御書に見る「成仏を約束された人々」10

 

最蓮房

 

最蓮房日栄とも日浄ともいい、京都出身で佐渡流罪中に大聖人の門下となった天台学匠である。大聖人の身延入山後に赦免されて京都へ帰り、次いで甲州に移って甲州下山の本国寺を開き、87歳で逝去したと伝えられている。大聖人より賜った御書は、生死一大事血脈抄、草木成仏口決、最蓮房御返事、祈祷抄、祈祷経送状、諸法実相抄、当体義抄、立正観抄、同送状、十八円満抄等であり、いずれも甚深の法門が明かされている。

 

 

「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」(生死一大事血脈抄1337)文永92月 51歳御作 最蓮房日浄に与う

通解:この様に、十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経すなわち妙法蓮華経と、我等九界の衆生の三は全く差別がないと信解して、妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのです。この事こそが日蓮と弟子檀那等の肝要なのです。法華経を持つとはこの事を云うのです。

※我等衆生と仏とには差別が無いと信解して唱題する事が大事なのです。

 

 

「而るに貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ、金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈真金に非ずや・法華経の金を持つ故か、経に云く『衆山の中に須弥山為第一・此の法華経も亦復是くの如し』又云く『火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず』云云、過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、『在在諸仏土常与師倶生』よも虚事候はじ。」(生死一大事血脈抄1337-8

通解:そうした中で、あなたは日蓮に随順され、また法華経の為に難に遭われており、その心中が思いやられて心を痛めているのです。鋼鉄は大火にも焼けず、大水にも流されず、また朽ちる事も無いのです。銑鉄は水にも火にも、共に耐える事ができないのです。賢人は鋼鉄の様であり、愚人は銑鉄の様なものです。あなたは法華経の鋼鉄を持つ故に、まさに真金なのです。薬王菩薩本事品に「諸山の中で須弥山が第一である様に、この法華経もまた諸経中最第一である」とあり、また「火も焼く事ができず、水も漂わす事ができない」と説かれています。過去の宿縁で日蓮の弟子となられたのでしょうか。釈迦多宝の二仏だけは御存知と思われます。化城喩品の「在在諸仏の土に常に師と倶に生ぜん」の経文は、どうしても虚事とは思われないのです。

※大聖人は最蓮房を「真金の人」と信頼されています。

 

 

「何となくとも貴辺に去る二月の比より大事の法門を教へ奉りぬ、結句は卯月八日・夜半・寅の時に妙法の本円戒を以て受職灌頂せしめ奉る者なり、此の受職を得るの人争か現在なりとも妙覚の仏を成ぜざらん、若し今生妙覚ならば後生豈・等覚等の因分ならんや、実に無始曠劫の契約・常与師倶生の理ならば・日蓮・今度成仏せんに貴辺豈相離れて悪趣に堕在したもう可きや、如来の記文仏意の辺に於ては 世出世に就いて更に妄語無し、然るに法華経には『我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん』或は『速為疾得・無上仏道』等云云、此の記文虚くして我等が成仏今度虚言ならば・諸仏の御舌もきれ・ 多宝の塔も破れ落ち・二仏並座は無間地獄の熱鉄の牀となり.方・実・寂の三土は地・餓.畜の三道と変じ候べし、争か・さる事候べきや」(最蓮房御返事、師弟契約御書1342-3頁)文永94

通解:何という事はないけれども、あなたに去る二月の頃から大事の法門を教へ申し上げました。最後には、四月八日の夜半、午前四時頃に、妙法の本円戒をもって受職(修行の最後に妙覚の仏位、即ち成仏を許されること)灌頂(法王が智水を菩薩の頂きに注ぎ、仏位を与えること)して差し上げました。この受職を得る人が、どうして現世であっても妙覚の仏と成らない事があるでしょうか。もし今生が妙覚ならば、後生がどうして等覚等の因位の分際である事があるでしょうか。実に、無始の昔からの約束であり、「常に師とともに生ぜん」という理ならば、日蓮がこのたび成仏するのに、あなたがどうして離れて悪道に堕ちる事があるでしょうか。如来の記した経文は、仏の本意から観る時、出世間にあって全く嘘はないのです。しかし法華経には「我が滅度の後に必ずこの経を受持すべきである。この人は仏道において成仏することは疑いないであろう」とあり、或いは「速やかに為れ疾く、無上の仏道を得たり」等とあるのに、この記文が事実でなくて私達の成仏が嘘であるならば、諸仏の御舌も切れ、多宝の塔も破ち、二仏が並座している所は、無間地獄の焼けた鉄の床となり、方便土・実報土・寂光土の三土は地獄・餓鬼・畜生の三悪道と変じるでしょう。どうして、その様な事があるでしょうか。

※大聖人は最蓮房に「成仏」を許されましたが、我等衆生の「成仏」もまた、大聖人の確約なのです。

 

 

「又一切の菩薩並に凡夫は仏にならんがために、四十余年の経経を無量劫が間・行ぜしかども仏に成る事なかりき、而るを法華経を行じて仏と成つて今十方世界におはします仏・ 仏の三十二相・八十種好をそなへさせ給いて九界の衆生にあをがれて、月を星の回れるがごとく須弥山を八山の回るが如く、日輪を四州の衆生の仰ぐが如く輪王を万民の仰ぐが如く、仰がれさせ給うは法華経の恩徳にあらずや、されば仏は法華経に誡めて云く「須らく復た舎利を安ずることをもちいざれ」涅槃経に云く「諸仏の師とする所所謂法なり是の故に如来恭敬供養す」等云云、法華経には我舎利を法華経に並ぶべからず、涅槃経には諸仏は法華経を恭敬供養すべしと説せ給へり、仏此の法華経をさとりて仏に成りしかも人に説き聞かせ給はずば仏種をたたせ給ふ失あり、此の故に釈迦如来は此の娑婆世界に出でて説かんとせさせ給いしを、元品の無明と申す第六天の魔王が一切衆生の身に入つて、仏をあだみて説かせまいらせじとせしなり」(祈祷抄1345-6頁)文永9年 51歳御作

通解;また一切の菩薩並びに凡夫は、仏に成る為に、四十余年の経々を無量劫が間、修行したけれども、仏に成る事はなかったのです。ところが、法華経を修行して仏に成られた、今十方世界におられる仏は、仏の三十二相・八十種好を具えられ、九界の衆生から、月を星が回る様に、須弥山を八山が回る様に、日輪を四州の衆生が仰ぐ様に、輪王を万民が仰ぐ様に、仰がれる事こそ、法華経の恩徳ではないでしょうか。そうであればこそ、仏は法華経に誡めて「また舎利を安置することは必要ない」と説かれ、涅槃経には「諸仏の師とする所は法である。この故に如来は恭敬し供養する」と説かれているのです。法華経には我が舎利を法華経と並べてはならないとし、涅槃経には諸仏は法華経を恭敬し供養すべきであると説かれたのです。仏はこの法華経を覚って仏に成られたのですから、人に説き聞かせなかったならば、仏種を断ってしまう罪悪となるのです。だから、釈迦如来はこの娑婆世界に出生してこの法華経を説こうとされたのですが、そこへ元品の無明という第六天の摩王が、一切衆生の身に入って、仏を怨嫉して説かせまいとしたのです。

※大聖人は、誰をも仏にさせる法華経の恩徳とそれを妨げようとする魔の働きがある、事を教示されています。

 

 

「其れに付いても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり。」(祈祷経送状1357頁)文永10年正月 52歳御作

通解:それにつけても法華経の行者は信心において退転なく、身に偽りなく、一切を法華経にその身を任せて金言の通りに修行すれば、たしかに後生はいうまでもなく、今生においても息災延命で勝れた大果報を得、広宣流布大願をも成就する事ができるでしょう。

※誠実な信心を貫く法華経行者は、大果報を得、広布大願も成就する、と大聖人は仰せなのです。

 

 

「釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に『如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり』と判じ給へり、此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり」(諸法実相抄1358頁)文永1010月 52歳御作

通解:釈迦仏が我ら衆生の為に主師親の三徳を備えられていると思っていたのでしょうが、そうではなくかえって仏に三徳をこうむらせているのは凡夫なのです。その理由は、如来というのは天台大師の法華文句には「如来とは十方三世の諸仏・真仏・応仏の二仏、法身・報身・応仏の三身・本仏・迹仏の一切の仏を通じて如来と号するのである」と判じられています。この釈に「本仏」というのは凡夫であり「迹仏」というのは仏なのです。しかしながら、迷りと悟りの相違によって、衆生と仏との異なりがあり、この為に衆生は倶体・倶用(体は本体、用は働きを意味し、体と用を共に備わっている事を云い、但体無用に対する語。我が身が妙法の当体であり、経文上の仏・菩薩は全て我が生命の用を表したものであるという事を覚知できないでいる、のが衆生と仏の違い。)という事を知らないのです。

※大聖人が、真実の成仏の姿は如何なるものかを示そうとされた、と拝される。

 

 

「日蓮が相承の法門等・前前かき進らせ候き、ことに此の文には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ不思議なる契約なるか、六万恒沙の上首・上行等の四菩薩の変化か、さだめてゆへあらん、総じて日蓮が身に当ての法門わたしまいらせ候ぞ、日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん、南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女を・みちびかんとおもへばなり、経に云く一名上行乃至唱導之師とは説かれ候はぬか、まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う、此の文あひかまへて秘し給へ、日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ」(諸法実相抄1361-2頁)

通解:あなたには日蓮の相承の法門を、前々から書き送っています。特に、この手紙には大事の法門を記して置きました。日蓮と貴辺とは不思議な契約があるのでしょうか。六万恒沙の上首の上行等の四菩薩の変化でしょうか。決められていた事なのでしょう。総じて日蓮が身にあたる法門を差し上げているのです。日蓮は六万恒沙の地涌の菩薩の眷属であるかもしれない。理由は南無妙法蓮華経と唱えて日本国の男女を導かんと思っているからです。法華経従地涌出品には「一名上行乃至唱導之師(注1)」と説かれているではありませんか。あなたにはまことに深い宿縁によって日蓮の弟子となられたのです。この手紙を心して秘していきなさい。日蓮が己証(自ら真理・妙理を悟ること、またその悟り自体のこと)の法門等を書き記したのです。

※大聖人は難解な相承の法門を先ず元天台僧の最蓮房に送られています。いかに大聖人が

信頼されていたかが窺われます。

 

注1:従地涌出品第十五の文であり、詳しい内容は「是の菩薩衆の中に、四導師有り。一を上行と名づけ、二を無辺行と名づけ、三を浄行と名づけ、四を安立行と名づく。是の四菩薩、その衆中に於いて、最も為れ上首唱導の師なり」(「真訓両読 妙法蓮華経並開結」476頁、大石寺版 発行創価学会)とあります。

 

 

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