御書に見る「成仏を約束された人々」11

 

光日房

 

安房(千葉県)の清澄寺山下の天津の人で、今日〇〇房と呼べば男性僧侶を通常意味するが、大聖人から賜った御抄から推察すると、光日尼の事を示している様に思われ、夫は武人とされるが詳細は不明である。先に息子の弥四郎が青年時代に大聖人に帰依し其の後、光日尼も共に信心に励むが、弥四郎は横死する。賜書に、種種御振舞御書、光日房御書、光日上人御返事、光日尼御返事があり、大聖人からは慈愛溢れる指導激励を受けている。

 

 

各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をやををもひ・めこををもひ所領をかへりみること・なかれ、無量劫より・このかた・をやこのため所領のために命すてたる事は大地微塵よりも・をほし、法華経のゆへには・いまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき、譬えばゆをわかして水に入れ火を切るにとげざるがごとし、各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり。」(種種御振舞御書910頁)建治23月 55歳御作 安房の光日房に与う

通解:各各日蓮の弟子と名乗る人々は、一人も臆する心を起こしてはなりません。大難の時には親の事を心配したり、妻子の事を心配したり、また所領を顧みてはなりません。無量劫の昔から今日まで、親子の為や所領の為に命を捨てた事は、大地の土の数よりも多いのです。だが法華経の為にはいまだ一度も命を捨てた事はないのです。過去世に法華経を多少修行したけれど、この様な大難が出て来た場合に退転してしまったのです。それは譬えば折角湯を沸かしておきながら水を入れてしまい、火を起すのに途中で止めて起しきれない様なものです。各々覚悟を決めきって修行を遣り遂げなさい。この身を法華経と交換するのは、石を黄金と取り換え、糞を米と交換うる様なものなのです。

※大聖人は、法華経の死身弘法の精神を説いて弟子を励まされている。

 

 

「人のをやは悪人なれども子・善人なれば・をやの罪ゆるす事あり、又子悪人なれども親善人なれば子の罪ゆるさるる事あり、されば故弥四郎殿は設い悪人なりともうめる母・釈迦仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば争か彼人うかばざるべき、いかに・いわうや彼の人は法華経を信じたりしかば・をやをみちびく身とぞ・なられて候らん」(光日房御書931頁)建治23月 55歳御作

通解:人の親は悪人であっても子が善人であれば、親の罪を許す事も有り得ます。また子が悪人であっても、親が善人であれば、子の罪を許される事も有り得るでしょう。ですから、故弥四郎殿はたとえ悪人であっても、生みの母が釈迦仏の御宝前で昼夜になげき・追善供養するならば、どうして弥四郎殿が成仏できない事があるでしょうか。ましてや弥四郎殿は、生前には法華経を信じていたのですから、悪道へ堕ちるどころか、親を成仏へ導く身となられるでしょう。

※親の信心で子を、子の信心で親を、成仏へ導く事ができると、仰せなのです。

 

 

光日尼御前はいかなる宿習にて法華経をば御信用ありけるぞ、又故弥四郎殿が信じて候しかば子の勧めか此の功徳空しからざれば子と倶に霊山浄土へ参り合せ給わん事疑いなかるべし、(中略)何に況や親と子との契り胎内に宿して九月を経て生み落し数年まで養ひき、彼にになはれ彼にとぶらはれんと思いしに彼をとぶらふうらめしさ、後如何があらんと思うこころぐるしさ・いかにせん・いかにせん、子を思う金鳥は火の中に入りにき、子を思いし貧女は恒河に沈みき、彼の金鳥は今の弥勒菩薩なり彼の河に沈みし女人は大梵天王と生まれ給えり、何に況や今の光日上人は子を思うあまりに法華経の行者と成り給ふ、母と子と倶に霊山浄土へ参り給うべし、其の時御対面いかにうれしかるべき」(光日上人御返事932-4頁)弘安48月 60歳御作

通解:光日尼御前はいかなる宿習によって法華経を信ずる様になったのでしょうか。また亡くなった弥四郎殿が法華経を信じていたので、その子の勧めによって信ずる様になったのでしょうか。法華経を信じた功徳があるのですから、子の弥四郎殿と共に霊山浄土へ参って会う事は疑いないのです。(中略)ましてや親と子との宿縁はそれ以上なのです。母は胎内に子を宿して九ヵ月を経て出産して数年間養育してきたのです。老後はその子に荷われ、死後も追善を営んでもらえるだろうと思っていたのに、逆に子の弥四郎を弔うこの悲しさ、わが子は今どうしているだろうかと思う心の苦しさは一体どうしたら良いのでしょうか。子を思う金鳥は子を助けるために火の中に入って一命を捨てました。子を思う貧女は最後まで子を守ってガンジス河に沈みました。だが彼の金鳥は今の弥勒菩薩であり、ガンジス河に沈んだ貧女は大梵天王と生まれたのです。ましてや今の光日上人はわが子を思うあまり法華経の行者となったのです。よって必ず母と子が共に霊山浄土へ参る事ができるのです。その時の対面はどんなに嬉しい事でしょう。

※親と子との宿縁により、共に法華経を信ずる様になったのであれば、親子が共に霊山浄土へ参る事ができる、と大聖人は仰せなのです。

 

 

「三つのつなは今生に切れぬ五つのさわりはすでにはれぬらむ、心の月くもりなく身のあかきへはてぬ、即身の仏なり・たうとし」(光日尼御返事934頁)年代不明9

通解:三つの綱である女性の三従(大智度論にある女人が一生涯において服従すべき三つをいい、幼なれば父母に従い、嫁して夫に従い、老いて子に従う、とされている)の業は今生において切れています。五つの障(女人が持つ五つ障りをいい、法華経提婆達多品での舎利弗は、女人の身では梵天・帝釈・魔王・転輪聖王・仏には成れず、従って成仏できないのではないかと疑問するが、八歳の竜女が即身成仏の現証を示し、法華経の正しさを證明する)も既に晴れたでしょう。心奥の仏性の月は曇りがなく煌々と照り輝き、苦集の身の垢は消え果てているのです。まさしく光日尼あなたは即身の仏なのです。まことに尊い事です。

※大聖人は、弥四郎亡き後の光日尼の健気な信心をめでられ、光日尼を三従、五障を離れた「即身の仏」であると、述べられている。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村