師匠と我らとの関係 19(池上兄弟に宛てた御抄)

 

 

「池上兄弟に宛てた御抄」における弟子との関係 

 

 

池上兄弟とは、現在の東京都大田区池上に居住した、池上右衛門大夫宗仲(豈)と池上兵衛志宗長(弟)のことで、父は作事奉行・池上左衛門大夫康光です。建長8(1256)年頃、相次いで大聖人の門下となったが、父が念仏の強信者であった為に、文永12(1275)年と健治3(1277)年の2度、兄が勘当となり、大聖人は兄弟に「兄弟抄」をはじめ多くの御抄を贈り、兄弟揃って信仰を貫く様に指導されています。ついに弘安元(1278)年に、兄弟は父を妙法に帰依させ、「孝子御書」を賜っています。

 

 

「この法華経は、一切の諸仏の眼目、教主釈尊の本師なり。一字一点もすつる人あれば、千万の父母を殺せる罪にもすぎ、十方の仏の身より血を出だす罪にもこえて候いけるゆえに、三・五の塵点をば経候いけるなり。この法華経はさておきたてまつりぬ。またこの経を経のごとくにとく人に値うことが難きにて候。たとい一眼の亀は浮き木には値うとも、はちすのいとをもって須弥山をば虚空にかくとも、法華経を経のごとく説く人にあいがたし。」(兄弟抄 新1470頁・全1080頁)健治2年4月 55歳御作

現代語訳:この法華経は一切の諸仏の眼目であり、教主釈尊の本師なのです。(従ってこの法華経の)一字一点でも捨てる人がいれば、その人は千万の父母を殺した罪よりも重罪であり、十方の仏の身から血を出す罪にも超えているので、三千塵点劫、五百塵点劫もの長い間、(悪道に落ちて)過ごしたのです。この法華経については、しばらく置きます。またこの経を経文の様に説く人に値うことは難しいのです。たとえ一眼の亀が栴檀の浮木には値うことがあっても、蓮の糸で須弥山を虚空に懸けることができても、法華経を経文の様に説く人には値い難いのです。

※本抄は、初めて父親から勘当された兄・宗仲に、諸経の中で法華経が第一であり、この経を説く人に出逢う事の難しさを明かされています。

 

 

「ごうじょうにはがみをして、たゆむ心なかれ。例せば、日蓮が平左衛門尉がもとにてうちふるまいいいしがごとく、すこしもへる心なかれ。(中略)なにとなくとも一度の死は一定なり。いろばしあしくて人にわらわれさせ給うなよ。」(兄弟抄 新1475頁・全1084頁)

現代語訳:(あなた方は)信心強盛に歯をくいしばって難に耐え、たゆむ心があってはなりません。例えば日蓮が平左衛門尉の所で、堂々と振舞い、言い切ったように、少しも畏れるような心があってはならないのです。(中略)これということが無くても、一度は死ぬことは、しかと定まっているのです。従って、卑怯な態度をとって、人に笑われてはなりません。

※大聖人は、池上兄弟に、信心強盛に堂々と振る舞う事を御教示されていますね。

 

 

「賢王のなかにも兄弟おだやかならぬれいもあるぞかし。いかなるちぎりにて兄弟かくはおわするぞ。浄蔵・浄眼の二人の太子の生まれかわりておわするか、薬王・薬上の二人か。大夫志殿の御おやの御勘気はうけたまわりしかども、ひょうえの志殿のことは今度はよもあににはつかせ給わじ。さるにては、いよいよ大夫志殿のおやの御不審は、おぼろけにてはゆりじなんどおもいて候えば、このわらわ〈鶴王〉の申し候はまことにてや。「御同心」と申し候えば、あまりのふしぎさに別の御文をまいらせ候。未来までのものがたり、なに事かこれにすぎ候べき。」(兄弟抄 新1477頁・全1086頁)

現代語訳:賢王の中でも、兄弟の仲が穏かでない例もあります。どの様な契によって、あなた方兄弟はこの様に仲が良いのでしょうか。淨蔵・浄眼の二人の太子の生まれ変わりなのでしょうか。それとも薬王・薬上の二人の生まれ変わりなのでしょうか。大夫志殿が父親の勘当を受けられたけれども、兵衛志殿の事では、今度はよもや兄の側に付かれないでしょう。そうであれば、ますます大夫志殿に対する父上の不審は強くなって並み大抵のことでは勘当を許されないだろうと思っていましたが、この鶴王という童子が言っていたことは本当でしょうか。兵衛志殿も兄と同じく信心を貫く決意であるというので、あまりの不思議さに(感嘆し)、別のお手紙を差し上げました。兄弟二人の信心は未来までの物語として、これ以上の事は無いでしょう。

※兄弟仲が良く、勘当された兄側に付いて弟も信心を貫き通すとの決意を知り、大聖人は安心されていますね。

 

 

「第五の巻に云わく『行解既に勤めぬれば、三障四魔、紛然として競い起こる乃至随うべからず、畏るべからず。これに随えば、人を将いて悪道に向かわしむ。これを畏るれば、正法を修することを妨ぐ』等云々。この釈は、日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。」(兄弟抄 新1479頁・全1087頁)

現代語訳:天台大師の摩訶止観の第五の巻には「修行が進み、仏法の理解が進んでくれば、三障四魔が入り乱れて競い起こる。(中略)だがこれに随ってはならないし畏れてもいけない。これに随えば、まさに人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」等と説かれています。この解釈は、日蓮の身に当てはまるばかりでなく、門家一同の明鏡なのです。謹んで習い伝えて、未来にわたる信心修行の糧とすべきです。

※私達も「信心強盛・成仏真近になれば、三障四魔競い起こる」ことを肝に銘じて、覚悟しましよう。

 

 

「しおのひるとみつと、月の出ずるといると、夏と秋と、冬と春とのさかいには、必ず相違することあり。凡夫の仏になる、またかくのごとし。必ず三障四魔と申す障りいできたれば、賢者はよろこび愚者は退く、これなり。このことは、わざとも申し、またびんぎにとおもいつるに、御使いにありがたし。堕ち給うならば、よもこの御使いはあらじとおもい候えば、もしやと申すなり。

 仏になり候ことは、この須弥山にはりをたてて、彼の須弥山よりいとをはなちて、そのいとのすぐにわたりてはりのあなに入るよりもかたし。いおうや、さかさまに大風のふきむかえたらんは、いよいよかたきことぞかし。」(兵衛志殿御返事 新1488頁・全1091-2頁)健治3年 56歳御作

現代語訳:潮が干る時と満つる時と、月の出る時と入る時、また、夏から秋・冬から春へと四季が変わる時には、必ず普段と異なる事があります。凡夫が仏に成る時もまた同じです。即ち、仏に成る時は、必ず三障四魔という障害が出て来て、賢者は喜び、愚者はひるんで退くのです。この事は、こちらから使いを立ててでも言ってあげたいと思い、またついでがあればと思っていたところにお使いを下さりありがたく思います。あなたが退転されるのであれば、よもやこのお使いがある訳はないと思いますので、もしかしたらあなたも信心を全うできるかもしれないと思っているのです。仏に成る事は、(かりに並び立つ二つの須弥山があるとして、)こちらの須弥山に針を立てて、あちらの須弥山より糸を放って、その糸が直に渡って針の穴に入るよりも難しいのです。ましてや、逆向きに大風が吹いて来たならば、いよいよ難しいです。

※此処では、兄よりも信心が弱い弟の宗長に対して、大聖人は厳しい御指導をされています。

 

 

「我が法華経も本迹和合して利益を無量にあらわす。各々二人、またかくのごとし。二人同心して大御所・守殿・法華堂・八幡等、つくりまいらせ給うならば、これは法華経の御利生とおもわせ給わざるべき。二人一同の儀は、車の二つのわのごとし、鳥の二つの羽のごとし。たとい妻子等の中のたがわせ給うとも、二人の御中、不和なるべからず。恐れ候えども、日蓮をたいとしとおもいあわせ給え。もし中不和にならせ給うならば、二人の冥加いかんがあるべかるらめと思しめせ。あなかしこ、あなかしこ。各々みわきかたきもたせ給いたる人々なり。内より論出で来らば、鷸蚌の相扼ぐも漁夫のおそれ有るべし。南無妙法蓮華経と御唱え、つつしむべし、つつしむべし。」(兵衛志殿御返事 新1503頁・全1108頁)弘安3年11月 59歳御作

現代語訳:私が読む法華経も本門と迹門とが和合して功徳を無量に顕わすのです。あなた方二人(宗仲・宗長兄弟)もまた同様です。兄弟二人が心を合わせて大御所・守殿(北条時宗の館)・法華堂・八幡宮等を造営せられたならば、これは法華経(御本尊)の大功徳だと思っていきなさい。あなた方兄弟二人が団結した姿は、ちょうど車の両輪の如く、また鳥の二つの翼の様なものです。たとえ、あなた方の妻子同士が仲違いがあっても、兄弟二人の仲は、不和になってはいけません。僭越ですが、日蓮を尊敬し互いに心を合わせていきなさい。もし、兄弟の仲が不和になったならば、二人に対する御本尊の冥々の加護がどの様になるかと考えていきなさい。ああもったいないです。あなた方は(法華経信仰の為に)はっきりとした敵をもつ身です。内輪から論争を起したりしては、鷸蚌が争いあって共に漁夫に捕えられてしまう恐れが有るでしょう。南無妙法蓮華経と題目を唱え、用心していきなさい、(重ねて)用心していきなさい。

※本抄の副題は、「兄弟同心の事」とあり、大聖人は、題目根本に兄弟が団結する事を願われています。

 

 

「貴辺と大夫志の御事は、代末法に入って生を辺土にうけ法華の大法を御信用候えば、悪鬼定めて国主と父母等の御身に入りかわり怨をなさんこと、疑いなかるべきところに、案にたがうことなく、親父より度々の御かんどうをこうぼらせ給いしかども、兄弟ともに浄蔵・浄眼の後身か、はたまた薬王・薬上の御計らいかのゆえに、ついに事ゆえなく親父の御かんきをゆりさせ給いて、前に立てまいらせし御孝養、心にまかせさせ給いぬるは、あに孝子にあらずや。定めて天よりも悦びをあたえ、法華経・十羅刹も御納受あるべし。」(孝子御書 新1499頁・全1100頁)弘安2年2月 58歳御作

現代語訳:あなたと大夫志殿の事は、世は末法に入って、しかも生を辺国日本に受け、法華の大法即ち御本尊を信心されたのですから、悪鬼が必ず国主と父母等の身に入り代わって、あなたがた兄弟に怨をなす事は疑いなかったが、案に相違することなく、親父さんより数度の御勘当を蒙ったけれども、兄弟ともに妙荘厳王を仏法に帰依させた浄蔵・浄眼の後身か、あるいはまた薬王菩薩・薬上菩薩の御計らいによるのでしょうか、ついに無事に親父さんの御勘気も許されて、以前に尽くしていた様に御孝養心にまかせて、親父さんに尽くす事ができたのは、真実の孝子ではないでしょうか。必ずや諸天も喜びを与え、御本尊もその志を納受されるでしょう。

※兄弟は共に信心を貫いた結果、ついに父を入信させる事ができたのです。

 

 

◎著者も信心に猛反対していた養父が、創価学会の入会までは実現しませんでしたが、亡くなる数か月前には題目を唱えるまでに変わった事が思い出されます(拙体験談「出会いと結婚」)。肉親を説得するには、自身の日頃の振る舞いが大切ですね。

 

 

 

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