甘いものは嫌いなのに栄誠堂のこのいちご大福は大好物なのです。
秋の虎屋の栗蒸し羊羹と春のいちご大福はそれはもう幸福のコンボなのです。
さらに武甲の山シューもお気に入りで珈琲のお伴になんていつも言うものだから私が大の甘党と勘違いしたり、虎屋の羊羮が好物と勘違いした営業が進物に持ってきたり差し入れに持ってくる人がいますが、この季節にしか現れない名物の菓子の絶妙さとその季節に味わう意味を知る人、はたまたそんな季節感を大事に生きている人は少ないのです。
だから日々忙しい営業は虎屋の栗蒸し羊羹が好きという情報もただのブランド老舗好きと軽んじて高いギフトセットを持ってきてどうだとばかりの営業をかけてきたりしますが、全然解ってないねと言う残念な気持ちにさせられます。
こういったことをこう細かく書いても解りますとうなずく人は少なく、世の中そうなんだなあという気持ちにさせられます。
昔当家が檀家のお寺の住職が法話をして毎日朝、寺の門前で掃除をして道行く人に挨拶する何げないことが世の中のためになっている。人のためにしてるという気持ちでなく、ただやることが大切だと言っていました。
これは漠然として当時はなんのことと思って聞きましたがそのお寺の住職が私と同級生に継がれ、やがて素行が悪いとお寺替えになり新しい住職がやってきて檀家衆の評判も前の住職と違ってという評判やら噂をよく聞くようになりました。
こういう世の中の流れやら私がおかしてきた多くの失敗やら成功やらを経験してみると遥か昔に聞いたただ毎朝やることが世の中のためとか意義とかを問い詰めるより大事という言葉に妙に重みを伴って心に染みるのです。
当たり前のことをただやる。やることに意味を問わない。
そんな生き方が世の中を支えているという真実にはたと気がつくのです。
同級生の住職の言葉は何度も法事や葬儀で繰り返し聞いていますが何一つ記憶に残る話はないのに掃除の話は強く心に残って私の糧になっています。
やはりそういったものを実践している人の言葉は頭だけで作った話とは違うのです。
先のオリンピックでジャンプの選手が心ない誹謗中傷の声に一度ジャンプ台から飛んでみろと言ったのは正に至言であり誰も黙るざるを得ません。
そんな言葉だけのことが人々を傷つけたり励ましたりするのです。
それも日々実践し黙っていても行動で示す人は誰が見ていないようであっても自ずと多くの肯定が賛意となって取り囲むのです。
春のいちご大福もそんな人たちの人気の品で店頭に並んでいることはなく、二つありますかと問うと奥に入り整えてくれるといった案配です。
昨秋の栗蒸し羊羹は品切れが重なり食べられませんでした。
解っている人は大勢いるのです。そう思える最近の傾向に昨日までのお気に入りが続いているのになにか落ち込む、楽しくない気分は一掃されました。
相変わらず配達に行くと目が痒くなりくしゃみ鼻水は止まりません。
メガネとマスクをしていったのになんの効果もありません。
ですが春の憂鬱はケニアといちご大福の最強コンボで悲しい気分なんかぶっとばしちまったのです。ベィベー。