正面にも席があるのに、わざわざ隣に流は座った。
初対面の人間の距離にしてはあまりにも近い。
慌てて榊は距離を取ろうと身じろいだが、流はその腕をがしりと掴んだ。
「さかき、だっけ?」
流はそう言うとぐいと掴んだ腕を引いて顔を近づけた。
ほんの数十センチの距離に流の鼻先がある。
品定めるように顔を見られて、榊は思わず目をそらした。
「目をそらすな!」
流の手が榊の顔をとらえた。
華奢な指先や手首からは想像出来ない程の力で顔を押えられ、強制的に視線は戻された。
流の大きな瞳があまりにもまっすぐ真剣で、榊は息をのんだ。
「目を、そらすな。」
もう一度、静かに流は言った。
「僕から、目をそらすな。
僕だけを、見続けろ。
僕だけを、ずっと見ているんだ。」
僕だけを、そう呪文のように流は言った。
言い聞かせるように強く、しかし不安げに手は震えていた。
「あなただけを、見ます。
これから、ずっと傍にいます。」
榊は、顔を掴んでいる流の手をそっと握った。
流がびくりと身を震わせた。
泣きそうな顔をしている気がして、榊は微笑んだ。
この美しい手負いの獣を、安心させてやりたいと思った。
護ってやりたい、と思った。
何故かはわからないが、そうするのが自分の役目だ、と榊は思った。
「絶対だからな、榊。」
はっきりとした声で言うと、突然握っていた榊の手に思い切り噛みついた。
「いてっ!…水無月さん?」
噛まれた手の甲にはじわりと血が滲み、歯形がついてしまっていた。
非難の視線で流を見遣ると、ひらりと席を立っていた。
「流、だよ。流でいい。」
ピアノに背もたれて、また尊大な物言いでにやりと笑った。
噛まれた理由も訳が分からなかったが、とりあえず受け入れられたようだ。
榊は困惑しながらも、危なげで生意気な少年を微笑ましく思った。
ちょうどいいタイミングで廊下からはぱたぱたと足音が聞こえてきた。
「お茶をお入れしましたよ~」
依田の呑気な声で、先ほどまでの空気はかき消えたようだった。
「この間頂いたカステラで頂きましょうね」
依田は榊の目の前のテーブルにティーセットを広げた。
アンティークのティーセットに、紅茶の赤がよく映える。
「榊、特別に何か弾いて上げよう。何がいい?」
流はピアノの椅子に腰かけて言った。
「あら、珍しい!ちょっと居ない間にもう仲良くなられたんですねぇ、良かったわぁ!
じゃぁお邪魔しないように私は下がりますね。ごゆっくりしてらしてね。」
人の良い笑顔を榊に向けると、依田は部屋から去って行った。
「じゃぁ…先ほど弾いていた曲を。あれは何という曲ですか?」
「さっき?…あぁ、題名なんてない。思いつきで弾いてた遊びだ。第一、あんな暗いのじゃティータイムに合わないだろ。」
つまらない、という顔をして流は言った。
そして、一呼吸考えると、流はピアノを弾き始めた。
ティータイムに合う、落ち着いた明るい曲だった。
雨がふる暗い夜である事を忘れるくらい、優しい音色だった。
細い指が鍵盤の上で軽やかに踊り、その度に細い髪が揺れた。
メロディーと共に神が降りてきたかのように、ピアノを弾く流は神々しく美しかった。
「こんな感じかな。ティータイムっぽかっただろ?」
最後の一音を弾き終わると、流はまた横柄な少年の顔に戻った。
即興でこれほど弾いてしまうとは、天才ピアニストの名は本物だった、と榊は感動した。
そして、天才はやはり一筋縄ではいかなそうだ…と、血のにじむ手の甲をさすったのだった。



