大石寺の板本尊

 

 

大石寺系の本尊として、願主(製作責任者)が既知の「板本尊」と「楠板本尊」を比較します。

 

 

1.紫宸殿御本尊と伝称される弘安三年御図顕本尊の摸刻

 

A.(紫宸殿御本尊と伝称す)弘安三年太才庚辰三月日 総本山。(富要集8178頁)

 

B.(弘安三年三月日紫宸殿の本尊を摸刻し左の加筆を為す)文安二年乙丑十一月六日、九世日有在判、須津(すど)の庄鳥窪の住持日伝に之を授与す、総本山。

 編者(日亨上人)曰く一時天王堂に安置せしが廃堂の後宝蔵に在り、御身替り本尊と称して奇怪の伝説あるは近古の訛伝か、鳥窪の旧地存すれども今其址だに無し、或は本広寺の前身にあらざるなきか。(富要集8194頁)

 

※紙幅本尊(A)は、弘安3(西暦1280)年で祖生2年、板本尊(B)は、文安21445)年で祖滅163年の造立であり、どちらも干支が記載されている。

此の板本尊に裏書、腰書が書かれているのか不明であり、願主、施主も不明であるが、製作責任者は法主の日有上人であろう。

 

 

2.嘉元三年日興上人書写本尊(何処にも記載なし)の摸刻

 

(真光寺板本尊日興上人御本尊彫刻)

乾元四年八月十三日、富士大石寺持仏堂安置の本尊なり。

同く裏書。

                    施主松園日俊(俊師)   彫刻の助手

寄進し奉る板本尊一幅            寿円日仁(要山舒師)  了心院日安(三世)

願くは此功徳を以て普く一切に及ぼし我    金応日窓        学然日円

等と衆生と共に仏道を成ぜん         治雲日深        通宣日安

                      宣令日饒        唯然日治

駿州富士大石寺末寺             長然日永(永師)

下総国中田村本住山真光寺常住        畠山日現

維時寛文十二壬子年潤六月十三日       教学日緑

                      永順日覚

                      玄素日荘

                      智応日応

                      琢応日雄

                      順碩日玄

                      随宣日要

                    願主の棟梁本行院日優(二世)

                     (富要集8201-2頁)

 

※(乾元285日に改元した為に)乾元4813日は無く、嘉元3(西暦1305)年813日書写の日興上人の御本尊と思われるが、富要集8巻には記載されていない。

板本尊の造立の寛文121672)年は、大聖人滅後390年になる。

願主は本行院日優(二世)で、施主(製作者)は後の22世日俊上人を筆頭に14名、彫刻の助手は4名と明確である。

「寄進し奉る板本尊一幅」とある事から、願主本行院日優が完成後、寺院に寄進したものと思われる。 

 


3.正応三年日興上人書写本尊(御座替本尊と称す)の摸刻

 

A.「一御座替の本尊を日目に授与したまふ是レ則大石寺御建立の年の御筆なり」(日精記「家中見聞中」富要集5188頁)
「(右下)正応三年十月十三日之を写す日興(十六枚の大幅)(左下)日目に之を授与す、 総本山御座替本尊。」(富要集8179頁)
石山本尊の研究 3番 (日蓮本宗(要法寺)柳澤宏道 著「石山本尊の研究」423頁、石山本尊の研究01.pdf


B. 「(総本山客殿の板本尊、日興上人御座替御本尊彫刻)
裏書
当山重宝血脈手続の大漫荼羅にして御座替りと号す、今正に之を写し彫刻せしめて方丈に安置為し奉り鎮に三大秘法広宣の利益を祈る、希くは修善に酬ひ当に今世に於て得現華報憑みあり、未来世に於て必ず三身を得べきこと疑ひ無からん。
 時に宝永三丙戌の年六月十五日
   施主 武州江戸 石田三郎右衛門
   彫主 上野上条村 清三郎兵衛
   願主 二十四代富士阿闍梨日永五十七歳敬白。」(富要集8202-3頁)

 

紙幅本尊の正応三(1290)年から416年後の宝永三(1706)年に板本尊を造立し、二体の本尊が存在する。

「御座替板本尊」では、
「当に今世に於て得現華報憑みあり、未来世に於て必ず三身を得べきこと疑ひ無からん」
と現当2世の幸福と未来世の記別を約束しており、元の紙幅「御座替御本尊」を書写された人物は、開山日興上人であり、授与された方は、日目上人である。
願主は日永上人、施主は、武州江戸の石田三郎右衛門、彫主は上野上条村の清三郎兵衛である。
「願主 二十四代富士阿闍梨日永五十七歳敬白。」との文から、願主日永上人自身が、施主・彫主に感謝を申し上げている。

 

※願主は宗門のトップの24世日永上人であり、板本尊への造立目的、施主、彫主が、誰かも明確である。

 

 

4.本門戒壇本尊とされる「楠板本尊」の彫刻

 

(楠板彫刻戒壇大御本尊)右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華衆等敬白、弘安二年十月十二日、 同上(総本山)。(富要集8177頁)

 

腰書

「右為現当二世造立如件 本門戒壇之願主 弥四郎国重 法華講衆等敬白 弘安二年十月十二日」について


某法華講員さんは、

「この本門戒壇の大御本尊を現世来世の為に建立した事を 願主 弥四郎国重 法華講衆等に謹んで申し上げる 弘安二年十月十二日」

と、大聖人自身が願主に申したと説明しています。

 

私(サム)の解釈文です。

「右(この本尊を)、現当二世の為に造立した事は、前に述べた通りです。
本門戒壇の願主である弥四郎国重および法華講衆等が(制作関係者に)敬って申し上げます。弘安二年十月十二日」
もし、大聖人が「楠板本尊」を建立し、大聖人が腰書も記載されたのであれば、以下の記述に違和感があります。

①「現当二世の為に造立した(為現当二世造立)」との記述に違和感があります。

大聖人も日興上人も、「仏像」等に「造立」なる語句を用いるが「御本尊」に用いず、御本尊には「図し」「書く」「図す」の語句を用いておられるからです。
「御本尊図して進候」(報恩抄送文330頁)「本尊一ぷくかきてまいらせ候」(是日尼御書1335頁)

「図する所の本尊は」(五人所破抄1614頁)

従って、大聖人の関与ならば、「板本尊」であっても「造立し」の語句の使用は不自然なのです。

 

②「前に述べた通り・いつもの通り造立した(造立如件・造立件の如し)」との記述に違和感があります。

大聖人及び宗門の板本尊の彫刻は、初めての筈です。

上の記述は、前例があり、後世に模作された事を想像させます。

 

③大聖人が、わざわざ「弥四郎国重および法華講衆等に敬って申し上げる」と永遠に留めるでしょうか。そんな前例は無く、違和感があります。

 

④当時「法華講」が組織されているとの記録も無く、大聖人が誰に「敬白」するのかも不自然なのである。


⑤干支の併記無しに「弘安二年十月十二日」と年月日だけを記載した既存の「大聖人御自筆本尊」は、ありません。他筆の可能性が大なのです。

⑥もし「弘安二年十月十二日」が図顕年月日であるならば、腰書ではなく、御花押の傍、又は左下四天王の大増長天王の横に記載れるのが、普通であり、でないのは不自然なのです。

 

⑦板本尊の願主は、宗門の最高責任者の名が連なっていますが、「楠板本尊」の願主が日興上人でも無く、有力在家信徒、特に富木常忍でも無かった理由は何なのでしょうか。

 

⑧「楠板本尊」には、日興上人を始め宗門関係者の名前が全く書かれていないのに、どうして日興上人に授与されたと思われたのでしょうか。

 

 

総括

 

「楠板本尊」は背面が丸太状になっていると言われており、裏書が書けなくて腰書として書かれたと考えられ、「楠板本尊」の腰書は、他の板本尊の裏書と同じ意味を持ち、本尊の相貌に入らないであろう。

故に、正面から見て「楠板本尊」に腰書が存在していると判断しにくく、もし「弘安21012日」が大聖人御図顕年月日であるならば、腰書ではなく、もっと上位の大増長天王の近辺に記載されているべきである。

他の板本尊の制作には、宗門のトップが関係しており、「本門戒壇の願主」を在家信徒と考えられる「弥四郎国重」とする事は不自然であり、法華講員さんが述べている様に、大聖人の己心の表現であるとするのは、更に不可解である。

やはり私は、放射性炭素年代鑑定法で、「楠板本尊」の造立の真偽を明らかにする事が重要、不可欠であり、宗門が一日も早く即断すべきと推考するのである。


 

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