一、三、六大秘法に対する私の解釈 20

 

 

三大秘法 16

 

 

大自然(宇宙)遍満の三大秘法

 

 

「疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや、答えて曰く止観第五に云く『国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力等』と云云、釈籤第六に云く『相は唯色に在り性は唯心に在り体・力・作・縁は義色心を兼ね因果は唯心・報は唯色に在り』等云云、金錍論に云く『乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す』等云云。」(観心本尊抄 全239頁・新124-5頁)

 

現代語訳:疑って言います、草木や国土の上の十如是の因果の二法はいずれの文に出ているのでしょうか。答えます。摩訶止観の第五に「(非情の)国土・世間にも十如是がある故に悪国土には悪国土の相・性・体・力(・作・因・縁・果・報・本末究竟)等(同じく善国土にもそれぞれの十如是)を具している」と説かれ、釈籤の第六に「相は外面に顕われたもので色法であり、内在する性質の性は心法です。また体は物の本体で色心を兼ね、力は外に応ずる内在性で、作は外部への活動、縁は善悪の事態を生ずる助縁であり、これらの体力作縁は皆色心の二法を兼ね、因と果は唯心、報は唯色法である」と説かれています。また金錍論に「一本の草、一本の木、一つの礫、一つの塵等皆悉く一個の仏性、一つの因果が具わっており縁因・了因の性を具足している。即ち実在する物はことごとく本有常住の三因仏性を具足する(従って非情の草木であっても有情と同じく色心・因果を具足していて成仏する)」と説かれています。

※大聖人は、実在する全ての事物・事象に成仏の要因があると、先師の御文を提示されて述べられています。

 

 

「一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心・法界に徧満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし」(一生成仏抄 全383頁・新316頁)

 

現代語訳:一心法界の法理とは十界の衆生も、森羅三千の依報・正報も、色法・心法も、非情の草木、大空、国土のいずれも除かず、塵も残さずに一念の心に収めて、この一念の心が法界に広く行き渡る事を指して万法というのです。この理を覚知する事を一心法界ともいうのです。

※一念の心が法界(法:一切諸法・森羅万象、界:区別・境界の意、有情・非情に亘る意識の対象となる全ての存在及び現象をいう)に広く行き渡る事を指して万法と云い、一心法界とはこの理屈を覚知する事です。

 

 

「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄 全366頁・新304頁)

 

現代語訳:問うて言います。そうであれば、何故あなたは釈迦を本尊としないで法華経の題目を本尊とするのでしょうか。答えて言います。前に挙げた経釈を見てください。法華経の題目を本尊とするのは、私が勝手に立てた義ではないのです。釈尊と天台大師とが法華経をもって本尊と定められたのです。末代今の日蓮も仏と天台大師と同じ様に、法華経をもって本尊とするのです。その理由は、法華経が釈尊の父母、諸仏の眼目であり、釈迦如来・大日如来をはじめとして、総じて十方の諸仏は法華経より出生されたからです。故に今、能生(あらゆる仏を生み出す根源)の法たる法華経をもって本尊とするのです。

※あらゆる仏を生み出す根源たる妙法蓮華経こそが本尊なのです。

 

 

「問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり」(当体義抄 全510頁・新613頁)

 

現代語訳:問います、妙法蓮華経とは、その実体は、何物なのでしょうか。答えます、十界の依報と正報の全てが、妙法蓮華経の当体なのです。

※十界の依正、即ち我々一切衆生を含めて宇宙の万物が当体蓮華だ、と仰せです。

 

 

「四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う」(三世諸仏総勘文教相廃立 全563頁・新712頁)

 

現代語訳:四土(4種の国土、①凡聖同居土・②方便有余土・③実報無障礙土・④常寂光土のこと)は不二であって法身の一仏の身に納まるのです。十界を身とするのが法身であり、十界を心とするのが報身であり、十界を形とするのが応身です。十界の外に仏はなく、仏の外に十界はないのであって、依正不二であり身土(身:活動の主体である衆生の身体、土:衆生が住んでいる国土)不二なのです。十方法界が一仏の身体であるから寂光土というのです。

※己心の十界(いわゆる十界論の内容)と自然界の十界の現象(地獄=地底の牢獄、餓鬼=欲に支配され貪る鬼、畜生=弱肉強食の動物、修羅界=大地や大海の荒れ狂う姿や戦争等)の関係は不二であり、人の振舞いにより寂光土かどうか決定されるのですね。

 

 

「大衆とは聴衆なり皆在虚空とは我等が死の相なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は生死即涅槃と開覚するを皆在虚空と説くなり生死即涅槃と被摂するなり、大地は色法なり虚空は心法なり色心不二と心得可きなり虚空とは寂光土なり、又云く虚空とは蓮華なり経とは大地なり妙法は天なり虚空とは中なり一切衆生の内・菩薩・蓮華に座するなり、此れを妙法蓮華経と説かれたり」(御義口伝上 全742頁・新1034頁)

 

現代語訳:(「摂諸大衆」の)大衆とは聴衆です。「皆在虚空皆虚空にあり)」とは、我々の生命が、死の相を現じ大宇宙に冥伏しているのです。今、南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人及びその門下は、その信心によって生死即涅槃(涅槃は一切の煩悩や苦しみを永遠に断じ尽くした境地)と開覚するのであり、その姿を皆在虚空と説くのです。(仏の立場から観るならば衆生は)生死即涅槃と摂らえられるのです。大地は色法であり、虚空は心法です。この色と心は不二と心得るべきであり、虚空とは寂光土なのです。また、(妙法蓮華経という立て分けから観るならば)虚空とは蓮華であり、経とは大地であり、妙法とは天であり、虚空とは中であり、一切衆生の内、菩薩が蓮華に座しているのであり、これを妙法蓮華経と説かれているのです。

※妙法蓮華経の原理が、自然界に遍満している事を示しています。

 


「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す」(三世諸仏総勘文教相廃立全574頁・新729頁)

 

現代語訳:春の季節が来て風雨の縁に遭遇すれば、無心の草木も皆ことごとく萠え出でて、華も咲き栄え世間に出るという気色です。秋になって月の光の縁に値えば、草木は皆ことごとく実が熟れて、一切の有情を養育し、その寿命を延べて長く養い、ついに成仏の徳用を顕すのです。

※この御文から、草木の体すなわち草木それ自体が本覚の法身、その時節を違えず花咲き菓の成る智慧は本覚の報身、有情を養育する慈悲は本覚の応身であり、草木がそのままの姿で本覚の三身如来なので不改本位(本来の位を改めないこと)の成仏と云い、即ち宇宙生命の発動変化それ自体が不改本位の成仏の徳用を示すと云うのです。

 

 

◎日蓮大聖人は、我々日蓮門下だけではなく、大自然の森羅万象も南無妙法蓮華経の当体だ、と仰せなのです。

「正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」(瑞相御書 全1140頁・新1550頁)

とある通り、依正は互いに関係しているのですね。

 

次回は「己心の三大秘法」を「私の解釈」として説明します。

 

 

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