一、三、六大秘法に対する私の解釈 11

 

三大秘法 7

 

空仮中の三諦・その他と三大秘法 

 

 

三諦の諦とは、「つまびらか」「あきらか」という意で、諸法の実相を仏の真実の理として説かれています。空諦とは万法一切の性分の事で、有りと云えば無く、無いと云えば有るという内相的な存在をいいます。仮諦とは一切の万法が、仮りの因縁によって和合している外相の面をいいます。中諦とは、空と仮の二面を包含し動かしがたい厳然たる本質をいいます。

今回は、大聖人の御文から、空仮中の三諦とそれに関連すると思われる語句の紹介をします。

 

 

「多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれどもすべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり、百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり」(十如是事 全410頁・新355頁)正嘉2年 37歳御作

 

現代語訳:多くの法門となって八万法蔵といわれているけれども、全てはただ一つの三諦の法におさまり、三諦より外には法門はないのです。その理由は、百界というのは仮諦であり、千如というのは空諦であり、三千というのは中諦です。空諦と仮諦と中諦を三諦というのですから、百界・千如・三千世間までの多くの法門と成るといっても、ただ一つの三諦なのです。

※八万法蔵といわれる多くの法門も唯一つの三諦論から成る、と仰せです。

 

 

「妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり、(新版では新たな文章が入りましたが、此処では省略)正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず(当体義抄 全512頁・新616-7頁)文永10(1273)年 52歳御作

 

現代語訳:妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮の弟子檀那等の父母所生の肉身そのものをいうのです。正直に方便の教えを捨て、ただ法華経(御本尊)のみを信じ、南無妙法蓮華経と唱え行ずる人は、煩悩・業・苦の三道が、法身(仏の清浄な生命それ自体)・般若(仏の智慧)・解脱(仏の振舞い、幸福な姿)の三徳と転じて、三観・三諦がそのまま一心に顕われ、その人の所住の処は、常寂光土となるのです。能居所居(仏・菩薩・二乗等を能居と云う場合、仏・菩薩・二乗等が住する国土を所居と云う)・身土(身とは生命活動の主体である衆生の一身を云い、土とはその一身が存在する場所、つまり国土を云う)・色心(色とは衆生の身体や草木国土等一切の物質を総じて云い、心とは精神活動の全体を云う)・俱体俱用(体とは本体、用とは働きを指し、本門寿量品文底の本仏は実体と実体に添った用を倶に備えている事を俱体俱用と云う)・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮の弟子檀那等の中の正しい信心をする者の事です。これ則ち妙法蓮華経の当体であり、妙法に具わっている自在神力の顕わす功徳なのです。決してこれを疑ってはいけません。

※日蓮の弟子等の中の正しい信心をする者は、煩悩・業・苦の三道を法身・般若・解脱の三徳に転じ、無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏である、と仰せです。

 

 

「衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり之を説き顕すを一代聖教と云い之を開会して只一の総の三諦と成ずる時に成仏す此を開会と云い此を自行と云う」(三世諸仏総勘文教相廃立 全573頁・新727頁)弘安2(1279)年10月 58歳御作

 

現代語訳:衆生として約する時はこれを三諦といい、仏果を成ずる時にはこれを三身と云うのです。これは一つの物に対する異名なのです。これを説き顕したのを一代聖教といい、これを開会(開顕会融または開顕会帰の義で、真実を開き顕して一つに合わせること)してただ一つの「総の三諦」と悟るときに成仏するのです。これを開会といい、自行というのです。

※我等衆生でも仏果を成ずれば三身である、と仰せです。

 

 

「総の三諦とは譬えば珠と光と宝との如し此の三徳有るに由つて如意宝珠と云う故に総の三諦に譬う若し亦珠の三徳を別別に取り放さば何の用にも叶う可からず隔別の方便教の宗宗も亦是くの如し珠をば法身に譬え光をば報身に譬え宝をば応身に譬う此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌うなり之を丸じて一と為すを総の三諦と云う、此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり又寂光をば鏡に譬え同居と方便と実報の三土をば鏡に遷る像に譬う四土も一土なり三身も一仏なり今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光の仏と云う寂光の仏を以て円教の仏と為し円教の仏を以て寤の実仏と為す余の三土の仏は夢中の権仏なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全573-4頁・新727-8頁)

 

現代語訳:総の三諦とは、たとえば珠と光と宝との関係の様なものです。この三徳があるから如意宝珠といい、総の三諦に譬えるのです。もしまた珠の三徳を別々に取り放してしまえば、何の用にもならないのです。(総の三諦を珠と光と宝の三徳に譬える関係は、珠とは宝石の本体、光とは石が放つ輝き、宝とはその価値で、一往三つに分けて論じても、現実には不可分なのです)別け隔てられた方便教の宗々は、これと同じなのです。珠は法身に譬え、珠が放つ光は報身に譬え、珠の宝としての価値は応身に譬えるのです。諸宗は、この総の三徳を別々に分けて宗旨を立てて不足していると嫌うのです。これに対して、この三諦を丸めて一つにするのを総の三諦というのです。この総の三諦はまた三身即一の本覚の如来なのです。また寂光土を鏡にたとえ、同居土と方便土と実報土の三土を鏡に映る像に譬えます。四土も一土であり、その体は一仏なのです。法華経では、この三身と四土とが和合して仏の一体の徳であるのを寂三身光の仏というのです。この寂光の仏をもって円教の仏となし、円教の仏をもって寤の実仏となすのです。他の三土の仏は夢中の権仏なのです。

※総の三諦が、三身即一身の本覚の如来ならば、他の御文にもある通り、我々も同様な筈です。

 

 

「一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり、此の五字日蓮出世の本懐なり之を名けて事と為す」(御義口伝上 全717頁・新998頁)弘安元年正月 57歳御作

 

現代語訳:、一とは、中道法相で中諦、大とは生命が大宇宙に遍満していることで空諦、事とは事実の相、行動で仮諦です。この三諦がバラバラでなく、渾然一体となっている実体、すなわち円融(互いに妨げず融合し一体となっていること)の三諦とは何なのでしょうか。それはいわゆる南無妙法蓮華経なのです。この南無妙法蓮華経の五字(即ち御本尊を顕す事)こそ、日蓮大聖人の出世の本懐なのであり、この事行の一念三千(の本尊)を名づけて事というのです。

※円融の三諦は、南無妙法蓮華経であり、大聖人の出世の本懐である。と仰せです。

 

 

「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉り権教は無得道・法華経は真実と修行する是は戒なり防非止悪の義なり、持つ所の行者・決定無有疑の仏体と定む是は定なり、三世の諸仏の智慧を一返の題目に受持する是は慧なり、此の三学は皮肉骨・三身三諦三軌三智等なり」(御義口伝上 744頁・新1036-7頁)

 

現代語訳:いま、日蓮大聖人およびその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉って、権教は無得道であり、法華経は真実の教えであるとして折伏していく戒です。これは非を防ぎ、悪を止めるという意味です。この御本尊を受持するものは、決定無有疑の仏体、つまり、成仏することは疑いないと定める、これは定です。三世十方の諸仏の智慧を一返の題目に受持してゆく、これは慧です。この戒定慧の三学は、皮肉骨、法報応の三身、空仮中の三諦、衣座室の三軌、道種智・一切智・一切種智の三智です。

※戒定慧の三学は、皮肉骨、法報応の三身、空仮中の三諦、衣座室の三軌、道種智・一切智・一切種智の三智である、と仰せです。

 

 

「此の中に心念口演とは口業なり志意和雅とは意業なり悉能受持深入禅定とは身業なり三業三徳なれば三諦法性なり」(御義口伝上 全745頁・新1039頁)

 

現代語訳:「心に念い口に演ぶる」とは身口意三業に約せば口業です。「志意和雅」とは意業になり、「悉く能く受持し、深く禅定に入って」とは実践活動であり身業です。身口意の三業は即、法身・般若・解脱と転ずるので、三諦が円融して悟りの境涯になるのです。

※身口意の三業が、法身・般若・解脱の三徳に転ずれば、円融三諦の悟りの境地に至ると仰せです。

 

 

「法華経八巻は処なり無量義経は無量義なり、無量義は三諦三観三身三乗三業なり法華経に於一仏乗・分別説三と説いて法華の為の序分と成るなり、爰を以て隔別の三諦は無得道・円融の三諦は得道と定むる故に四十余年未顕真実と破し給えり」(御義口伝下 全785頁・新998頁)

 

現代語訳:法華経八巻には一切法を誕生させる本源なので処です。無量義経は無量義を表すのです。無量義とは空仮中の三諦、空仮中の三観(観とは「明らかに見る」の意味で、空観・仮観・中観のこと。三観の三とは、相性体の三如是であり、空仮中の三諦であり、法報応の三身である。森羅万象を三如是・三諦・三身と明らかにみていくことが三観)であり、法報応の三身であり、声聞・縁覚・菩薩の三乗であり、身口意の三業です。方便品第二において、「於一仏乗・分別説三:一仏乗に於いて分別して三と説く」と説かれ、爾前経ではこれらの三諦・三観・三身・三乗・三業等の法門を別々に説かれていたとして、法華経の為の序分としたのです。これをもって、隔別の三諦(妙法を根底としないバラバラの三諦)は、得道することのできない教えであり、妙法を根底とした円融の三諦こそ、得道することのできる幸福への原理と定めているので、無量義経において「四十余年末だ真実を顕さず」と破折されたのです。

※此処に於いて、三諦・三観・三身・三乗・三業等の関係が明らかにされています。

 

 

「我等衆生悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即法・報・応の三身と顕われん事疑ひなかるべし、妙法経力即身成仏と伝教大師も釈せられて候」(妙法尼御前御返事 全1403頁・新2100頁)弘安元年7月 57歳御作

 

現代語訳:我等衆生の悪業・煩悩・生死果縛(生死の苦しみに縛られること)の身が、正(全ての衆生に仏性あり)・了(仏性を了知する)・縁(縁に依って仏性を開発する)の三因仏性の因によって、即、法・報・応の三身如来と顕れることは疑いないことです。「妙法の経力を以て即身に成仏する」と伝教大師も解釈されています。

※三因仏性と三身如来の関係も述べられています。

 

 

◎以上で、大聖人が述べようとされた重要事項(三大事:三つの大事、又は 三大秘法:三つの大きな秘められた方法)に必要な項目(重要語句)を概要提供できたかと思います。

次回から、三大秘法に関する私の勝手な解釈を提示していきます。

 

 

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