上野・南条一族の分断
富要集の文中で、振り仮名部分のカタカナ表記箇所は、ひらがな表記に改め、振り仮名自体は原文通りとし、ひらがなをカッコ内で漢字に補正されている場合は、補正された漢字だけで記載します。
南条兵衛七郎が日蓮大聖人に帰依され、一族に法華宗が広まったのですが、日道上人の代に土地問題を機に分かれてしまったのです。
※上記系図については、新しい情報の元に作成しましたが、まだまだ不正確だろうと思っています。
日享上人の解説:日目上人天奏の途上垂井の遷化は大石に多大の不祥を発し法運壅塞の原由となれり、時に大石の西大坊に主職する日道と東坊蓮蔵坊に住する日郷との間に宗義の諍ひ起り東坊中の一二此に左袒したるより大衆の為に擯出せられ、房州の旧地に去るに至れり、此を以つて日郷は南条の宗家たりし時綱に乞ふて東坊地一帯の寄進を受け又其嬰児牛王丸を其後董として互に結托し、事を官憲に訴へて進出し東御堂を作りて西大坊と拮抗せり、此より以後或は地頭或は守護或は管領と官憲を煩して東坊地の出入諍論七十年に亘りて事遂に西大坊の理運に帰せり、固より大坊の位置は初より此渦中に入らず安全たりしなり、茲に於いて東坊の数輩は退去して房州等に行き、又小泉に小地を卜して永遠に郷門の本山と定め代官を配して房州にて之を管せり(以下、略)(富要集 9巻 史料類聚2 35-6頁)
※いわゆる「道・郷問題」も日享上人は大石寺側の解説であり、日享上人自身も「牛王丸との結託」と、大石寺側の正当性を言わんとしています。
★大石寺東坊出入七十二年間の相方の古文書
日享上人の解説:祖滅五十六年より伝来する所の正本副本古写等現存するもの、例に依つて受動側には僅少にして能動側には二十八通の多きに及ぶ、今年代順に排列して事件の変転を見、兼ねて後世悪感情の為に歪曲せられたる宗史を清めんとするなり(富要集 9巻 史料類聚2 36頁)
※日本中世において、訴訟で争う事を相論といい、土地を親族に譲る際に書かれる譲状には、後に所領をめぐって相論が起こる事を防ぐために、調誡文書が書かれる事もあります。
★南条五郎左衛門平の時綱(大行の五男)の寄進状
日享上人の解説:正本妙本寺に在り。宰相阿闍梨郷師は南条の宗家に運動して時綱の子牛王丸を後董とするの条件にてか大石の東坊即ち蓮蔵坊以南の地を譲り受けて此を根拠として事件は二転三転せり。(富要集 9巻「第四章 石泉の離反」史料類聚2 37頁)
本文:
「大石寺の東方は、時綱が所領なるあいだ、残る所なく、宰相の阿闍梨の御房に、寄進仕る処なり、依て後のために、寄進の状件の如し。
建武五年五月五日 平の時綱在り判。
宰相の阿闍梨の御房。」 (富要集 9巻 史料類聚2 37頁)
★同上誡めの状
日享上人の解説:四郎左衛門尉時長は時綱の惣領にして牛王丸の兄なり、此正本妙本寺に在り。(富要集 9巻「第四章 石泉の離反」史料類聚2 37頁)
本文:
「大石寺の東方は、一円に宰相の阿闍梨の御坊の御謀いとして全く時綱が子孫妨げ申すべからず、もし此の誡めを背かん子孫は、不孝の仁たるべく候、後のために、状件の如し。
暦応二年二月十五日 時綱在り判。
南条四郎左衛門尉、宰相阿闍梨の御坊。」 (富要集 9巻 史料類聚2 37頁)
★南条四郎左衛門時長の証状
日享上人の解説:正本存在せず反故裏書に古本あり、東大門は東方とも同義にして故入道は時綱であり安房の坊主は日郷にして当時未だ東坊に常住し得ざりしなり。(富要集 9巻「第四章 石泉の離反」史料類聚2 37-8頁)
本文:
「一、 大石寺の東大門は故入道の寄進の如く相違有るべからず候、恐惶謹言。
暦応四年三月十八日 時長判。
安房の坊主御返事。」 (富要集 9巻 史料類聚2 38頁)
★日郷より大衆に大石寺東御堂並に坊地の譲状
日享上人の見解解説:大石東御堂の附属状、東坊地の出入日郷生前に埒明かざるを以て惣衆に附属したるなり、時代及び正本在所上に同じ(祖滅72年、妙本寺)。」(富要集 8巻 史料類聚1 73頁)
本文:
「駿河の国富士の上方の内上野の郷大石寺東御堂並に坊地の事
日郷円寂の後は惣物として衆徒等各花香を備へ勤行を致すべき者なり、若し此の旨に背くの輩に於いて門弟たるべからざるの状件の如し。
文和二年卯月八日 日郷在り判。」(富要集 8巻 史料類聚1 73頁)
※寄進状は、社寺に金品等を寄付する事を書いた証文で、譲状は、土地等の財産に関する権利を譲り渡す旨を書いた証文の事です。日郷上人は、大石寺区域内に在る南条時綱の領地・東坊及び蓮蔵坊を、南条時綱より譲り受けており、妙本寺に数々の証文が遺されています。
★興津法西より日行へ大石寺御堂並に東西坊中共に去り渡す状
日享上人の見解解説:正本大石寺に在り、本件に付いては石山に始めて見る官憲文書なり、先代日道上人は事件後七年、日郷党更に蓮蔵坊に復帰して東御堂を建つるより二、三年目に迁化せられ予定の如く宮内卿阿闍梨日行其跡を継いで以つて、当時国主今川家の河東の代官興津法西入道に依りて日郷党を擯出すべき証状を得たるなり。(富要集 9巻「第四章 石泉の離反」史料類聚2 38頁)
本文:
「去り渡し申す大石寺の事。
右の所は上野郷の内にて法西が知行分たりと雖も先師の相継に任せ、本主寄進の如く御堂並に西東坊中相共に卿阿闍梨日行へ去り渡す所なり、法西が子孫に於いて違乱妨げすべからず、依つて後日の為去り状件の如し。
貞治四年十一月十三日 沙弥法西在り判。」(富要集 9巻 資料類従2 38-9頁)貞治4年は1335年
★今川氏家状
日享上人の解説:当時の写し妙本寺に在り、氏家は心音の孫中務大輔にて泰範の兄なり、当時今川家は駿州志太郎花倉に在り、小泉党にては大石寺より興津地頭へ策動ありと見て直に遠路花倉(藤枝の北)に馳せ興津を制圧すべく運動して功を奏し大石の希望を停止したるものと見ゆ、猶各文書に見ゆる今川国主の人名及び被官の人名職掌に不明の者多く又文書に疑ひあるものあれども未だ検討の余力なし、偏に後賢を俟つ。(富要集 9巻「第四章 石泉の離版反」資料類従2 39頁)
本文:
「上野郷の内大石寺の事、中納言律師申す旨候か、相違無き様御斗らい候はば為悦候、恐々謹言。
(貞治四年)十二月廿九日 氏家御判。
興津美作入道殿。」 (富要集 9巻 資料類従2 39頁)
★興津法西入道より日賢へ返付の状
日享上人の解説:正本及び当時の写本反故裏も共に妙本寺にあり、日郷の補処牛王丸は成人して中納言公と称し日賢と号し律師に任官し法印に転位せり、此の官僧は大に宗祖開山の御意に背くものなれども時勢官憲を動かす必要のものなりしなり、日賢後に日伝と改め応永廿三年七十七歳にて迁化すと云ふに依れば正に事件発生の頃に生まれたるものにて、日伝の一生中に終りしなり、此を以て小泉党にては日郷日伝の二代に亘り大石にては日道日行日時と三代を経たるなり。(富要集 9巻「第四章 石泉の離反」史料類聚2 39頁)
本文:
「駿河の国富士の上方の内上野の郷大石寺東御堂並に坊地の事
先例に任せ地頭時綱寄進状並に師匠日郷置文以下証文等の旨により、宮内卿阿闍梨日行の競望を止め、元の如く中納言阿闍梨日賢に返付申し了んぬ、仍て先例を守り勤行せらるべきの状、件の如し。
貞治五年九月十七日 沙弥法西判。」(富要集 9巻 史料類聚2 39頁)1貞治5年は1336年
★牛王丸に附属状
日享上人の解説:南条時綱の子にして幼少の附弟日伝に妙本寺等を附属する状、時代及び正本在所上に同じ(祖滅72年、妙本寺)
本文:
「譲り渡す安房の国北郡法華宗の事。
南条牛王丸出家して以後導師の益(役)を勤行せしむべき者なり。
右謹んで先師の制誡を勘ふるに併ら爾前迹門の謗法を対治し法華本門の正法を建立せよと云云、所詮修学の功労を積集して法華の導師と為るべきの状件の如し。
文和二年癸巳卯月八日 日郷在り判。」(富要集 8巻 史料類聚1 72頁)
★妙本寺暫時の附属状
日享上人の解説:附弟牛王丸出家するまでは其後見役たる山城房日明に附属の状、時代及び正本在所上に同じ(祖滅72年、妙本寺)
本文:
「日郷円寂以後七箇年間、山城房は北郡吉浜村の内中谷法華堂の坊主職として香華灯明種々の供養懇懃に勤修申すべし、七箇年以後は南条牛王丸を出家せしめ坊主職として法華の行功を積み仏果の深底を酌むべきの状件の如し。
文和二年癸巳卯月八日 日郷在り判。」(富要集 8巻 史料類聚1 73頁)
◎本騒動は、日伝上人(牛王丸、日賢)の父・時綱、兄・時長の古文書等、妙本寺側に揃っており、その為に問題を長期化させたものと思われます。
