御書に見られる「衆生の成仏」10

 

 

「信の処に解あり解の処に信あり然りと雖も信を以て成仏を決定するなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり」(御義口伝下「分別功徳品三箇の大事」第一761頁)

通解:信のあるところに解があり、解のあるところに信があるのです。しかしながら、信と解では信が根本であり、信によって解も生じ成仏を決定するのです。いま、日蓮大聖人およびその門下で南無妙法蓮華経と唱え奉る者が、これに該当するのです。

【信有りて成仏するのは日蓮門下】信を以て成仏を決定するのは、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり

 

 

「如是諸人等の文は広く一切衆生に亘るなり、然らば三世十方の諸仏は妙法蓮華経を頂き受けて成仏し給う、仍つて上の寿量品の題目を妙法蓮華経と題して次に如来と題したり秘す可し云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは此の故なり云云。」(御義口伝下「分別功徳品三箇の大事」第二761頁)

通解:「如是諸人等;是の如き諸人等」の文は、広く一切衆生にわたるとの意味なのです。すなわち、誰人も南無妙法蓮華経に依って成仏するから、三世十方の諸仏は妙法蓮華経を頭に頂き信受して成仏したのです。よって、上の寿量品の題目においては、南無妙法蓮華経と題して次に如来と題したのです。この題号の深意は、文底の大事の法門であり、秘すべきです。いま、日蓮大聖人およびその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るのは、頭に南無妙法蓮華経を頂き、成仏せんが為なのです。

【衆生成仏への方法】日蓮門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るのは、頭に南無妙法蓮華経を頂き(御本尊を持ち我が身妙法の当体と確信すること)、成仏する為なのです

 

 

「功徳とは六根清浄の果報なり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり、されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳有るなり、功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり」(御義口伝下「法師功徳品四箇の大事」第一762頁)

通解:功徳とは六根清浄の果報です。所詮、日蓮大聖人およびその門下で、南無妙法蓮華経と唱え奉る者が六根清浄となるのです。それ故、妙法蓮華経の法、すなわち御本尊を自行化他に行ぜるところの師となってこそ大なる徳があるのです。功は幸という事です。または悪を滅するを功といい、善を生ずるを徳というのです。功徳とは即身成仏であり、また六根清浄なのです。

功徳とは六根清浄の果報南無妙法蓮華経と唱え奉る者が功徳を得、即身成仏する

 

 

「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり、深覚円理名之為仏の故なり円理とは法華経なり」(御義口伝下「常不軽品三箇の大事」第十三766頁)

通解:末法の仏とは凡夫であり、凡夫僧なのです「法を聞かず(不聞法)」というこの法とは題目なのです。「僧を見ず(不見僧)」という僧とは、われら、三大秘法の南無妙法蓮華経を唱え、実践する者の事なのです。内証の辺について言えば、即、本有無作の仏であり、外用の辺について言えば、凡夫といわれるのです。これすなわち「深覚円理名之為仏;深く円理を覚る、之を名づけて仏と為す」の故であり、円理とは法華経すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経なのです。(故に、この三大秘法の南無妙法蓮華経を深く信じ、覚る者が、すなわち仏なのです。)

円理を覚る者は仏僧とは妙法を口唱し実践する者であり、妙法を深く信じる衆生はやがて覚りて仏に成る

 

 

「毎の字は三世なり念とは一切衆生の仏性を念じ給いしなり、仍つて速成就仏身と皆当作仏とは同じき事なり仍つて此の一文を相伝せり」(御義口伝下「常不軽品三箇の大事」第十九767頁)

通解:「毎自作是念;毎(つね)に自ら是の念を作さく」の毎の字は過去・現在・未来と三世にわたる事であり、念とは、仏が一切衆生の仏性を念じたまう事なのです。寿量品第十六の「速かに仏身を成就する」というのと、常不軽品第二十の「皆当に作仏すべし」というのとは、同じく仏が衆生を成仏せしめようと念じている事を意味するのです。従って、仏の弟子である我々創価学会員はこの文を不軽菩薩の礼拝住処として「相伝」していくのです。

毎自作是念の相伝】衆生を成仏させようと仏が念じられた行為は、相伝を受けた私達が化他行に生かしていくのです

 

 

「量の字を本門に配当する事は量とは権摂の義なり、本門の心は無作三身を談ず此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず、森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり、是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり云云。」(御義口伝下「無量義経六箇の大事」第二784頁)
通解:(これは無量義の三字の内の、量の字について)量の字を迹門・本門・観心の内、本門に配当するという事は、量とは一切のものを包含するという意味があるからなのです。
本門の元意は、無作の三身を説き顕すことにあるのです。この無作三身とは、単に仏の事ばかりではなくして、妙法に照らされた一切の生命活動の事を顕しているのです。即ち、一切の森羅万象、一切の生命活動は、ことごとく本門が顕れる時に自受用身(過去の因位の修行の結果として自ら広大なる法楽を受用する仏身)の自体顕照(妙法による智慧の働きを指し万法の本体{自体}を照らし真理を顕現する事で、大聖人は万法の体である妙法蓮華経{}に自身の智が冥合する事を自体顕照の姿としている)と説かれているが故に、迹門において説かれている不変真如の理円(法華経迹門)を、そのまま改めないで、各々の当体がそのまま無作三身と顕現していくのです。これが本門事の一念三千の元意なのです。
此れが即ち、桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、各々の当体を改めずして、そのままの姿で無作三身と開見していくのです。これこそ一切を摂する事であり、量(多様性)の義なのです。今、日蓮大聖人およびその門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、すべて無作三身の本主なのです。

桜梅桃李の己己の当体を改めず】妙法を口唱する我々日蓮門下は、個性豊かな無作三身の仏の姿として顕現される

 

御書『御義口伝下「無量義経六箇の大事」まで

 

 

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