続 日蓮仏法に於ける一大秘法 5

 

 

歴代僧侶の「妙法蓮華経の五字」の引用文書 5

 

「妙法蓮華経の五字」に連なる語句を紹介しています。

 

 

保田妙本寺開基 日郷上人(生存期間 西暦12931353年)

 

宰相阿闍梨日郷上人は、大石寺の久成坊日世に入門後、日目上人に師事し、重須談所や連蔵坊で行学に励んだ。元弘31333)年日目上人の天奏では日尊と共に随伴して西上したが、途中で日目上人入滅の為、遺骨を奉じて下之坊に納めた。功績として、安房顕得寺、保田妙本寺を建立する。その後、南条時綱より大石寺東坊(連蔵坊)を譲渡されるが、この土地問題で内紛となり、この内紛状態が72年間続き大石寺を疲弊させる。

保田妙本寺の主張:日目上人の後、日郷が大石寺に帰り、四代を継いだとしている。

 

「先師日蓮聖人は妙法蓮華経を弘めて本門秘要の道を示し、立正安国論を造つて末法和平の理を専にす」(日郷 記第六国諌 日郷の国諌』富要集8372頁)康永41345)年3月 祖滅63

 

 

西山本門寺開基 日代上人(生存期間 西暦12941394年)

 

伊予阿闍梨又は蔵人阿闍梨日代上人は日興上人の外甥にあたり、兄日善と共に少年時、師日興上人の下で出家し伊予公と称した。師の晩年には中年ながら重須の坊の住職となり新六の筆頭となる。

 日興上人、日目上人の御遷化の翌年(建武元年1334年)、大石寺の上蓮坊(百貫坊)で、本六の一人日仙との間で方便品読不読問答があり、日代は、迹門の方便品にも得益があると主張したことが批判され、重須を退去し、西山に法華堂(西山本門寺)を開いた。その後、西山と重須(北山本門寺)の間で正統を争い対立が続いた。この対立で、西山が武田勝頼と結び、重須から、二箇相承、本尊、その他を奪った。その後、武田は織田、徳川に責められ、武田一族は滅亡し、二箇相承等は紛失してしまう。

 

「梵天の託宣にまかせて宮殿を作り長き尺五の石の面に妙法蓮華経の五字をあらはして大梵天王と号して崇たてまつる」(日代 記佐渡国小関法華縁起』富要集10321頁)貞治51366)年4月 祖滅84

 

 

北山本門寺 第二代  日妙上人(生存期間 西暦12851365年)

 

式部公日妙上人は、初め日華の弟子となり式部阿闍梨と号し、鰍沢(かじさわ)の蓮華寺にいたが、その後重須へ移り、日興上人に師事し新六人の一人になり、日代の後、重須(北山本門寺)の第二代となる。

 

「早く爾前迹門の諸宗を破却して法華本門如来の肝要妙法蓮華経の五字を立てらるれば国家福祚の大本、華夷和楽の洪基たるべし」(重須 日妙記第六国諌 日妙の諌状』富要集8390頁)暦応21339)年 祖滅57

 

 

保田妙本寺 二代 日賢上人(生存期間 不明)

 

日賢上人は日郷の高弟、大輔阿闍梨を名乗り、川崎の遠本寺に住む。詳細は不明。

 

「抑も日蓮聖人は如来所遣の行者にして本法弘宣の導師なり(中略)

立正安国論の忠を致し妙法蓮華経の秘法を弘む」(日賢 記第六国諌 日賢の国諌』富要集8374頁)至徳21385)年3月 祖滅104

 

 

※興門派(富士門流)も次第に分離していき、この当時の文証が富士宗学要集ではかなり少ないですが、然し現存の文章で、いずれの僧侶も妙法蓮華経の五字が、日蓮仏法の肝要である事を忘れてはいないのです。

しかもこの時代にも「楠板本尊」の記述は無く、従って「楠板本尊」が「三大秘法惣在」どころか、「一大秘法」に該当する主張なども全く見られないのです。

 

 

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