観心本尊抄文段より『仏滅年紀』

 

 

日寛上人の著書、観心本尊抄文段より法華経の寿量品説法からの起算による『仏滅年紀』を紹介します。

 

問う、本尊問答抄の啓蒙に云く「諸山代代の多く仏滅後二千二百三十余年と云う。是れ元祖の本意顕れ畢る時を常規とする故なり」と云云。これ則ち弘安五年御入滅の年、正しく二千二百三十余年に当る故なり。若し爾らば弘安四年已前は宗祖の本懐未だ顕れ畢らざるや。
答う、今処々の明文に拠るに、正しく弘安元年已後を以て仏滅後二千二百三十余年というなり。故に弘安元年七月の千日尼抄二十五に云く「仏滅度後すでに二千二百三十余年になり候」と云云。また弘安元年九月の本尊問答抄に云く「仏滅後二千二百三十余年」(趣意)と云云。また第十六四条金吾抄、第十七大陣破抄、また第二十二初心成仏抄等云々。また蒙抄に云く「京の本国寺弘安元年七月の御本尊に二千二百三十余年」と云云。また上総日弁授与の弘安二年四月の御本尊に「二千二百三十余年」と云云。故に知んぬ。弘安元年已後、御本尊即ち顕れ畢ることを。
問う、弘安元年は正しく仏滅後二千二百二十七年に当る。蓮祖何ぞ三十余年というや。
答う、恐らくは深意あらんか。宗祖云く「今此の御本尊は(乃至)寿量品に説き顕し」等云云。然るに寿量品御説法の年より弘安元年に至るまで、正しく二千二百三十一年に当るなり。謂く、如来七十二歳より八箇年の間に二十八品を説く。故に知んぬ、一年に三品半を説きたまうことを。故に七十六の御歳、正しく寿量品を説くなり。而して七十七の御歳、神力品を説いて本化に付嘱して、四年後の八十歳の御入滅なり。如来の御年八十歳、御入滅の年より弘安元年に至るまで二千二百二十七年なり。これに七十六、七、八、九の四年を加うる則は二千二百三十一年と成るなり。故に寿量説法の年よりこれを数えて弘安元年に至るまで、二千二百三十余年というか。故に本尊問答抄に云く「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年」と云云。この文深くこれを思うべし。若し余文の中は多分に従う。故に仏滅後というなり。若し本尊問答抄に「説きおかせ給いて後」といい、新池(尼)抄には「寿量品に説き顕し」という、これを思い合すべし。故に弘安元年已後、究竟中の極説なり。

                 (聖教新聞社発行『日寛上人文段集』451-2頁)


現代訳:

①大聖人の「本尊問答抄」(373頁 弘安元年9月御述作)の

「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず」

の御文を受けて、

②質問します。本尊問答抄の啓蒙(作者・本文不詳)の「諸山代代の本尊の多くに仏滅後二千二百三十余年とあり、是れは宗祖日蓮大聖人の御本意が顕れた時を基準とするのです」との記述に対して、弘安五年の大聖人御入滅の年が正しく仏滅後二千二百三十余年に相当するのであれば、弘安四年已前は宗祖の本懐は未だ顕れていないのではないか。
③回答します。今、大聖人の御書にある処々の明文によると、正しく弘安元年已後を以て仏滅後二千二百三十余年とあります。 弘安元年七月の千日尼抄二十五には「仏滅度後すでに二千二百三十余年になり候」
(千日尼御前御返事1310頁)とあり、弘安元年九月の本尊問答抄には「仏滅後二千二百三十余年」(趣意)とあり、第十六四条金吾抄(四条金吾殿御返事1181頁 弘安元年9)、第十七大陣破抄(作者・本文不詳)や第二十二初心成仏抄 (法華初心成仏抄548頁 建治三年 も同じです。蒙抄に云く「京の本国寺弘安元年七月の御本尊に二千二百三十余年」(不詳)とあり、日弁授与の弘安二年四月の御本尊に「二千二百三十余年」とあります。だから理解すべきなのです。弘安元年已後の御本尊に顕れていることを。
④更に質問します。弘安元年は(
『周書異記』の紀元前949年説では)仏滅後二千二百二十七年に当りますが、どうして大聖人は「三十余年」というのでしょうか。
⑤答えます。恐らくは深い意義があるのでしょう。大聖人は「今此の御本尊は(乃至)寿量品に説き顕し」等と云っており、それに寿量品御説法の年より弘安元年に至るまでが、正しく二千二百三十一年に相当します。釈迦七十二歳より八箇年の間に二十八品を説いているので、一年に三品半を説いた事になります。だから七十六の御歳に寿量品を説いているのです。そして七十七の御歳、神力品を説いて本化の菩薩に付嘱して、四年後の八十歳に御入滅されたのです。釈迦の御年八十歳、御入滅の年より弘安元年に至るまで二千二百二十七年になります。これに七十六、七、八、九の四年を加えれば二千二百三十一年となります。故に寿量説法の年よりこれを数えて弘安元年に至るまでで二千二百三十余年というのでしょう。だからこそ、本尊問答抄に「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年」と云っているのです。この文を深く考えてください。

⑥もしそうならば、その他の文の文意は多数記載の語句『三十余年』に従わなければならないでしょう。故に「仏滅後二千二百三十余年」というのです。もしそうならば、本尊問答抄に「説きおかせ給いて後」とあり、新池(尼)抄に「寿量品に説き顕し」とありますが、これを考察してみてください。だから、弘安元年已後の「仏滅後二千二百三十余年」が「究竟中の極説」なのです。



上記の文で、日寛上人が、弘安元年已後は「二千二百三十余年」が「究竟中の極説なり」と述べておられる事から、日興上人の「御本尊七箇相承」(富要集132頁)中の「仏滅度後二千二百三十余年」書写説の理論的根拠となっている事は明らかです。

然しながら、弘安二年御図顕とされる「楠板本尊」は、仏滅後二千二百二十余年」となっています。

結局、日寛上人御自身は「楠板本尊」が秘蔵の為に真面に見ておられないか、「楠板本尊」の仏滅年紀が変更されているか、のどちらかなのでしょうね。

 

 

 

 

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