日蓮仏法の私なりの解釈 8 (仏法と病の関係 4)

 

 

病に譬えた仏の教え

 

 

「『病』とは、三毒の煩悩なり。仏菩薩においてもまたこれ有るなり。『不老』は釈尊、『不死』は地涌の類いたり。これは滅後当今の衆生のために説かれたり。しかれば、「病」とは謗法なり。この経を受持し奉る者は、『病即消滅』疑いなきなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者、これなり云々。」(御義口伝下 新1077頁・全774頁)

現代語訳:病とは貧瞋癡三毒の煩悩です。仏や菩薩においても、これを有するのです。(不老不死の)不老は釈尊、不死は地涌の菩薩に約します。(即ち、己心の仏界、己心の菩薩界・地涌の菩薩を涌現し、金剛不壊の境涯を会得することであり)末法の衆生の為に説かれたのです。そうであれば、病とは(端的にいえば)謗法です。この法華経(御本尊)を受持する者は、(経文の)「病はたちまち消滅する」ことは疑いないのです。今、日蓮門下の南無妙法蓮華経と唱える者は、これなのです。

※誰でも貧瞋癡の三毒の煩悩を有していますが、これが病の根源であると喝破されておられるのが大聖人です。年老いて深く道理を考えると納得です。

我々は、南無妙法蓮華経の題目を唱えて生命力を強め、「病即消滅」を確信し、挑戦するのです。

 

 

「人に二病あり。一には身の病。いわゆる、地大百一・水大百一・火大百一・風大百一・已上四百四病。この病は治水・流水・耆婆・偏鵲等の方薬をもってこれを治す。二には心の病。いわゆる三毒・乃至八万四千の病なり。仏にあらざれば二天三仙も治しがたし。いかにいわや、神農・黄帝の力及ぶべしや。また心の病に重々の浅深分れたり。六道の凡夫の三毒・八万四千の心の病をば、小乗の三蔵・倶舎・成実・律宗の仏これを治す。大乗の華厳・般若・大日経等の経云々をそしりて起こる三毒八万の病をば、小乗をもってこれを治すれば、かえりては増長すれども平愈全くなし。大乗をもってこれを治すべし」(中務左衛門尉御返事 新1602頁・全1178-9頁)

現代語訳:人には二種類の病気があります。その一つは、身体の病気で、いわゆる地大に百一・水大に百一・火大に百一・風大に百一、以上を合わせて四百四病です。これらの病気は、古代インドの名医といわれた治水とか流水、耆婆や中国古代の名医といわれた扁鵲等の医薬によって治すことができます。二つには、心の病気で、いわゆる貪・瞋・癡の三毒や八万四千の煩悩の病です。この心の病は、仏の力でなければ、バラモンの神である二天・三仙でも、治すことはできないのです。ましてや儒教の神農・黄帝の力など及ぶものではないことはいうまでもありません。また、心の病に浅深軽重が種々に分かれています。即ち、六道を輪廻している凡夫の貪、瞋、癡の三毒を始めとして、八万四千の煩悩による心の病は、小乗である三蔵経によって教えを立てた俱舎宗、成実宗、律宗等の仏でも治すことができます。しかし、大乗である華厳経、般若経、大日経等の経々をそしって起こるところの三毒八万四千の諸々の病は、小乗をもってこれを治そうとすれば、かえって、病気が悪化することはあっても、決して完治はしないのです。(その場合は)大乗の教えをもって治すのです。

※外見でも判別できる身体の病気は、名医によって治すことができるが、貪・瞋・癡の三毒や煩悩等の心の病気は、小乗教でも治すことができず、大乗の教えつまり、日蓮仏法により治すことができると仰せです。

 

 

「問うて云わく、末法に限って冥益と知る経文これ有りや。答えて云わく、法華経第七の薬王品に云わく「この経は則ちこれ閻浮提の人の病の良薬なり。もし人病有らんに、この経を聞くことを得ば、病は即ち消滅して、不老不死ならん」等云々。妙楽大師云わく「しかるに後の五百は、しばらく一往に従う。末法の初め、冥利無きにあらず。しばらく大教の流行すべき時に拠る。故に五百と云う」等云々。」(教行証御書 新1669頁・全1277頁)

現代語訳:問うて言います。末法に限定して冥益であるという経文があるのでしょうか。答えて言います。法華経巻七の薬王菩薩本事品には「此の経はつまり為れ閻浮提の人の病の良薬です。もし人が病気になった時に、是の経を聞くことができれば、病は即ち消滅して、不老不死になるでしょう」と説かれています。妙楽大師も法華文句記では「然も、後の五百はある時間の流れのままに従います。末法の初め、冥利(冥伏した利益、冥益のこと)が無いことはありません。ある時間、大教が流行する時に依存するので、五百と云うのである」と解釈されているのです。

※法華経自体が世界中の人々の病気を救う良薬だ、と明言されています。

 

 

「一代諸教の肝心たる法華経の題目をば唱えざりけん。その故を能く能く尋ね習い給うべし。譬えば、大医の、一切の病の根源、薬の浅深は弁えたれども、故なく大事の薬をつかうことなく病に随うがごとし。されば、仏の滅後正像二千年の間は、煩悩の病軽かりければ、一代第一の良薬の妙法蓮華経の五字をば勧めざりけるか。今、末法に入りぬ。人ごとに重病有り。阿弥陀・大日・釈迦等の軽薬にては治し難し」(妙蜜上人御消息 新1708頁・全1238頁)

現代語訳:(高祖・先徳等は)釈尊の一代諸教の肝心である法華経の題目だけは唱えなかったのです。その理由をよくよく探求し学ぶべきです。例えば、名医が一切の病の根源や薬の効能の浅深をわきまえていても、やたらと大事な薬を使う事はしないで病気によって使い分ける様なものです。だから釈尊滅後正像二千年の間は、煩悩の病も軽かったので、釈尊一代の中の第一の良薬である法華経二十八品の肝心・妙法蓮華経の五字を、人々に勧めなかったのでしょうか。今は末法に入っています。人はそれぞれ重病にかかっています。その病は阿弥陀如来、大日如来、また釈尊等の軽い薬では治すことは難しいのです。

※病気の種類によって薬を使い分けする様に、仏法の教義も少人数の救済(小乗教)から多数の民衆を救済できる法(大乗教)に、そして権大乗教から実大乗教の法華経へと変遷してきたのです。 

 

 

「我が滅後の一切衆生は皆我が子なり。いずれも平等に不便におもうなり。しかれども、医師の習い、病に随って薬をさずくることなれば、我が滅後五百年が間は、迦葉・阿難等に、小乗経の薬をもって一切衆生にあたえよ。次の五百年が間は、文殊師利菩薩・弥勒菩薩・竜樹菩薩・天親菩薩等、華厳経・大日経・般若経等の薬を一切衆生にさずけよ。我が滅後一千年すぎて像法の時には、薬王菩薩・観世音菩薩等、法華経の題目を除いて余の法門の薬を一切衆生にさずけよ。末法に入りなば、迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆずられしところの小乗経・大乗経ならびに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。いわゆる、病は重し薬はあさし。その時、上行菩薩出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさずくべし」(高橋入道殿御返事 新1954-5頁・全1458頁)

現代語訳:(仏が述べられているのは)私の滅後の一切衆生は全て我が子です。いずれも平等に慈愛し、不愍に思っています。しかしながら、医師は病気にしたがって薬を与えるのが習いであり、我が滅後五百年の間は、迦葉・阿難等に小乗経の薬をもって一切衆生に与えよと命じ、次の五百年の間は、文殊師利菩薩・弥勒菩薩・竜樹菩薩・天親菩薩に、華厳経・大日経・般若経等の薬を一切衆生に授けよと命じ、我が滅後一千年を過ぎて像法の時代には、薬王菩薩・観世音菩薩等が、法華経の題目を除いたその他の法門の薬を一切衆生に授けよと命じたのです。末法の時代に入ったならば、迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等が譲られた小乗経、大乗経、そして法華経は、文字があっても衆生の病の薬とはならないのです。いわゆる病は重く薬は浅いのです。その時には、上行菩薩が出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に授けるでしょう。

※釈尊滅後からの伝道されてきた仏法の教義を各種の薬に譬えていますが、末法時代(現在)では、(最良薬である)妙法蓮華経の五字が一切衆生に授与される、と述べられています。

 

 

◎病気の根本原因が、仏法から見ると貧瞋癡の三毒であることを明らかにしました。その解決方法として、諸天善神の働きの一つである現代医学の日進月歩の著しい発展により、今や各種難病の完全治癒への方向性が見えて来ました。然しながら、重病や難病等に遭遇してもこれに打ち勝つのは、「私には仏性がある」という自身の自己肯定の強さが必要なのです。此処に大聖人の生命哲学の偉大さが存在するのではないでしょうか。

 

 

 

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