を、うまくないと思うだけなのです。そこで「(良医は)方便をもうけて、この薬を服用させなければならない」そして「この好きな良薬を今留めてここに置くから、子供達はこれを服用しなさい。病気が治らないと心配することはない」。子供達にこの様に教えて他国へ行ってしまい、使いを遣わして子供達の父は死んだと伝えた、とあります。

※法華経寿量品では、その後父が死んだと聞いた子供達は大いに悲しみ、父の言葉を信じることにして薬を服用し、子供達全員の病気が完治した、とあります。父の良医は仏、子供達は衆生であり、法華七譬の一つ「良医病子」の譬ですね。

 

 

「仏性の種ある者は仏になるべしと爾前にも説けども、いまだ焦種の者作仏すべしとは説かず。かかる重病をたやすくいやすは、独り法華の良薬なり。ただすべからく汝仏にならんと思わば、慢のはたほこをたおし、忿りの杖をすてて、ひとえに一乗に帰すべし。名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。ああ、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし」(持妙法華問答抄 新513頁・全463頁)

現代語訳:仏性の種子のある者は仏になる、と爾前経にも説かれているけれども、いまだ焦種(焼いた種)の者(二乗)が仏になるとは説かれていません。この様な重病をたやすく治すのは、独り法華の良薬だけなのです。ただあなたが仏になろうと思うならば、慢心のはたほこを倒し、瞋りの杖を捨てて、ひとえに一仏乗の法華経に帰依すべきです。名聞名利は今生だけの飾りであり、我慢や偏執は後生の足かせなのです。まことに恥ずべきであり、恐るべきことなのです。

※法華経(つまり御本尊)を良薬に譬え、仏に成る為には、我慢を含む七慢や瞋恚(いかり・うらみ)、名聞名利の心を捨てて、良薬を服するしかない、と仰せなのです。

 

 

「医師が病者に薬を与うるに、病者薬の根源をしらずといえども、服すれば任運と病愈ゆ。もし薬の源をしらずと云って医師の与うる薬を服せずば、その病愈ゆべしや。薬を知るも知らざるも、服すれば病の愈ゆること、もってこれ同じ。既に仏を良医と号し、法を良薬に譬え、衆生を病人に譬う。されば、如来一代の教法を擣(つき)き簁(ふる)い和合して、妙法一粒の良薬に丸ぜり。あに、知るも知らざるも、服せん者、煩悩の病愈(い)えざるべしや。病者は、薬をもしらず、病をも弁えずといえども、服すれば必ず愈ゆ。行者もまたしかなり。法理をもしらず、煩悩をもしらずといえども、ただ信ずれば、見思・塵沙・無明の三惑の病を同時に断じて、実報・寂光の台にのぼり、本有三身の膚を磨かんこと疑いあるべからず。されば、伝教大師云わく『能化・所化ともに歴劫無し。妙法経力もて即身成仏す』と。法華経の法理を教えん師匠も、また習わん弟子も、久しからずして法華経の力をもって、ともに仏になるべしという文なり」(聖愚問答抄 新580頁・全499頁)

現代語訳:医師が病人に薬を与えれば、病人は薬の根源を知らなくても、飲めば自然と病気が治ります。もし薬の源を知らないからといって医師の与える薬を飲まないでも、その病気は治るでしょうか。薬の内容を知っても知らなくても、飲めば病の治ることは同じなのです。すでに法華経では仏を良医と名づけ、法を良薬に譬え、衆生を病人に譬えています。それ故、釈尊一代の教法をつきふるい、まぜ合わせて、妙法という一粒の良薬をつくったのです。この良薬を知っても知らなくても、飲む者は煩悩の病の治らない者はいないのです。病人は薬をも知らず、病をも弁えなくても、飲めば必ず治るのです。法華経を行ずる者もまた同じです。法理をも知らず、煩悩の病をも知らないとしても、ただ(法華経の法理を)信ずれば、見思、塵沙、無明の三惑の病を同時に断じて、実報・寂光の浄土に到り、本有の三身如来の生命を磨きあらわすことは疑いないのです。だから伝教大師は、法華秀句で「能化も所化もともに長劫にわたる修行を経ることなく、妙法蓮華経の力で即身成仏する」と説かれています。法華経の法理を教える師匠も、また学ぶ弟子も直ちに法華経の力で共に仏になります、との文なのです。

※法華経では、仏は良医、法を良薬、衆生を病人に譬えています。そして、仏法の三惑とは、見思惑(見惑と思惑があり、見惑は、物事の道理に迷う惑、思惑は倶生惑ともいい、生まれると倶に付いてくる煩悩のこと)、塵沙惑(二乗や菩薩の修行の過程で生じる小果に執着し空理に沈んだり化導の障りとなること、数が無量なので塵沙という)、無明惑(成仏を妨げる一切の生死煩悩の根本の迷い)を云い、妙法蓮華経を信じ行じれば、妙法蓮華経の力に依って、この三惑を断じ、師弟共に仏になると仰せなのです。

 

 

「題目の五字に一法として具足せずということなし。もし服する者は、『速除苦悩(速やかに苦悩を除く)』なり。されば、妙法の大良薬を服する者は、貪・瞋・癡の三毒の煩悩の病患を除くなり。法華の行者、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、謗法の供養を受けざるは、貪欲の病を除くなり。法華の行者は、罵詈せらるれども忍辱を行ずるは、瞋恚の病を除くなり。法華経の行者は、『是人於仏道 決定無有疑(この人は仏道において、決定して疑いあることなけん)』と成仏を知るは、愚癡の煩悩を治するなり。されば、大良薬は末法の成仏の甘露なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、大良薬の本主なり」(御義口伝下 新1052-3頁・全755頁)

現代語訳:題目の五字(即ち御本尊)に一法として具足しないものはないのです。(万法が全てを具足しているのです)もし、これを服する者は、経文に「速かに苦悩を除きます」とある様に、直ちに苦悩を消滅することができるのです。そうであれば、この妙法の大良薬を服する(即ち御本尊を信ずる)者は、貪瞋癡の三毒の煩悩の病を除くことができるのです。法華経の行者(即ち御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱える者)は、謗法の供養を受けることはないので、これは貪瞋癡の三毒のうち貪欲の病を除くことになるのです。法華経の行者が、いかに世間の人々から、悪口罵詈されても(その人の幸福を願って)忍辱(侮辱・迫害等に堪え我慢すること)を行ずるのは、瞋恚の病を除くことになるのです。また、法華の行者は、法華経神力品に「この人は仏道修行により、成仏することを確信して疑うことはない」とあり、(つまり、法華経(御本尊)を信ずることによって、即身成仏できるのです。)これを覚知することは、愚痴の煩悩を治すことになるのです。そうであれば、この大良薬たる御本尊は、末法の即身成仏できる甘露(妙薬の賛辞)なのです。今、御本尊を信じ題目を唱える日蓮とその門下は、妙法の当体であり、大良薬の本主(本当の主)となるのです。

※貪瞋癡の三毒のうち、①煩悩の病は御本尊を信ずることにより、②貪欲の病は唱題し謗施をうけないことにより、③瞋恚の病は悪口罵詈されても忍辱行を行うことにより、それぞれの病が除かれる、と仰せです。さらに、④仏道修行により自身が、人間革命されていることを自覚した時、愚痴の煩悩を治したことになるのですね。

 

 

◎日蓮仏法では、日蓮大聖人だけではなく、その弟子である我々も大良薬の本主である、と仰せくださっています。つまり、我々は妙法という大良薬を自主的に用いる事により、病を克服する事ができるのです。一方、キリスト教やイスラム教の様な一神教では、自身の行動の規範を、「人類には『原罪』があり、生まれながらにその罪を背負う」や「我々は神の意志により生かされている」との神の摂理や依存にあるとするならば、それこそ、日蓮仏法とは真逆の自己否定に繋がる思想なのです。「天地創造の神」が、それぞれに存在し、違いがあるのでしょうか。不思議ですね。

 

 

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