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1937年7月に始まった日中戦争が終わりのない戦争になりつつある中、1938年のことであります。
1940年(紀元2600年)開催予定の東京オリンピックは開催返上、東京で開催するはずだった万国博覧会も開催中止と非常時は徐々に文化行事やスポーツにも影響を与え始めていました。
資材や人材の不足、資金不足、陸軍側の反発など現場ではあらゆる状況が国際行事開催に否定的な空気でした。
プロ野球も例外ではありませんでした。
1939年には日本職業野球連盟は「職業」の名を外し日本野球連盟に変更しました。
さらに東京六大学野球に熱狂する学生に対して文部省は「アメリカの模倣で見せるための野球に堕し戦う精神を閑却している」と批判、加えて「用具の使い方もアメリカ風の無作法を誇りとする風がある」とアメリカ野球を否定する風向きに変わりました。
国際的な孤立が深まる中、日米関係も悪化。
これは野球界にも影響を及ぼし、1940年9月15日の理事会では、連盟の綱領から、「メジャー野球に追いつけ・追い越せ」といったフレーズや「世界選手権を争う」といった文言が消えてしまいました。
戦争という非常時は野球さえ敵性スポーツとしてみなされるようになりました。
一方で「日本精神に即する日本野球の確立」といった精神主義に取り込まれていきました。
読売新聞社の正力松太郎は、かつてはメジャー野球を礼賛していたが、アメリカの日本への対応は「宣戦布告も同様」と批判するなどマスコミも反米的な主張を声高に叫ぶようになります。
第二次世界大戦に日本も参戦するや、マスコミ各社は多くの特派員を戦地に送り込み、戦争報道で販売部数を増やし、敗戦後、戦争責任の一端を問われることになります。
プロ野球の現場も大きな変化が起きていました。
いわば、スポーツの冬の時代の到来です。
戦時色が強くなり、プロ野球は試合前に手榴弾投げを実演、またロシア系の選手だったビクトル・スタルヒン投手(巨人)は「須田博」と氏名変更することになります。
英語表記は激減し、またユニフォームのロゴは日本語になり、打者は死球を避けてはいけない、「盗塁」は「奪塁」、「ストライク」は「よし1本!」、「ボール」は「ダメ」、「ファウル」は「圏外」、「バント」は「軽打」、「プレーヤー」は「戦士」というように従来の野球用語は次々と妙な日本語に変わってしまいました。
連盟の規律委員の役割を担っていた巨人創設者の一人・鈴木惣太郎は、連盟の当局への余りの迎合に「ばかばかしくやっておられない」と「日記」に書き、憤慨して委員を辞任してしまいました。
プロ野球は、当局の厳しい管理下にありながら規則や用語を変えながら最後までしぶとく生き抜いたが、メジャー野球に追いつき追い越せを願う鈴木には我慢ならなかったようです。
1943年にはユニフォームは国防色、ストッキングは黒、帽子は戦闘帽となりました。
この頃には食料も用具も困窮し、古いボール⚾️を使い回ししたため、極端な投高打低になっていました。
それが記録にも現れていて、1942年は呉昌征選手(巨人)が打率.286というプロ野球史上最低打率かつ史上唯一の3割未満の首位打者となりました。
1943年は藤本英雄投手(巨人)が防御率0.73という現在も破られていないプロ野球記録で最優秀防御率となり、呉昌征選手(巨人)が打率.300で2年連続首位打者となったが、実際は.2996を切り上げたものでした。
1944年は戦局悪化にともない、連盟は日本野球報国会と名称を変えました。
選手も戦地に赴くケースが増え、チームは合併が続き東京巨人軍、朝日軍、阪神軍、産業軍、阪急軍、近畿日本軍といずれも「軍」が末尾につく軍国主義的組織となり7チームから6チームに減少しました。
また、背番号が廃止されました。
選手は、昼間は軍需工場で働き、試合は週末に行うことになりました。
だが秋には応召で選手はさらに減少、チーム編成は不可能になり、9月26日に総進軍大会が終了すると、以後、ついに連盟も活動を休止し、残った選手たちは親会社の電鉄や軍需工場などで「産業戦士」として働くのが日常となりました。
11月13日、日本野球報国会は、野球の休止声明を発表して活動は休眠することになりました。
1945年の公式戦は開催されないことが決定したが、阪神が非公式戦の正月大会を企画しました。
阪神は、阪神・阪急・産業・朝日所属で関西近辺に残留している選手をかき集めて、1月1日から1月5日にかけて、甲子園球場と西宮球場で大会を開催しました。
この大会が終戦前最後の職業野球であるとされています。
試合の内容は公式記録に残されておらず、大阪帝国大学附属医学専門部の学生で熱烈な若林忠志投手(阪神)のファンであった伊藤利清によってすべての試合のスコアが記録されています。
大会の存在はごく一部の人間にしか知られていなかったが、スコアをつけていた伊藤の存在を知った作家の鈴木明によって、はじめて光が当てられました。
鈴木は『小説新潮』で発表した『分裂』の中で、試合が行われた最終日の1月5日を「プロ野球が死んだ日」と称しました。
第二次世界大戦で多くのプロ野球選手が戦没しました。
特に、巨人の沢村栄治投手や吉原正喜選手、阪神の景浦将選手、戦前最後のノーヒットノーランを達成し、神風特別攻撃隊員として戦死した名古屋の石丸進一投手、一塁守備の名手で「タコ足」と呼ばれた黒鷲の中河美芳選手などが知られています。
その他にも、多くの選手が戦争によって命を落としました。
8月15日に終戦を迎えたが、兵役によりチームを離れた者や休止をきっかけにユニフォームを脱ぐ者が多かったため、職業野球の各チームは崩壊状態でした。
終戦を機に各チームは再建に奔走し、終戦からちょうど100日目の11月23日に巨人(読売ジャイアンツ)・名古屋(現在の中日ドラゴンズ)・セネタース(終戦後創立、現在の北海道日本ハムファイターズ)の選手で編成された東軍と阪神(阪神タイガース)・南海(現在の福岡ソフトバンクホークス)・阪急(現在のオリックス・バファローズ)の選手で編成された西軍との「日本職業野球連盟復興記念東西対抗戦」が神宮球場で開催されました。
その後も、群馬・兵庫で東西対抗戦が開催され、計4試合の職業野球の試合が開催されました。
1947年、戦死した沢村栄治投手の背番号14は巨人の永久欠番となり、彼の功績を称えるため、最も活躍した先発投手に贈られる「沢村賞」が制定されました。
1981年4月、後楽園球場前に「鎮魂の碑」が設置されました。
東京ドーム建設後には、同地前に移動しています。
この石碑は2枚あり、1枚は戦死したプロ野球選手の名前、もう1枚はプロ野球選手で唯一、特攻隊員として戦死した石丸進一の兄、石丸藤吉(元名古屋の選手)の追悼文と、建立時のセ・リーグ会長だった鈴木竜二による「建立趣意文」が刻まれています。
さらに戦後60年を経て、戦争で命を落とした中等学校・大学・社会人野球の選手(プロ野球在籍者は含まない)を対象にした「戦没野球人モニュメント」が設置されました。
その碑には167人の名前が記されています。
中等学校、大学、社会人、プロ選手など戦争により亡くなった選手、OB、関係者はこの数ではないだろうが、終戦の日、これらの碑を見て白球を追いかけた先人の足跡を忘れてはならないことを想起したいものです。