大聖人の「本尊」記述の御書 ⑮
弘安2年以降と年代不明の本尊記述御書
曾谷殿御返事(輪陀王御書) 弘安2年8月件の2か月前 58歳御作、身延から曽谷道宗(教信の子)に与えられた御消息文
法華経は五味(一切経)の正主であり、法華経の題目と諸天善神の威光勢力の関係を輪陀王と白馬の説話で教示され、唱題する者には必ず加護があると説かれている。
「れいせばもりやは日本の天神七代・地神五代が間の百八十神をあがめたてまつりて仏教をひろめずして・もとの外典となさんといのりき、聖徳太子は教主釈尊を御本尊として法華経・一切経をもんしよとして両方のせうぶありしに・ついには神はまけ仏はかたせ給いて神国はじめて仏国となりぬ、天竺・漢土の例のごとし、今此三界・皆是我有の経文あらはれさせ給うべき序なり」(曾谷殿御返事1062頁)
通解:例えば、日本に仏教が渡来した時、物部の守屋は日本の天神七代・地神五代の間の百八十神を崇めて、仏教の弘教を阻止し、外典(儒教)の国にしようと祈ったのですが、聖徳太子は教主釈尊を御本尊として、法華経や一切経を文書としました。この両者が勝負を競いましたが、最後は神が負けて仏が勝ったので、神国が初めて仏国となったのです。それはちょうどインドや中国の例と同じなのです。法華経譬喩品の「今此の三界は、皆是れ我が有なり」の経文が実現していく始まりだったのです。
寂日房御書 弘安2年9月 58歳御作 身延から寂日房日家に与えられた。
人間として生を受け御本尊を信受できたのは、過去世の深い宿縁であり、大聖人の弟子檀那になった限りは法華経を流布すべきで、必ず成仏すると励まされている。
「法華経は後生のはぢをかくす衣なり、経に云く『裸者の衣を得たるが如し』云云。
此の御本尊こそ冥途のいしやうなれ・よくよく信じ給うべし、をとこのはだへをかくさざる女あるべしや・子のさむさをあわれまざるをやあるべしや、釈迦仏・法華経はめとをやとの如くましまし候ぞ、日蓮をたすけ給う事・今生の恥をかくし給う人なり後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし」(寂日房御書903頁)
通解:法華経は後生の恥をかくす衣です。法華経薬王菩薩本事品に「裸者の衣を得たようなものである」とあります。この御本尊こそ、冥途の恥をかくす衣装なのですから、よくよく信じてください。夫の膚を隠そうとしない妻がいるでしょうか。子供の寒さをあわれと思わない親がいるでしょうか。釈迦仏・法華経は妻と親の様なものなのです。日蓮に供養し身を助けてくださる事は、私の今生の恥を隠してくださる人ですから、後生は日蓮があなたの恥をお隠しするでしょう。
上野殿母御前御返事(中陰書、四十九日御書) 弘安3年10月 59歳御作 南条時光の母に送られた御消息文
子の故・南条七郎五郎の49日(中陰)に大聖人に御供養された事に応えられ、法華経が一切経の根本である事を経文・譬喩・故事をあげて説き明かし、法華経を以て故人の冥福を祈られる事を教えられている。
「古昔輪陀王と申せし王をはしき南閻浮提の主なり、此の王はなにをか供御とし給いしと尋ぬれば・白馬のいななくを聞いて食とし給う、此の王は白馬のいななけば年も若くなり・色も盛んに・魂もいさぎよく・力もつよく・又政事も明らかなり、故に其の国には白馬を多くあつめ飼いしなり、譬えば魏王と申せし王の鶴を多くあつめ・徳宗皇帝のほたるを愛せしが如し、白馬のいななく事は又白鳥の鳴きし故なり、されば又白鳥を多く集めしなり、或時如何しけん白鳥皆うせて・白馬いななかざりしかば、大王供御たえて盛んなる花の露にしほれしが如く・満月の雲におほはれたるが如し、此の王既にかくれさせ給はんとせしかば、后・太子・大臣・一国・皆母に別れたる子の如く・皆色をうしなひて涙を袖におびたり・如何せん・如何せん、其の国に外道多し・当時の禅宗・念仏者・真言師・律僧等の如し、又仏の弟子も有り・当時の法華宗の人人の如し、中悪き事・水火なり・胡と越とに似たり、大王勅宣を下して云く、一切の外道・此の馬をいななかせば仏教を失いて一向に外道を信ぜん事・諸天の帝釈を敬うが如くならん、仏弟子此の馬を・いななかせば一切の外道の頚を切り其の所をうばひ取りて仏弟子につくべしと云云、外道も色をうしなひ・仏弟子も歎きあへり、而れども・さてはつべき事ならねば外道は先に七日を行ひき、白鳥も来らず・白馬もいななかず、後七日を仏弟子に渡して祈らせしに・馬鳴と申す小僧一人あり、諸仏の御本尊とし給う法華経を以て七日祈りしかば・白鳥壇上に飛び来る、此の鳥一声鳴きしかば・一馬・一声いななく、大王は馬の声を聞いて病の牀よりをき給う、后より始めて諸人・馬鳴に向いて礼拝をなす、白鳥・一・二・三乃至・十・百・千・出来して国中に充満せり、白馬しきりに・いななき一馬・二馬・乃至百・千の白馬いななきしかば・大王此の音を聞こし食し面貌は三十計り・心は日の如く明らかに政正直なりしかば、天より甘露ふり下り、勅風・万民をなびかして無量・百歳代を治め給いき。」(上野殿母御前御返事1571-1572頁)
通解:昔、輪陀王という王がおられ南閻浮提の主君でした。この王は何を食事の供とするかというと、白馬のいななきを聞いて食事をされていた。この王は白馬がいななくと、年も若くなり、顔色もよく、心もさわやかで、力も強く、また政治も公明正大でした。従って、その国は白馬を多く集めて飼っていました。たとえば魏王という王が鶴を多く集め、徳宗皇帝が蛍を愛した様なものです。白馬のいななくのは、また白鳥が鳴くからでした。それ故白鳥を多く集めていました。
ある時、どうした事か、白鳥が皆いなくなって白馬がいななかったので、大王は食が絶えて、盛りの花が露によって萎れる様に、満月が雲に覆われる様になったのです。この王がもはや亡くなられようとしたので、后・太子・大臣・国中の人々は皆、母と別れる子の様に、顔色を失い涙で袖を濡らすのでした「どうしたものか・どうしたものか」と。
その国に外道が多くいました。今の時代の禅宗・念仏者・真言師・律僧などの様なものです。また、仏の弟子もおり、今の法華宗の人々の様なものです。仲の悪い事は水と火の様であり胡と越との関係に似ていました。大王は勅を下して「一切の外道がこの白馬をいななかしたならば、仏教を捨てて偏に外道を信じようとする事は、諸天が帝釈を敬うのと同じである。仏弟子がこの馬をいななかしたならば、一切の外道の首を切り、その住所を奪いとって仏弟子に与えよう」と言ったのです。外道は顔色を失い仏弟子も歎き合ったのでした。しかしながら、このままで済む事ではないので、外道が先に七日間祈祷を行なったが、白鳥も来ず、白馬もいななきませんでした。後の七日間を仏弟子に与えて祈らせようとした時に、馬鳴という名の小僧が一人いて、諸仏が御本尊とされていた法華経で七日間、祈ったところ白鳥が壇上に飛来し、この鳥が一声鳴いた時に、一馬が一声いななきました。大王は馬の声を聞いて病の寝床より起きられ、后をはじめ、諸人は馬鳴に向かって礼拝をしました。白鳥は一羽・二羽・三羽、乃至十羽・百羽・千羽と出て来て国中に充満しました。白馬はしきりにいななき、一頭・二頭・乃至百頭・千頭の白馬がいなないたので、大王はこの声を聞かれて顔の相は三十歳頃の容貌になり、心は太陽の様に明らかで政冶を正しく行ったので、天から甘露が降り、王の詔は万民を従えて無量百歳の間、世を治めたのです。
是日尼御書 著作年代不明、身延の大聖人が佐渡の是日尼に与えられた書。
夫(入道)がはるばる大聖人の元に来て給仕された事を褒め、けなげな尼の信心に対して御本尊を授け激励されている。
「さどの国より此の甲州まで入道の来りたりしかば・あらふしぎとをもひしに・又今年来りなつみ水くみたきぎこりだん王の阿志仙人につかへしが・ごとくして一月に及びぬる不思議さよ、ふでをもちてつくしがたし、これひとへに又尼ぎみの御功徳なるべし、又御本尊一ふくかきてまいらせ候、霊山浄土にては・かならずゆきあひ・たてまつるべし」(是日尼御書1335頁)
通解:佐渡の国からこの甲州の身延まで、夫の入道が来られたので、実に不思議だと思っていたところ、また今年も来られて、菜を摘み、水を汲み、薪取りをして、須頭檀王が阿私仙人に仕えた様にして、一ヵ月にも及んでいるのは、何と不思議な事でしょうか。筆で書き尽くす事も難しいのです。これはひとえに、また尼君の御功徳となるでしょう。また、御本尊を一幅書いて差し上げます。霊山浄土では、必ずお逢い致しましょう。
神国王御書 著作年代、対告衆は不明。
日本の皇家と仏教の歴史を詳しく述べられ、経文に照らされた諸天の治罰の現証から仏神尊崇の在り方を教えられている。
「悦ばしいかな経文に任せて五五百歳・広宣流布をまつ・悲いかな闘諍堅固の時に当つて此の国修羅道となるべし、清盛入道と頼朝とは源平の両家・本より狗犬と猿猴とのごとし、少人・少福の頼朝をあだせしゆへに宿敵たる入道の一門ほろびし上・科なき主上の西海に沈み給いし事は不便の事なり、此れは教主釈尊・多宝・十方の諸仏の御使として世間には一分の失なき者を・一国の諸人にあだまするのみならず・両度の流罪に当てて日中に鎌倉の小路をわたす事・朝敵のごとし、其の外小菴には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎ねこぼちて・仏像・経巻を諸人にふまするのみならず・糞泥にふみ入れ・日蓮が懐中に法華経を入れまいらせて候いしを・とりいだして頭をさんざんに打ちさいなむ、此の事如何なる宿意もなし当座の科もなし、ただ法華経を弘通する計りの大科なり。」(神国王御書1525頁)(神国王御書1525頁)
通解:悦ばしい事に、日蓮は経文に任せて五五百歳・広宣流布を待つのです。悲しい事は闘諍堅固の時にあたって、日本国が修羅道と化す事なのです。清盛入道と源頼朝とは源平の両家であり、元々犬と猿の様な間柄です。位も低く徳の薄い頼朝を攻めた為に、宿敵である清盛入道の一門が滅びた上に、何の罪もない安徳天皇まで西海の檀ノ浦に沈められたのは、まことに不憫な事です。日蓮が教主釈尊・多宝仏・十方の諸仏の御使いとして、世間の罪は一分も作っていないのに、その日蓮を日本国中の人々に憎ませたばかりか、二度の流罪に処し、朝敵のように日中に鎌倉の小路を引き回したのです。そのほか、釈尊を本尊とし、一切経を安置していた小庵を打ち壊して、仏像・経巻を人々に踏みつけさせただけでなく、糞泥の中に投げ込ませ、日蓮が懐中に入れておいた法華経を取り出して、日蓮の頭を散々に打ちすえたのです。この事は、日蓮が何かの恨みを持っていたからでもなく、現在の罪の為に起きた事でもないのです。ただ法華経を弘通しただけの大科なのです。
※此処でも、本尊を「法華経」や「教主釈尊」等と定義されているものの、「楠板本尊」や「戒壇本尊」を想像させる表現は一切見受けられないのです。
結局、大聖人は、「楠板本尊」自体を御図顕されておらず、全民衆に与えられた「戒壇本尊」と称しながら、広宣流布の暁まで秘蔵させるなどの不条理は説いておられなかったのです。