真実の宗門史を紹介します。

 

日顕相承に関する山崎証言

 日顕の相承疑惑に火をつけた張本人が山崎正友である事は周知の事実である。山崎は週刊誌等を使い、反日顕のキャンペーンを張った。

『週刊文春』昭和551120日号
「近年では御相伝のことは、後世に疑いを残さぬために明確かつ公然と行なわれている。もし日達上人が御在世中にそのことを行なわれていたならば、必ず公表されておられるはずである。(中略)日達上人は、事実上の〝指名〟なり、心づもりなりを周囲の人人に話されたことはあるが、〝御相伝〟そのものは、なされていた形が、どこにも見当らない。見た人は、だれもいなかった」

正信会が〃阿部は相承を受けていない〃と騒ぎたてた背景には、この山崎の証言があった。さらに山崎は相承疑惑の決定的な証拠として以下の様な事実を暴露した。

『諸君!』昭和582月号
「亡くなられる前夜、日達上人は、翌日、東京の病院へ移ることをすすめる私に対して、次のようにいわれました。『相当長くなるだろうなあ。そうであれば一度山へかえって、大事のことをしておかなくては。とにかく、明日だけは山へかえる。(側にいた僧侶に)対面所に布団をひいておいてくれ!慈雲はいるか!(菅野慈雲師に向って)今日は、東京へ帰るのか。明日一番で必ずこいよ。』(中略)私には、日達上人の言葉の重大性が、このときわかりませんでした。あとできけば、〝お大事〟といえば、〝御相伝〟のことを指すとのことでした」

山崎は更に詳しい内容を正信会の会合で述べている。

『広布の道』昭和589月号(四国正信連合会第二回総会)
「しかしそういう長期に渡る入院と云う事であればどうしても遣っておかなければならん事がある。(中略)明日こいよ。お前必ずこいよ。明日こうだ、と何人かの御僧侶にお話なされておりました。その中に阿部師の名前は出ておりませんでした」

山崎はここではっきりと「阿部師の名前は出ておりませんでした」と言っていたが、平成15年になって、いとも簡単にこの証言を覆すのである。「悪行猶以て飽き足らず」。懲りない頭破作七分な二人である。 

 

 

まず、山崎と日顕の関係を簡単に見てみよう。

昭和549月、日顕は山崎に面と向かって、「貴方は大嘘つきである」と言った。山崎は頭に血が上り、当時、行動を共にしていた浜中和道に「ともかく俺は、あの野郎のきのう言ったことを絶対に死ぬまで忘れないよ。あの野郎を必ずブチ殺してやるよ。絶対に仕返しするよ。今に見ていろってんだ」(『浜中和道回想録』)と怒りをぶちまけた。

そこから、山崎の日顕攻撃が始まった。

ところが、日顕は「C作戦」の実行にあたり、山崎に助けを求めた。当時、海外部書記だった福田を通して「あの時はウソつきと言って悪かった。かんべんして下さい」と詫びをいれたのである。


その結果、山崎は日顕の相承を認めることにしたのだ。山崎はそのことを平成3222日に浜中に話している、

「これは和道さんだから言うけどね。実はね、僕は阿部さんの血脈相承を認めちゃったんだよ(中略)阿部さんは素直に『俺が悪かった。池田に騙されていた』って、僕に謝って、『正信会に悪いことをした』って言ってきたんですよ。だから僕も阿部さんを許す気になったんですよ。そしたらね、阿部さんから、『頼むから、俺に血脈相承があったってことを認めてくれ』って言ってきたんだよ」 (『浜中和道回想録』)

この話からすると、日顕は山崎に「頼むから、俺に血脈相承があったってことを認めてくれ」と頭を下げた事になる。そして、山崎は日顕に相承が無かった事を知りながら、学会攻撃の戦略の一環として日顕に相承があったと認めた事になるのだ。
かつて自分の相承を否定していた相手に頭を下げて認めて貰った「相承」とは一体、何だろうか。所詮、狐と狸の化かし合いの材料でしかない。

 

日達法主が亡くなる直前に本山に来る様に指示した僧侶の中に「阿部師の名前は出ておりませんでした」と証言していた山崎が、日顕に擦り寄って全く正反対の証言を始めた。

『慧妙』(平成1591日付)
「そして、大宣寺さんやお仲居さん(
現在の妙縁寺・光久御住職)に、翌日・22日は御山にいるよう、仰せられました。私はその夜、猊下の御健康上の重大な事柄ですから、いちおう総監さん(現・阿部日顕上人)には転院する経過をきちんと報告しておこう、と思って、お電話したんです。その時に、総監さんは『そうですか。どうもご苦労様です。私も明日、猊下から御山へ来るように言われています』と、おっしゃっていました」

山崎は平成612月に本山・理境坊の壇徒となった。そして、翌7216日付け『慧妙』に「私が〝御相承〟を拝信するに至るまで」という勿体ぶった題名の文章を寄せている。 ここで不可解な事は、〃日顕も本山に呼ばれていた〃という重要な証言が、『慧妙』に載ったのが、平成15年の事である。最初の山崎の文章が掲載されてから、実に9年あまりの空白があるのだ。

山崎は平成3225日に収監され、平成5427日に仮出獄するが、その翌月から日顕に「密書」を送っている。問題はその内容である。この「密書」の中で山崎は自分が週刊誌に書いた記事について以下の様に、日顕に脅しをかけている。

「書いた内容は、調査で判明した亊実の四割にすぎません。残りは、反論や、名誉毀損の訴えがあった時にそなえ、手の内にとっておいたのです」「私の書いた手記は、簡単に、抽象的な否定行為で消せるような内容のものではありません。仮に私がそれをすれば、正信会サイドから、私の裏切りに対する非難だけでなく、残りの六割の資料によるきびしい反論が行われるでしょう。内藤国夫や文春は、その際、正信会サイドの肩を持ち、宗門と学会の紛争は脇に追いやられ、御相承問題がむしかえされて、学会を利するだけの結果を招きかねません」

間違いなく、山崎は昔の屈辱を忘れていない。だから、自分が優位に立つために、日顕に脅しをかけ、9年間に亘って、日顕を揺さぶり続けたのであろう。「修羅と悪竜と合戦ひまなし」である。 


日達法主が亡くなって24年後に初めて出てきた、『慧妙』(平成1591日付)の新事実を信用する者が果たして宗内にいるのであろうか。
重体にあった日達法主が直接、日顕に電話したとは考えにくい。では誰が日顕に電話をしたのか? 菅野か、それとも光久か? 二人は知らなかったのか、知っていて隠していたのか?
もし、本当に日顕がその時に本山に呼ばれていたのなら、とっくの昔にこの事実が明るみになっていただろう。それが、何故、24年間も秘密にされていたのか。しかも、その様な重大な事実が宗内僧侶からではなく、在家から明かされたのだ。これが相承の証人とは、日顕宗の相承とは、とんだ茶番劇である。 山崎と日顕の間にどんな取引があったのかはわからないが、この山崎の証言は日顕と共謀して作られた事だけは確かである。つまり、日顕も口裏を合わせているという事だ。

日達法主が最後に本山に呼んだのは、菅野と光久である事は、何度も話題になっており、日顕に相承が無かったことの有力な傍証になっている事は誰の目にも明らかであった。
ところが、山崎が証言するまでの24年間、日顕自身はおろか、誰一人も〃日顕が呼ばれていた〃とは証言していないのである。日顕の「相承」とは、山崎の証言一つで、有ったり、無かったりするものなのか。 逆に考えると、日顕はそこまで相承問題で苦しんでいたという事だ。「日記」も「相承箱」も出せない、何も物的証拠がない。

 

日顕が表に出せる唯一の証拠が山崎の証言なのである。



 

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