日蓮仏法の私なりの解釈 4 (功徳と利益の形態 後)

 

 

利益について

 

 

利益とは、個人や社会が法に順じた結果として、それ相応の利得を受けること。

①  仏法では利益(りやく)と呼び、功徳と同義に用いられる。

②  法に順ずる者に対して益を与えることで、益他と同義であり、反対語は罰である。

③  一般に世間法や国法では利益(りえき)と言い、反対語は損失を用いる。

法華玄義六巻下に

「功徳・利益とは、ただ功徳・利益にして、一にして異なり無し。若し分別せば、自益を功徳と名け、益他を利益と名く」

とあり、自利を功徳、利他を特に利益と呼んでいる。

 

 

「仏は法華経謗法の者を治し給わず、在世には無きゆえに。末法には一乗の強敵充満すべし。不軽菩薩の利益これなり。各各我が弟子等、はげませ給え。はげませ給え」(諫暁八幡抄 新747頁・全589頁)

現代語訳:仏は法華経を誹謗する者を治されることはなかったのです。それは釈尊在世時に謗法の者がいなかったからです。末法には必ず一乗法華経の敵が充満する事でしょう。(故に、逆縁に対して教化する)不軽菩薩の利益はこれなのです。おのおの我が弟子達よ、ますます信心に励んでください。

※不軽菩薩の利益とは、法華経誹謗者でも、利他として、正法を信受させることなのですね。

 

「『経に四導師有りとは、今、四徳を表す。【上行】は我を表し、【無辺行】は常を表し、【浄行】は浄を表し、【安立行】は楽を表す。ある時には、一人にこの四義を具す。二死の表に出ずるを【上行】と名づけ、断・常の際を踰(こ)ゆるを【無辺行】と称し、五住の垢累(くるい)を超ゆるが故に【浄行】と名づけ、道樹にして徳円かなるが故に【安立行】と日うなり』。

今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、皆地涌の流類なり。また云わく、火は物を焼くをもって行とし、水は物を浄むるをもって行とし、風は塵垢を払うをもって行とし、大地は草木を長ずるをもって行とするなり。四菩薩の利益これなり。四菩薩の行は不同なりといえども、ともに妙法蓮華経の修行なり」(御義口伝上 新1046-7頁・全751頁)

現代語訳:「法華経涌出品に四導師の記載があり、このことは、常楽我浄の四徳を表わしている。上行は我を表わし、無辺行は常を表わし、浄行は浄を表わし、安立行は楽を表わしている。ある時は、一人の生命にこの四菩薩の義を具している。分段の生死、変易の生死を出ることを上行と名づけ、断見、常見の生命観を越えて永遠の生命観を会得することを無辺行と名づけ、三界の見惑、欲界の思惑、無色界の思惑、根本無明惑等、の五住の惑いを超えることを浄行と名づけ、そして菩提樹の様に真実正しい道を歩み、円満な人徳を持つことを安立行と名づけるのである」とあります。

今、日蓮大聖人及びその門下達の、南無妙法蓮華経と唱える者は、全て地涌の菩薩の眷属なのです。また、火は物を焼くのがその使命です(上行)。水は物を浄めるのが使命です(浄行)。風は塵や垢などを吹き払うのが使命です(無辺行)。大地は草木を育成するのが使命です(安立行)。四菩薩の利益はこれなのです。四菩薩の行は同じではないが、ともに南無妙法蓮華経の修行なのです。

※四菩薩の修行(使命)が不同でなくても、南無妙法蓮華経と唱える者を守護することが第一の利益なのでしょうね。

 

 

「ただ南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給え。火は焼照をもって行となし、水は垢穢を浄むるをもって行となし、風は塵埃を払うをもって行となし、また人畜・草木のために魂となるをもって行となし、大地は草木を生ずるをもって行となし、天は潤すをもって行となす。妙法蓮華経の五字もまたかくの如し。本化地涌の利益これなり。上行菩薩、末法今の時。この法門を弘めんがために御出現これ有るべき由、経文には見え候えども、いかんが候やらん」(生死一大事血脈抄 新1776頁・全1338頁)

現代語訳:ただ南無妙法蓮華経、釈迦多宝上行菩薩血脈相承と唱えて、修行してください。火は物を焼き、照らすことでその働きとし、水は垢や穢を清めることでその働きとし、風は塵や埃を払うことでその働きとし、また人畜や草木のために魂となることでその働きとし、大地は草木を生ずることでその働きとし、天は万物を潤すことでその働きとします。妙法蓮華経の五字もまた、この地・水・火・風・空の五大の働きをことごとく具えているのです。本化地涌の利益がこれなのです。上行菩薩が末法の今時、この法華経を弘める為に、御出現されることが経文に見えていますが、どうでしょうか。

※本化地涌の菩薩の利益は、前記御書と同様であり、法華弘通を使命として、地涌の菩薩が出現されたのですね。

 

 

「法界のすがた、妙法蓮華経の五字にかわることなし。釈迦・多宝の二仏というも、妙法等の五字より用の利益を施し給う時、事相に二仏と顕れて、宝塔の中にしてうなずき合い給う。かくのごとき等の法門、日蓮を除いては申し出だす人、一人もあるべからず」(諸法実相抄 新1788頁・全1358頁)

現代語訳:法界(一切の事物・事象、森羅万象)の姿は、妙法蓮華経の五字にほかならないのです。釈迦仏・多宝仏の二仏といっても、妙法蓮華経の五字の中から用(「ゆう」と読み、体に具わる働き「力用)のこと)の利益を施す時、事相(生滅変化する現象・事実の姿)に釈迦・多宝の二仏として顕れて、多宝塔の中でうなずきあわれたのです。この様な法門について、日蓮を除いては申し出す人は一人もいないのです。

※用の利益とは、法体(諸法の本体)がその働きとして表す利益のこと。例えば、法を守る常識人の近所つきあいには、多くの助け合いが生じます。近所という体に具わる助け合いという用の利益ですね。

 

 

「法華経と申すは、随自意と申して、仏の御心をとかせ給う。仏の御心はよき心なるゆえに、たといしらざる人も、この経をよみたてまつれば利益はかりなし」(衆生身心御書 新2040頁・全1590頁)

現代語訳:法華経というお経は、随自意(衆生の機根に関わらず、仏自らの立場で説法すること)といって、仏の御心を説かれたものです。仏の御心は素晴らしい心なので、たとえ法華経の理を知らない人でも、この経を読み(実践していけば)利益は計り知れないのです。

※難信難解と言われる法華経ですが、解説書も多く出回り、分かりやすくなってきましたが、やはり難しいですね。しかし、自身の我見で判断することなく、素直に信仰していけば、思いもよらない利益となって、自身の境涯が創り上がられるのです。

 

 

「子を思う故にや、おや、つきの木の弓をもって学文せざりし子におしえたり。しかるあいだ、この子、うたてかりしは父、にくかりしはつきの木の弓。されども、終には修学増進して自身得脱をきわめ、また人を利益する身となり、立ち還って見れば、つきの木をもって我をうちし故なり。此の子、そとばにこの木をつくり、父の供養のためにたててむけりと見えたり」(上野殿御返事 新1891頁・全1557頁)

現代語訳:ある親が子供のことを思って、学問に励まない子を槻の木の弓で打って訓誡しました。この時、その子は父を情けなく思い、槻の木の弓を憎みましたが、やがて修学も進み、自分自身も悟りを得て、人を利益する様な身となったのです。振り返ってみれば、これは親が槻の木の弓で自分を打ってくれたからです。この子は、亡き父の為に槻の木で率搭婆を作り、供養のために建てたというのです。

※現在では、スパルタ教育は絶対ダメですが、厳父の愛も時に必要かなと思います。

「利益する」は、能動的行動・社会貢献に繋がる概念に外ならないのです。

 

 

「我が法華経も本迹和合して利益を無量にあらわす。各各二人、またかくのごとし。二人同心して大御所・守殿・法華堂・八幡等、つくりまいらせ給うならば、これは法華経の御利生とおもわせ給わざるべき。二人一同の儀は、車の二つのわのごとし、鳥の二つの羽のごとし」(兵衛志殿御返事 新1503頁・全1108頁)

現代語訳:私が読む法華経も本門と迹門とが和合して利益を無量に顕わすのです。あなた方二人(宗仲・宗長兄弟)もまたこの様に、兄弟二人が心を合わせて大御所・守殿(北条時宗の館)・法華堂・八幡宮などを造営せられたなら、これは全く法華経(御本尊)の御利生(御利益・大功徳)であると確信しきっていきなさい。あなた方兄弟二人が団結した姿は、車の両輪の如く、また鳥の二つの翼の様なものです。

※「本迹和合して利益」とは、本門と迹門が同じとの意ではなく、本門も迹門も互いにその力を発揮させれば、測り知れないほどの利益を及ぼすとの意であり、池上兄弟の二人の信心と団結力を讃えています。

 

 

◎利益には、祈りが直ちに顕れる『顕益』と知らず知らず冥々のうちに顕われる『冥益』があります。初信の功徳は、『顕益』ですが、三大秘法を受持し、信心修行していくにつれて、他人との比較ではなく、生きていること自体、生活していること自体が楽しいという「絶対的幸福境涯」を感得する時が来るでしょう。これを仏法では『冥益』と呼んでいるのです。

 

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