大石寺の三つの重宝

 

 

富士大石寺には、日蓮大聖人の御影、御下し文及び園城寺申状と、三つの重宝があって、来るべき時に、日興上人の仰せの通り、大切に本門寺本堂に納めるべき、と記述されています。

 

 

1.

誡めの状、祖滅五十二年、富士の長老日目日仙日善三師の置文にして正本二通総本山にあり入文は「為失」と「失たらん」との異のみ、但し日善の筆か。(下記誡めの状に対する日亨上人の紹介文、富要集8巻史料類聚18頁)

 

「日興上人御遺跡の事。

日蓮聖人の御影並に御下し文、園城寺申状。

上野六人老僧の方巡に守護し奉るべし、但し本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし、此の条・日興上人の仰に依って支配し奉る事・此の如し、此の旨に背き異議を成し失たらん輩は永く大謗法たるべきなり、誡めの状件の如し。

 正慶二年癸酉二月十三日  日善在り判 日仙在り判 日目在り判」

(1333年作成か、正本二通大石寺に所蔵、富要集8巻史料類聚18頁)

現代語訳:日蓮大聖人の御影(像)、御下文(天皇からの上意下達の文書)及び園城寺申状(天皇への諌暁書、天皇が園城寺の碩学達に内容を検討させたのでこう呼ばれる)上野の六人の老僧が順番に巡回し、守護してください。但し本門寺を建立した時は、本堂に奉納してください。この文書は、日興上人の仰せに依ってこの様に手配したのです。この主旨に背いて異議を申し立てたり失った者は、永遠に大謗法なのです。これが誡め文書です。

 

 

2.

日助置文、祖滅七十五年、日助は日代の俗姪にして東光寺の祖なり、此写本の一紙片西山に在りと雖も未だ研究せられたる事なし、文章に於ても史実に於ても、但し前半は史実にして日目違背より下は研鑽すべき事なり、曾て之を諸書に発表したりしも今故に之を掲ぐ。

(下記の日助置文に対する日亨上人の紹介文、富要集8巻史料類聚167頁)

 

日助置文

「日蓮聖人の御影並びに御下し文、又園城寺申状の事。

此の三の重宝は故上の御遺言に依り上野老僧日目、日仙、日善三人大石寺に於て三十日を十日番に守護し奉る処、日目は古上の置状に違背し日仙は天目一同の義なり、仍て日善一人許さるべき由衆檀評定し了ぬ、其後日善の計ひとして上野の惣領南条五郎左衛門尉に之を預け置き畢ぬ、其の預り状歴然なり、之に依て日蓮聖人御影像計り之を取り了ぬ、絶工の重宝は時長取り籠めて之を出さず、今国方沙汰に及び残らず之を取り本門寺の重宝たるべきなり、仍て存知の為に置き状件の如し。

 延文元年十月七日    日助在り判」

(1356年作成か、西山本門寺中古の写本、富要集8巻史料類聚167-8頁)

現代語訳:この日蓮大聖人の御影並びに御下し文及び又園城寺申状の三つの重宝は、故日興上人の御遺言によって上野の老僧の日目、日仙、日善の三人が大石寺において、三十日を十日毎に守護し奉るのですが、日目上人は古上(故・日興上人)の置状に違背し日仙上人は天目と同一の義なり、だから日善上人一人だけが許されると民衆・檀那が評定して終わった。その後、日善上人の判断として上野の総領の南条五郎左衛門尉に之(三重宝)を預け置きました。その預り状は疑いようがなく明白である。これによって日蓮大聖人の御影像だけを之を取り了ぬ、絶工の重宝は南条時長が取り籠めて之を出していない。今、国とか地方で評判になっているので、残らずこれを取り出して本門寺の重宝とするべきです。従って知らせる為に、置き状をこの様にしました。

 

 

3.      

一、園城寺申状及び御下し文。

(堀日享上人の文)大聖人の代官として日目上人始めて天奏を遂げたり、此れを富士の眉目として誇りたるも今や正本写本共に逸して空篋を西山に存するのみ。嗚呼悼ましいかな。(中略)

 

(同上)総本山に在る日興跡条々の事。(富要集8巻史料類聚329頁)

○日興が身に当て給はる所の弘安二年の大御本尊並に弘安五年二月廿九日の御下し文○。

○弘安八年より元徳四年に至る五十年の間奏聞の功他に異なるに依つて此の如く書き置く所なり○。

                                                                                      

(同上、総本山に在る日興上人御遺跡の事)。

日蓮聖人の御影並に御下し文園城寺申状、上野六人老僧の方巡に守護し奉るべし○。

 

(同上、西山に写本有る日助の置文)。

日蓮聖人の御影並に御下し文、又園城寺申状の事○。

 編者(堀日亨上人)云く具文は第二僧俗譲状の下に在り、此の三重宝大石寺より転じて時の南条宗家に保管せられたるが、此の時綱時長の父子代共に大石寺の導師の敵となりて終る所明ならず、又従つて開山滅後廿四年を経過せる此置文の時は日助の手に御影のみ収納して申状御下文は其儘南条家に在りて引渡を肯ぜざれば、国主に訴へて其権力を借りても僧衆へ回収すべしとの此の置文の意なるが、其儘南条時長一家の没落と共に紛失したりしや又は一度取りかへしての後西山本門寺にて紛失したりしやを知らず、但し此より百二十余年後の妙本寺日要の談には東台谷戸(東光寺か)に在りと云へば若し此談を正とせば日助系の西山徒の責に係るなり、偏に後賢の研究を仰ぐ。

(以上、富要集8巻史料類聚329-30頁)

 

 

本尊問答抄日要談日杲聞書の奥、祖滅二百年頃、写本妙本寺に在り。

○大石寺の三箇の大事とは、一御影像、二薗城寺申状、一御下し文なり、今は東台がいと(谷戸)(今の東光寺か)に之有り。(富要集8巻史料類聚330頁)

(確認されていない)

 

 

※堀日享上人編集の「富士宗学要集(略して「富要集」)」より、「大石寺の3つの重宝」に関する箇所を提示しました。富士興門派の関係者ならば、理解が容易なのでしょうが、我々には少し難解でした。大聖人の御影、御下し文、園城寺申状は、「大石寺の三箇の重宝」と指定され、古文書によく登場していましたが、今大石寺では、遺失してしまった様です。弘安二年の大御本尊とは、おそらく弘安二年に日目上人に授与された萬年救護の大御本尊の事でしょう。ところが、大聖人真筆とされ戒壇本尊と称する「楠板本尊」の記録は全く見当たりませんので、日興上人の弟子の本六・新六の時代には、まだ建造されていなかったのですね。

 

 

 

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