今年は戦後80年、被爆80年。
広島電鉄の路面電車がJR広島駅ビル2階に高架で乗り入れる「駅前大橋ルート」が8月3日、開業しました。
大勢の市民や鉄道ファンが詰め掛ける中、広島原爆で被爆し、復興の象徴となった「被爆電車」650形も高架橋を走りました。
路面電車が高架でJR駅ビルに乗り入れるのは全国初です。
同ルートは、電鉄広島駅と比治山町交差点(いずれも広島市南区)を結ぶ約1.1キロ。
開業により、JR西日本広島駅への移動や市中心部へのアクセスが便利になりました。
電鉄広島駅の電停前では午前5時半から出発セレモニーがありました。
広島電鉄の仮井康裕社長は「真新しいプラットホームから出発する電車は、次の100年に向けて走り出す一番列車。広島の町で電車を走らせ続ける覚悟を持って運行していきたい」とあいさつしました。
電鉄社員の「出発進行」の合図で、午前6時1分に一番列車が出発すると、集まったファンらの大きな拍手が起きました。
その後、修理を経て現役で運行する「被爆電車」650形651号が続きました。
広島電鉄は8月9日、同社が保有する最古の車両である150形156号を特別運行しました。
156号も「被爆電車」のひとつ。
8月9日は、原爆投下後に営業運行を再開した記念すべき日であり、「再生の日」から80年を機に特別運行しました。
広島電鉄は1945年8月6日の広島原爆投下で被災し、従業員185人が犠牲となりました。
路面電車は全線不通となり、保有していた電車も108両が損傷しました。
しかし、被爆からわずか3日後の8月9日には、広電西広島~観音町間での営業運行を再開。
焼け野原を走る電車の姿は人々を勇気づけたといわれています。
156号は1925年製で、今年100歳を迎える広電最古の車両です。
原爆投下時は広島市中区江波付近に留置されていたところ、爆風により中破の損害を受けましたが、1946年3月に復旧。
同型の車両が全面的に廃止となった1971年まで運行を続けました。
本線を走行するのは2020年以来5年ぶりとなりました。
運行は8月9日の午前7時40分頃から千田車庫を出発し、8時頃に原爆ドーム前を通過。
その後、広電西広島、観音町、横川を経由して、江波には午前9時20分頃に到着しました。
乗客を乗せての運行ではありませんが、このうち広電西広島~観音町間は、原爆投下後最初に復旧した区間である当時の己斐~西天満町間に相当します。
特別運行について、広島電鉄は「被爆という絶望的な危機を乗り越え、戦後80年を迎えることができたという感謝の思いを込めて実施する」としていました。
広電に現存している「被爆電車」は4両。
主に朝のラッシュ時に客を乗せて走る「現役」は650形2両で、貸し切り運行にも対応しています。
うち1両は、爆心地から約700メートルの「中電前」電停付近で被爆した車両だそうです。
他に、当時の塗装を復刻したイベント用の650形1両と150形1両があります。
7月27日、教職員らでつくる広島平和教育研究所などが被爆電車を使って行った平和学習では、2両にそれぞれ被爆者が乗車し、原爆ドーム付近などを巡りながら、参加した小学生と保護者の計約90人に悲惨な体験を証言しました。
「左半身が焼かれ、80年たったがやけどの痕が残っている。死にたくない、死にたくないと思い逃げた」。
14歳の時、爆心地から約1キロで被爆した増岡清七さん(94)=広島市中区=は、被爆体験を語りました。
増岡さんが「命を大切にしなくてはいけない。そのために戦争をなくし、平和でなければならない」と訴えると、小学生らは真剣な表情で耳を傾けていました。
被爆電車は、台車やモーターなど多くの部分が当時のまま残る「証人」でもあります。
広電の広報・ブランド戦略室の担当者は「被爆を物語る貴重な車両。大事に使い、被爆の実相を伝えるために、一日でも長く走らせたい」と話しています。