御書に見られる「衆生の成仏」1
「華厳経の如く相似の文之有りと雖も実義之無きか、私に云く二乗作仏無くば四弘誓願満足す可からず、四弘誓願満たずんば又別願も満す可からず、総別の二願満せずんば衆生の成仏も有り難きか能く能く意得可し云云」(法華真言勝劣事125頁)
通解:(大日経は)華厳経の場合と同様に似た文は存在するけれども、実義は無いようです。私(日蓮)の考えでは、二乗作仏(声聞・縁覚の二乗が成仏すること)の文証が無ければ、四弘誓願(菩薩が初発の心時に起こす四種の誓願、衆生無辺誓願度・煩悩無数誓願度・法門無尽誓願度・仏道無上誓願度の事で、この誓願は広大普遍なので「弘」、心に堅く誓うので「誓」、修行の結果として満足を求めるので「願」といい、全ての菩薩が起こすべき誓願なので「総願」ともいう)を満たす事はできないし、四弘誓願を満たさなければ別願も満たすことはできないのです。総別の二願を満たせなければ、衆生の成仏もありえないのでしょうか、よくよく心得るべきです。
※【仏に成る条件】法華経以外では「衆生の成仏」は無し
「仏蔵経に云く『仏一切衆生心中に皆如来有して結跏趺坐すと見そなわす』文。」(八宗違目抄157頁)
通解:仏蔵経(中国・姚秦代の鳩摩羅什訳の書で、選択諸法経・奉入竜華経ともいう)には「仏は一切衆生の心の中にそれぞれ如来が坐っておられると見る」と説かれているのです。
※【仏と衆生の関係】一切衆生の心中に「如来」座す
「『我が如く等くして異なる事無し我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ』、妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」(観心本尊抄246頁)
通解:方便品には仏が「(法華経を説いて一切衆生に即身成仏の大直道を与え、)仏と衆生とは等しくして異なることがない。仏がその昔に誓願した一切衆生を度脱せんとの誓いを今はすでに満足し、一切衆生をして皆仏道に入らしめることができた」と説かれています。妙覚(不可思議な仏の無上正覚、一切の煩悩を断じ尽くした仏果、五十二位の最高位、六即位では究竟即をいう)の釈尊は、我等の血肉であり因果の功徳は骨髄ではないでしょうか。
※【仏と衆生の関係】師は久遠元初の自受用身、衆生である弟子もまた久遠元初の自受用身として顕われ、自受用身に約し師弟不二となる