一、三、六大秘法に対する私の解釈 10

 

三大秘法 6

 

三身如来と三大秘法 後編

 

「第七衣座室の事
御義口伝に云く衣座室とは法報応の三身なり空仮中の三諦身口意の三業なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は此の三軌を一念に成就するなり、衣とは柔和忍辱の衣・当著忍辱鎧是なり座とは不惜身命の修行なれば空座に居するなり室とは慈悲に住して弘むる故なり母の子を思うが如くなり、豈一念に三軌を具足するに非ずや」(御義口伝上 全737頁・新1028頁)弘安元(1278)年正月 57歳御作

 

現代語訳:衣座室について御義口伝には、次の様に仰せです。衣座室の三軌とは法報応の三身です。空仮中の三諦であり、身口意の三業です。今、南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人及びその門下が、この衣座室の三軌(三つの手本)を自らの命の中に成就するのです。「衣」とは、大難を耐え忍ぶ柔和忍辱の衣です「座」とは不惜身命の修行であれば、空座(如来の座)に居することになるのです。「室」とは、大慈悲心をもって折伏する姿です。母が子を思う様にです。(法華経法師品に「如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり、如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり、如来の座とは一切諸法空是れなり」とあります)この様に、自らの命の中に、衣座室の三軌を備えているのではないでしょうか。

※衣座室の三軌は、法報応の三身、空仮中の三諦、身口意の三業と符合し、唱題する自らの命の中にこれ等が成就される、と仰せです。

 

 

「六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり」(御義口伝下 全752頁・新1048-9頁)

 

現代語訳:(南無妙法蓮華経 如来寿量品第十六の立場から如来を)六即に配立する時は、この品の如来は、(決して色相荘厳仏をいうのではなく)理即の凡夫をいうのです。(だがこれはまだ理の上であり)我々が御本尊を戴いた時は、名字即です。その理由は、初めて題目を聞いたからです。聴聞して信行し、本尊を受持しきっていく事は観行即です。この観行即とは、事の一念三千の本尊を信受し功徳を観ずることです。惑障(様々な心の迷い、悩み、また三障四魔、三類の強敵)に打ち勝っていくのを相似即と云うのです。折伏行に邁進し、広宣流布に向かって戦うのを分身即と云うのです。そして、わが身が無作の三身(生命の奥底で無作三身如来と覚知する)なりと究竟する(最高位と感じる)ことができるのです。これを究竟即というのです。全体を通じていうならば、釈迦仏法の歴劫修行の様に次第に惑いを伏して仏果を得ていくというのではなく、南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の根本は、凡夫の当体の本有のままで究竟即、無作三身如来の真実の幸福境涯を会得していく事であり、この品の極理であると心得るべきなのです。それではこの無作三身如来の振舞いが何かと云えば、それは南無妙法蓮華経なのです。

※わが身が無作の三身であると覚知しての日常の振る舞いこそ無妙法蓮華経だと仰せなのです。

 

 

「我とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり、然りと雖も当品の意は我とは法界の衆生なり十界己己を指して我と云うなり、実とは無作三身の仏なりと定めたり此れを実と云うなり成とは能成所成なり成は開く義なり法界無作の三身の仏なりと開きたり、仏とは此れを覚知するを云うなり已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり、我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり、百界千如一念三千と説かれたり、百千の二字は百は百界千は千如なり此れ即ち事の一念三千なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり」(御義口伝下 全753頁・新1049-50頁)

 

現代語訳:我とは、釈尊が(始成正覚を破って)五百塵点劫の昔に成道していたという事が説かれているのです。しかしながら、当品の元意(日蓮大聖人の仏法の立場からこの文を読むならば)この我というのは、法界の一切の衆生(すなわち森羅万象の十界の生命活動、己々の当体の悉く)を指して我というのです。実とは無作三身の仏であると定めるのです。これこそ真の実というのです。成とは、能成・所成の成ということです。すなわち成とは開くという義です。法界(すなわち森羅万象悉く)無作三身の仏であると開くのです。仏とは、これをわが生命の上に覚知していくことをいうのです。已来の已とは過去であり、来とは未来の事なのです。已来の言葉の中に現在が含まれるのです。(故に「我実成仏已来無量無辺」の文を、大聖人は)「我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり」と読まれたのです。(凡夫の当体本有のままで、無作三身の仏であると覚知し、それが無始無終、永遠に続いているとの意味なのです)この文には百界千如、一念三千が説かれています。(「無量無辺百千万億那由佗劫なり」の)百千の二字は・百は百界を意味し、千は千如を意味し、これは事の一念三千(即ち御本尊)を意味するのです。(無作三身の仏は人、事の一念三千が法で、人法一箇を顕し、寿量品の奥底は、まさしく日蓮大聖人の仏法に帰着し、日蓮大聖人こそ寿量品の本主なのです)総じて、南無妙法蓮華経と唱える大聖人の門下もまた寿量品の本主と顕われるのです。

※もったいなくも唱題する我々もまた、寿量品の本主だと仰せなのです。

 

 

「無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり有とは地獄は地獄の有の儘十界本有の妙法の全体なり、生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり若退の故に滅後なり若出の故に在世なり、されば無死退滅は空なり有生出在は仮なり如来如実は中道なり、無死退滅は無作の報身なり有生出在は無作の応身なり如来如実は無作の法身なり、此の三身は我が一身なり、一身即三身名為秘とは是なり、三身即一身名為密も此の意なり、然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」(御義口伝下 全754頁・新1050-1頁)

 

現代語訳:「無」も「有」も、「生」も「死」も、「若退」も「若出」も、また「在世」も「滅後」も、全て本有常住の振舞いなのです。(即ち久遠以来、常住してきた生命の本質に備わる本然の姿であり、働きなのです)「無」とは、法界(宇宙や森羅万象)同時に妙法蓮華経の振舞い以外の何でも無いのです。「有」とは、地獄は地獄の有りのまま(餓鬼は餓鬼、畜生は畜生のまま)であり、十界を元々有しており、それ自体が妙法の全体なのです。「生」とは、妙法それ自体、久遠より常住するものであり、その妙法を根底とした生であるから、いま初めて生じたものではないのです。元々あるものが縁に触れて顕れたものです「死」とは、寿量の死、すなわち永遠の生命の立場からみた死ですから、大宇宙に冥伏し、大宇宙それ自体となり、そこに何の差別もない。法界同時に妙法それ自体なのです。それは「若しは退」の故に滅後すなわち死となり、「若しは出」の故に在世すなわち生となるのであって、退くか出現するかの違いにすぎないのです。

されば、無死退滅すなわち有に対し無、生に対し死、出に対し退、在世に対し滅後は、空仮中の三諦より論ずれば空諦となります。大宇宙に冥伏しているからです。有生出在、即ち無に対して有、死に対して生、退に対して出、滅後に対し在世は、縁にふれて目に見える姿として顕れてきたものですから仮諦です。有生出在に偏らず、無死退滅に偏らず、しかも有生出在、無死退滅を包含して、有りのままに生命の実相をみていく如来如実は中道です。

これを無作三身如来の身に論ずるならば、無死退滅は無作の報身であり、有生出在は無作の応身であり、如来如実は無作の法身です。この三身は久遠元初の自受用身如来の一身にそなわるものです。天台が文句の九に「一身即三身なるを名けて秘と為す」と述べたのも、実はこの事を意味しているのです。同じく「三身即一身なるを名けて密と為す」とあるのも、やはりこの事を意味するのです。そうであれば、無作の三身の当体の蓮華の仏とは、南無妙法蓮華経如来たる日蓮大聖人のことであり、また南無妙法蓮華経と唱える日蓮大聖人の門下も、総じてはこれに含まれるのです。

※無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮とその弟子檀那等である、と仰せです。

 

 

「量の字を本門に配当する事は量とは権摂の義なり、本門の心は無作三身を談ず此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず、森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり、是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり」(御義口伝下 全784頁・新1090頁)

 

現代語訳:量の字を(迹門・本門・観心の概念中で)本門に配当する事は、量とは一切の事物を包含するという意味があるからです。本門の元意は、無作の三身を説き顕す事にあります。この無作三身とは、単に仏の事ばかりではなく、一切の森羅万法(即ち妙法に照らされた一切の生命活動)を自受用身(自らほしいままに受け用いる身)のごとく自体顕照(自身を明らかに照らし出し自覚すること)すると説かれているので、迹門において説かれている不変真如の理円を、そのまま改めないで、おのおのの当体がそのまま無作三身と顕現するのです。これが本門事の一念三千の元意なのです。これ則ち、桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、おのおのの当体を改めずして、そのままの姿で無作三身と開見していくのです。これこそ一切を摂することであり、量の義なのです。今、日蓮大聖人及びその門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、すべて無作三身の本主なのです。

※我々が無作三身の本主なのであれば、我々も三大秘法の一分であるとお仰せではないでしょうか。

 

 

◎大聖人は、妙法の振る舞いとして、一切の森羅万象も我々衆生も、各々の当体を改めずして、そのままの姿で無作三身と開見していく、と仰せであり、法界(宇宙や森羅万象)も我等己身も、無作三身の当体にして寿量品の本主なのだ、と教示されています。

 

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村